第89話  そして二人の時は動き出す

「綾乃、本当にすまなかった」


 箸を置いた修治はそう言って綾乃に向かって頭を下げた。

 まさか突然頭を下げられると思っていなかった綾乃は面食らう。


「ど、どうしたんですか突然。頭を上げてください修治さん。というか、修治さんが私に謝る理由がないじゃないですか」

「謝る理由ならいくらでもある。というかそもそも今日は綾乃に改めて謝るためにこうして来たわけだからな。これは俺にとってけじめでもあるんだ」

「修治さん……」


 けじめ、その言葉に綾乃は何も言い返せなくなる。

 修治が謝っているのは前回のことだけではない。今までの全てを込めた謝罪なのだと綾乃にも伝わったから。修治の隣にいる朱音は何も言わずに二人の成り行きを見守る。たとえどう落着するとしても二人に任せるつもりでいた。


「……修治さんは、前に私に会った時どう思いましたか?」

「どう思ったか?」

「今の私を見た時の率直な思いを聞かせて欲しいんです」

「綾乃を見て思ったこと? それは……やっぱり驚いたよ。俺の知ってる姿とは全然違ったから」


 修治が『性転換病』に罹った綾乃に会ったのは二回。『性転換病』に罹った後に引っ越すまでに一度と、前回雨の日に迎えに行った時だ。

 修治は前回会った時、かなり驚いた。一瞬綾乃だとわからなかったほどだ。それほどに印象が変わっていた。


「こんな言い方していいのかわからないけど……前の雨の日に会って初めて受け入れることができたのかもしれない。綾乃は女の子になったんだって」

「そうですよね。私もそう思います。昔私を知ってる人ならきっと今の私の姿を見て驚くんでしょうね。もしかしたら揶揄する人もいるかもしれません」

「いや、そんなことは……」


 ない、とは修治には言い切れなかった。中学生の頃、綾乃がどんな扱いを受けていたのか人づてではあったが知っていたから。だからこそ綾乃の言葉を否定することはできなかった。


「別に気を遣ってもらう必要はありません。それが普通なのもわかってますから。だからこうしてこっちの方に引っ越してきたわけですし」

「…………」

「でも、それが悪いことだとも思わないんです」

「え?」


 綾乃の声が一段高くなる。その表情は非常に明るかった。

 思い浮かべるのは零斗のこと、更紗やいずみ、菫や生徒会の面々達。それ以外にも学園で出会った人達のこと。多くの出会いが今の綾乃を作り上げていた。


「あの時のことがあったから、今こうして私はここに居て。その……大切な人もできましたから。つまり何が言いたいのかっていうと、私、ここに来て良かったなって思ってます。昔とは色々と変わったけど、変わったからこそ得られたものをたくさんありますから。それはきっとあの『過去』があって『今』に繋がったんだって、ちょっとだけですけどそう思えるようになりました」


 綾乃は過去のトラウマを乗り越えたわけではない。それでも過去のトラウマと少しずつ向き合い始めていた。それだけでも大きな成長と言えるだろう。


「だから修治さんも、もう『過去』の事は気にしないでください。私への罪悪感だとか、そういうことに縛られて『今』から先に続く『未来』を大切にして欲しいんです。具体的に言うなら……姉さんとの未来のことを」

「っ! あ、綾乃!? 急に何言い出してるの!」

「誤魔化すことないでしょ。私だって何も知らないわけじゃないんだから。私のことがあったから修治さんからのプロポーズを保留にしたことも知ってるんだから」


 綾乃は知っている。朱音がどれだけ修治のことを愛しているかを。ずっと昔から二人のことを見てきたのだから。そして朱音と同じように好きな人が、零斗という大切な恋人ができた今だからこそわかる。

 共に在る未来、結婚という道を踏みとどまった二人がどれだけもどかしい思いをしていたのかを。

 これ以上朱音や修治を無用の罪悪感で縛りたくない。二人の道の邪魔をしたくない。それが今の綾乃の偽らざる気持ちだった。


「二人が懸念してることはわかります。ハルとのことは私だってどうなるかわかりませんから。でも、私はもう一人じゃないから。きっと大丈夫です」


 何か根拠があるわけではない。ただそれでも綾乃はそう信じていた。


「……強くなったんだな、綾乃は」


 まるで眩しいものを見るかのような目で綾乃のことを見る修治。

 修治の知る綾乃は朱音や修治の後をずっと追いかけてくるような、何かあればすぐに泣きついてくるような。そんな姿ばかりだった。

 だが今の綾乃はもう違う。いつまでもただ守られるだけの存在ではないのだと一抹の寂しさと共に受け入れることができた。

 

「わかった。綾乃の言葉を信じるよ。それとありがとう」

「別にお礼を言われるようなことでもないと思いますけど。むしろ今まで申し訳なかったというか。えっと、姉さんのことよろしくお願いします」

「あぁ、任された。きっと幸せにしてみせるよ」

「~~~~~~っ、ちょっと! なんかそっちで勝手に話進めないでくれる!?」


 いよいよ耐えきれなくなった朱音が顔を真っ赤にして割り込んでくる。そもそも結婚の話は朱音にとっても無関係ではないのだから、当然と言えば当然なのだが。


「えっと……あ、そっか。もしかして私、席外した方が良い?」

「変な気は使わんでよろしい! というかシュウも――」


 滅多に見れない朱音の慌てふためく姿に綾乃は思わず笑ってしまう。そしてそんな綾乃を見てさらに朱音がヒートアップして。結局綾乃と修治が二人がかりで宥める羽目になってしまった。

 この日、綾乃と修治の間にあったわだかまりは解消された。元通りではなく、新しい形で向き合い始めた。

 そして後日修治は朱音に改めてプロポーズし、それを朱音は受け入れた。二人にとって待ち望んだ瞬間でもあり、止まっていた二人の時間がようやく再び動き始めた瞬間だった。





 ~~第三章 完~~

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