第86話 それぞれの夏休み 綾乃編

 ピピピピ、ピピピピ。


「ん……んー……」


 目覚ましの音に綾乃は目を覚ます。朝の心地よい眠りを邪魔する音に不愉快さすら覚えるが、その不愉快さをかみ殺して綾乃は目覚ましを止める。

 現在時刻は朝の六時半。夏休みということを加味すればかなり早起きと言えるだろう。


「…………」


 体を襲うのは二度寝の誘惑。心地よい布団の柔らかさがさらにそれを後押しする。しかし綾乃は耐えた。ただ精神力のみで二度寝の誘惑に打ち勝ってみせたのだ。


「……顔洗おう」


 無理矢理自分の体をベッドから引きずりだし、洗面所へと向かう。


「ふぁ……夏休みだって思うとなんかやっぱり起きづらいなぁ。心がだらけてる証拠なんだけど。ダメダメこんなんじゃしっかりしないと。よしっ!」


 綾乃は冷水で顔を洗って今度こそ完全に眠気を吹き飛ばす。そのまま身支度まで済ませた綾乃はキッチンへと向かって朝ご飯の用意を始めた。

 と言っても用意するのは簡単なトーストと目玉焼きとハム、そしてサラダだけだ。


「最近ちょっとずつレパートリーは増やしてるけど。うーん、どうしても朝は簡単に済ませてしまう。朝ってあんまり食欲もないしなぁ。というか朝の忙しい時間にSNSに上がってるみたいな完璧な朝食とか作ってる暇無いし。あんなの絶対嘘でしょ」


 そんな誰に向けたのかよくわからない文句を言いながらハムを焼いている内に、その匂いにつられて朱音がリビングにやってきた。


「ふぁあ~、おはよー」

「おはよう姉さん。って、なにそのだらしない格好! 早く着替えてきて!」

「えー、別によくない? だってまだ仕事行く時間じゃないしさー」

「そうやって毎朝慌てて用意してるでしょ。知ってるんだから。メイクとかは後でもいいけど、とりあえず髪だけでも整えてきたら? その間に朝ご飯の準備も終わると思うから」

「ふぁーい」


 のそのそと歩きながら洗面所へと歩いて行く朱音。その姿を見て綾乃はため息を吐く。


「ほんとにだらしないというか。あれで仕事は優秀らしいから信じられないけど。まぁ姉さん昔から外面はいいし。人は見かけによらないというか」


 その後、身だしなみを整えた朱音が戻ってきてから揃って朝食を食べる。ここ最近はずっと綾乃が朝食を作っていた。夏休み前は朱音が作ったり、綾乃が作ったりと日によって交代していたのだが、夏休みの間は綾乃が作るという決まりになっていた。


「うーん、綾乃もだいぶ上達したよねぇ。お姉ちゃんは嬉しいよ」

「こんな簡単な朝食で上達したって言われてもちょっと複雑なんだけど。ところで姉さん、前に話したことなんだけど」

「あー覚えてる覚えてる。でも本当に大丈夫? シュウも無理することないって言ってたけど」

「ううん。大丈夫。どっちにしても実家に帰る前に一度は話をしておきたかったし」

「……そっか。わかった。じゃあこっちで話は進めておくから」

「うん、お願い」

「でも成長したね綾乃。ううん、成長とはまたちょっと違うか。何度も言うけど変わったね綾乃。もちろん良い方向に。目を離すとあっという間に変わっちゃうから、あたしびっくりさせられてばっかり」

「そう……なのかな。だといいんだけど」

「綾乃は変わったよ。あたしが心配する必要もなかったかもね」

「そんなことはないんだけど。でも確かに姉さんがいつも家でだらしない格好して頼りないから、変わらざるを得なかったってのはあるかもね」

「え? そうなの? じゃあこれからももっと家でダラダラしようかなー」

「って、そうじゃないでしょ! そこは反省してくれないと」

「善処します」

「確約してください」


 そんな他愛の無い話を繰り広げながら朝食を済ませる桜小路姉妹。そうこうしている内に朱音は出社時間となり、仕事に行きたくないとぼやく朱音の背を押して無理矢理出社させた綾乃はそのまま家の掃除を始めた。


「洗濯機回してる間にリビングの掃除。普段は休みの日にしかできないし、いつもよりも細かいところまで掃除しないとね」


 中学生の頃は実家に住んでいて家事は手伝い程度だった綾乃だが、朱音と共同生活するようになってから学び、すっかりハマっていた。

 休みの日に何もすることが無い時には掃除や料理の動画を見て学んでいるほどだ。


「今年の夏は色々予定が入ってるからあんまり時間作れないけど、でもできれば大掃除はしたいなぁ。いつならできそうかな」


 頭の中で夏休みの予定を組み立てる。しかし考え始めてすぐに気がついた。そもそも予定と呼べるようなものがほとんどないということに。


「零斗と一緒に実家に帰るのは来月の中頃だよね。まだ詳しい日にちは決めてないけど。後は海に行くのが八月の頭で……それ以外の予定ってほとんどないかも。いや、いやいやいや。別に空いてるわけじゃなくて空けてるだけだから。いつ零斗とか更紗達から声がかかるかわからないし」


 そうは言いつつも綾乃自身もわかっていた。綾乃は基本的に受け身なのだ。まず自分から誘うということをしない。誘われれば断らないが、自分から誘う勇気が無かった。


「……それじゃダメだよね。零斗達から声をかけてもらうのを待つんじゃなくて、自分から誘うくらいにならないと。よし、決めた。今年の夏の目標はそれにしよう。三回、最低三回は私の方から遊びに誘う」


 これもまた綾乃の変化だった。これまで綾乃はどこか人と距離を置こうとするところがあった。誰かが自分に近付いてくるのも、自分が誰かに近付くのも怖かったからだ。

 しかしそんな綾乃が変わり始めているのは零斗や更紗、いずみ達の存在が大きいだろう。


「えっと、それじゃあまずは零斗に連絡を……ゴホン、今日空いてるかな? もし良かったら今日会えない? とかでいいかな」


 いざスマホを取り出し零斗に電話をかけようとする綾乃。しかしコールを押す前にその指が止まる。


「でもいきなり電話したら迷惑かな。この時間だと零斗まだ寝てるかもしれないし。うん、そうだよ。迷惑なのはよくない。電話するのはまた今度にしよう。それに今日は宿題もしなきゃいけないし」


 自分に言い聞かせるように呟いてスマホをしまう綾乃。

 綾乃は確かに変わった。しかしまだ全てが変わったわけではない。受け身な姿勢はそう簡単に変えられるものではないのだ。

 綾乃が自分から零斗のことをデートに誘えるようになるのはまだまだ先の話である。

 

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