第87話 それぞれの夏休み 零斗編
「あー……」
ベッドで仰向けになった零斗はボーッとした目で天井を見つめる。
その脳裏を埋め尽くすのはたった一つの感情だけ。
(……眠い。ただひたすらに眠い。昨日遅くまで司とオンゲしてたんだよなぁ。つい熱中しすぎた。あー……今日ってなんか予定あったか? いやないな。なかったはず。じゃあいいか。寝よう。あー、この二度寝に落ちる瞬間が人生でなによりも至福――)
「起きて兄さん」
「あだっ!?」
急に鼻頭に痛みが走って強制的に眠りの世界から呼び戻される零斗。誰の仕業かなんて確認するまでもなかった。
「なにすんだよ菫!」
「なにすんだよ、じゃない。もうとっくに起きる時間は過ぎてる」
零斗のベッドの隣に経つ菫は冷ややかな目で零斗のことを見下ろす。その手には零斗を起こすのに使ったであろう大きな洗濯ばさみが握られていた。
「起きる時間って。別にいいだろ夏休みなんだから。俺は眠いんだ……」
「眠いのは遅くまでゲームしてたせいでしょ。もう十時過ぎてる。今日は天気も良いし、布団も干したいから早く起きて」
「布団なんか別に今日じゃなくても干せるだろ」
いつもならば菫の言うとおりに起きていたかもしれない。しかし夏休み、そのうえ深夜までゲームをして疲れていた零斗にとっては何よりも眠気が勝っていたのだ。
しかしそんな零斗の態度は菫にとっては非常に癪に障るものだった。
「そう。わかった。兄さんがそんな態度ならこっちにも考えがある」
「おーおー、好きにしろ。俺は絶対にベッドから降りない。今の俺とベッドは一蓮托生、深く愛し合ってて切っても切り離せない関係なんだ」
「あ、もしもし綾乃さんですか?」
「っっ!!??」
綾乃の名前を聞いた瞬間、零斗はベッドから飛び起きた。零斗とベッドの愛が断ち切られた瞬間である。
「ち、違うんだ綾乃! ベッドと愛し合ってるって言ったのはあくまで比喩的な表現というか、本気で言ってたわけじゃ……って、おい菫。もしかしてお前……」
「ふふ、電話してないよ」
ヒラヒラとスマホを振る菫。
菫は零斗を起こすためだけに綾乃に電話をかけるフリをしたのだ。そして効果覿面、零斗を起こすことに成功していた。
「こんなことで綾乃さんの手を煩わせるわけない。まぁホントに綾乃さんに電話してたらきっと呆れられただろうけど。ほら、起きたなら早く顔洗ってきて。その間に布団干したりするから」
「~~~~っ、あーもうわかった。わかったよ。起きればいいんだろ」
これ以上逆らったら本当に綾乃に電話されるかもしれない。そう思った零斗は寝ることを諦めて洗面所へと向かった。
「なんか菫のやつ最近母さんに似てきたというか。ちょっと変わったか?」
「変わったんじゃなくて、変えたの」
「うおっ、びっくりした」
顔を洗いながらぼやく零斗。その後ろからやってきた菫が洗濯機を回す準備をしながら零斗の言葉を訂正する。
「はいタオル」
「おう、ありがとう。でも変えたってどういうことだ?」
「だって兄さんは今のままじゃ気づいてくれなさそうだから」
「気づいてくれないって、なんのことだよ」
「ほらね。だからわたしは今のままじゃダメだって。そう思っただけ。それより早く着替えてきて。ついでにその服も洗濯するから」
「……わかった」
結局菫の言葉の真意を探ることはできず、モヤモヤした感情を抱えながら零斗は部屋に戻って服を着替えた。まだ若干の眠気は残っているものの、すぐにベッドにダイブしたいというほどではなくなっていた。
「もう十一時前か……この時間だと朝ご飯っていうより昼ご飯だな」
「今日は兄さん、なんの予定もないの?」
「あぁ、なーんの予定も無いな。というか予定あったら起きてるし、昨日遅くまでゲームしたりしない。菫は?」
「わたしも特に予定は無いよ。夕方に買い物に行こうと思ってるけど、それくらい。今冷蔵庫の中空っぽだから」
「マジか。え、じゃあ今日の昼ってどうするんだ?」
「兄さんがお腹空いてるなら何か適当に買ってくるか、出前とか頼んでもいいけど」
「この時間ってけっこう暑いよなぁ。出前ってのも大げさな気がするし」
「あ、でもそうめんならあるよ」
「お、そうめんか。いいな、そういえば今年まだ食べてなかった気がするし」
「じゃあ決まりだね」
「俺もなんか手伝うか?」
「茹でるだけだし、わたし一人で大丈夫だよ。兄さんは課題でもしてたら?」
「うっ、嫌なこと思い出させるなよ」
「どうせその内目を逸らせなくなるんだから今のうちに始めればいいのに」
「あのな菫、夏休みっていうのは休みなんだ。休みの日は休む、これは当然のことなんだ。だから俺は全力で休む」
「なんか良い風に言っても意味ないからね。それで結局後で困ることになるのは兄さんなのに。綾乃さんに怒られても知らないよ。というか、もしかして綾乃さん頼りにしようとしてないよね?」
「そ、そんなことはないぞー」
「目が泳いでるけど。まぁでも確かにまだ夏休みも始まったばかりだしね。そんなに急がなくてもいいかもしれないけど。困るのはわたしじゃなくて兄さんだし」
「そういうお前はどうなんだ? ちゃんとやってるのか?」
「もう八割終わってるよ。七月中には終わらせる予定」
さらっとなんでもないことのように言う菫。
菫は零斗と違って面倒事は早く終わらせる派だったので、計画的に宿題を消費する予定を立てていた。
「そう言えば兄さん、昨日は何のゲームにそんなに集中してたの? ずいぶん楽しそうだったけど」
「昨日はあれだ。最近発売されたばっかのRPGやってたんだよ。オンラインで協力できるやつで、意外とハマったんだよな。キャラメイクとか結構細かくてそれだけで一時間以上使ったくらいだ。それで昨日は司とずっとやってたんだよ」
「へぇ」
「興味あるならやってみるか? って、菫はゲームに興味ないか」
「いいの?」
「いいのって……やってみたいのか?」
「ちょっとだけ」
興味があるという菫の言葉に零斗は驚く。そもそも菫はゲームをあまりしない。軽く流されるだけだと思っていたのだ。
(でも、そう言えば最近と菫と二人で過ごすようなことも無かったからな。たまにはそういう日があってもいいだろ)
すっかり兄離れしたと思っていた菫が一緒にゲームをしたいと言ってくれたことに喜ぶ零斗。実際は全く兄離れなどしていないのだが、零斗はそんなことには全く気付いてはいなかった。
「じゃあまぁやってみるか。どうせ今日はなんもすることなくて暇だしな」
「ん、やる。ちょっと予定早めてお昼にしよう。そしたら気兼ねなくできるから」
そうして早めに昼食を済ませた零斗と菫は一緒にゲームに興じた。
その後、思った以上にそのゲームにハマった菫が蘭に勧めたことでちょっとした騒動が起きたのだが。それはまた別の話である。
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