第78話 『過去』と『今』
「えっと……とりあえず落ち着いたか?」
「うん。ありがと、もう大丈夫」
目元を手で拭いながら照れたような笑顔を零斗に向ける綾乃。その仕草に零斗は思わずドキッと胸を高鳴らせた。もちろん顔には出さないよう気をつけたのだが。
だがそこでようやく零斗は今の自分の状況を冷静に俯瞰した。
(家族が誰もいないこの状況で部屋に二人っきり。しかも雰囲気も悪くないときた。これはもしかして……)
零斗の胸中にムクムクと湧き上がってくるのは年頃の男子としてはごく自然の欲求。特殊な境遇にあるとはいえ、今の零斗と綾乃は普通の恋人同士。零斗がそうした欲求を抱いてしまっても仕方のないことだった。
「? どうしたの零斗」
「うっ」
綾乃の体から香るほのかな花の匂い。そして抱きしめた体の柔らかさが零斗の本能を刺激する。
そうして意識した途端、零斗の本能が理性を蹴り倒そうとする。
(っっ!! バカか俺は! いくらなんでも今じゃないだろ! 状況考えろ状況を! 綾乃にそんなつもりないのに俺が本能に負けたら元も子もないだろうが!)
なんとかギリギリの所で本能を押さえつけた零斗は再び本能が刺激されないうちにと綾乃の体を引き離す。若干名残惜しさを感じたのは零斗だけの秘密だ。
「ふぅ……なんでもない、大丈夫だ」
「だったらいいんだけど。でも、ごめんね零斗。いつも迷惑かけちゃって。今日は菫さんと買い物だって言ってたのに。菫さんにも怒られちゃうかも」
「あいつなら大丈夫だろ。今日だってあいつの方から行けって背中押されたしな」
「そうなんだ。いやでもそれは……嬉しいけど、菫さん的にはたぶん……零斗らしいって言えば零斗らしいけど。ちょっと菫さんが可哀想な気がする。私のせいなんだけど……」
「? なにが綾乃のせいなんだ?」
「~~~~っ、なんでもない! 零斗の鈍感!」
「なんで俺怒られてるんだ……まぁでも良かった。だいぶ調子は戻ったみたいだな」
「あ……うん。ありがとう。もう大丈夫だから。でもなんか冷静になるとすごく恥ずかしいことしてたかも……あぁなんか急に顔が熱い……」
自分のしたことを思い出したのか綾乃は耳まで真っ赤にして俯く。場の空気と勢いがあったとはいえ、零斗に抱きつき泣いてしまったのだからそれも無理はない。
「まぁ俺としては役得……ごほん! 綾乃の助けになれたなら本望だよ」
「……なんか今変なこと言いかけてなかった?」
「気のせいだろ気のせい」
「なんか誤魔化されてる気がする」
「そ、そんなことよりも。どうするんだ?」
「どうするって……何を?」
「決まってるだろ。その修治さんって人のことだ。このままでいいとは思ってないんだろ」
「それは……うん。そうだけど。でもどうしていいかわからなくて」
綾乃の胸中に渦巻く思いは様々だ。過去のトラウマ、そして姉の恋人であるということ、綾乃自身が昔は本当の兄のように思っていたこと。正負の感情が入り交じって雁字搦めになっているのだ。
「んー……小難しく考えすぎなんじゃないか? こういう時こそいったん簡単に考えた方がいい」
「どういうこと?」
「綾乃はその修治さんのことどう思ってるんだ? いったん朱音さんのこととか置いといてさ。お前自身にとってその人はどんな人なんだ?」
「私が……」
零斗に問われて綾乃は考える。修治のことをどう思っているのかを。
春輝の兄。朱音の恋人。それらの要素を取り除いた時に綾乃の目に修治はどう見えているのか。零斗はそれが知りたかった。
「修治さんは……修兄は、昔から頭が良くって、宿題とか手伝ってくれたりして。ゲームとかも上手くて。いつも勝てなくて悔しくて。いつだってどんな時だってオレ達のことを引っ張ってくれてた。だからオレは……」
過去のことを思い返す綾乃。振り返れば修治との思い出はいくらでもある。綾乃が忘れようとしていた、見ないようにしていた過去の思い出。
「目標だった。こんな人になりたいって、昔の『オレ』はそう思ってたから。今も同じかって言われるとちょっと違うけど。だけど……『私』は今でも尊敬できる人だって、そう思ってる」
それが偽ること無き綾乃の想い。だが今の綾乃はその言葉を修治に素直に告げることができない。その勇気が無い。
綾乃自身の『過去』が『今』を壊してしまうのが怖いのだ。
「綾乃。過去を無かったことにはできないぞ」
「それはわかってるの! わかってるけど……」
「違う。俺が言いたいのは、その過去があったおかげで今のお前があるってことだ。きっと何か一つ欠けてたらお前はここにはいなかった。こうして俺と一緒に居ることもなかった。何も全部無かったことにする必要なんて無い。ゆっくりでいい、少しずつでいい。『過去』を受け入れて見てくれ。俺は綾乃が『今』を受け入れられたみたいに、また『過去』を受け入れていけると思ってる。大丈夫だ。綾乃は――」
「一人じゃ無い、から?」
「よくわかってるじゃないか」
「ふふ、だってさっき言われたばっかりだし。そうだね。私はもう一人じゃない。零斗が、みんなが居てくれる。だったら私のするべきことは……」
答えはずっと見えていた。ずっとそこにあった。ただ綾乃が目を逸らし続けて見ないようにしていただけ。
恐怖が無くなったわけじゃない。むしろ答えを出そうとしている今、その恐怖はさらに強くなっていた。これでいいのか、間違っていないのか。何度も何度も自分自身が問いかけてくる。
それでも――。
「一人じゃない」
傍に居てくれる零斗の存在が綾乃に足りない勇気を補ってくれた。
綾乃は零斗の手をそっと握る。
「ねぇ零斗、私――」
「綾乃!! だいじょう……ぶ? え? あれ?」
綾乃の言葉を遮って部屋の中に飛び込んで来たのは、綾乃のことを心配して帰ってきた朱音だった。しかしそんな朱音が目にしたのは部屋の中で近距離で見つめ合う綾乃と零斗の姿。しかも綾乃の目は妙に潤んでいた。
「えっと……もしかしてだけど……お邪魔だった?」
「ち、違うからぁああああああっっ!!」
顔を真っ赤にした綾乃の悲鳴が部屋に中に響き渡った。
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