第77話 そっと抱きしめて
雨に濡れていた零斗を綾乃は慌てて家の中へと迎え入れた。
持っていた傘だけでは防ぎきれなかったのか、それとも傘を差すのも惜しむほど急いでやってきたせいか全身ずぶ濡れの状態だった。
濡れたままでは風を引くということで、綾乃はバスタオルを渡し、濡れていた服は乾燥機にかけていた。さすがにその間裸でいさせるわけにもいかず、零斗には押し入れにしまってあった修治の服を一時的に着させていた。
「いやー、悪いな。バスタオルに服まで借りて。思った以上に雨が強かったな」
「それはいいけど……なんで来たの?」
本当ならば零斗を家の中に上げるつもりはなかった。ただそれでも雨に濡れた零斗の姿を見て、帰ってと突き放せるほど綾乃は冷酷では無かった。
「なんで来たのかって聞かれたら……ほんとにわからないのか?」
「……私が、電話したから」
「なんだ、わかってるのか」
「でも、まさかあの電話だけでここまで来るなんて思わなかったし」
「あの電話だけじゃないだろ。俺が折り返してもメッセージ送っても無視したくせに」
「うっ……」
今回ばかりは気づかなかったではなく、意図的に無視していたため綾乃は気まずそうに目を逸らすことしかできなかった。
「あのなぁ。あんなことされたら心配になる決まってるだろ。あー今頃寝てんのかな、なんて呑気に考えるわけないだろうが」
「……ごめんなさい」
「別に怒ってるわけじゃないんだけどな。それに心配してきて正解だったみたいだ」
「え?」
「気づかないとでも思ってるのか。あのな、お前って思ってる以上に顔に出やすいタイプだってこと自覚した方がいいぞ」
「そ、そうかな? そんなつもりなかったんだけど」
「で、何があったんだ? たぶん帰る時になにかあったんだろうってことはわかるんだが、それ意外はさっぱりだ」
「それは……えっと……でもこれは私の問題で……」
「話したくない。話せないことだってなら俺も無理に聞き出すつもりはない。ただそれでも、お前が何かに苦しんでるなら俺はその助けになりたい。ダメか?」
「……ずるいよ、零斗は。そんな風に言われたら頼りたくなる」
「俺はドンとこいだけどな。ま、明確にどうにかできるかって言われるとそうでもないんだけどな。ただそれでも自分の中だけで抱えてるよりはマシだろ。話した方が楽になることってのもあるだろうしな」
二人の間に沈黙が流れる。
口を開こうとしては閉じを何度か繰り返した後、綾乃はポツポツと話し始めた。
「今日の帰りにね。修治さんに会ったの。あ、修治さんって言うのは姉さんの幼なじみで彼氏。私も小さい頃からずっとお世話になった人。本当の兄さんみたいに思ってた人。実はその服も修治さんのなんだ。押し入れの奥にしまってあった」
「そうだったのか。というか『思ってた』って、今は違うのか?」
「……修治さんはね、姉さんの幼なじみであると同時に私の親友だった人のお兄さんでもあるの」
「っ!」
その一言で零斗は理解した。綾乃に植え付けられたトラウマ。それが今回のことに関わっているのだと。
「修治さんは弟のしたことを謝りたいって、そう言ってくれたの。だけど私は……それを受け入れられなかった。それどころか優しくしてくれた、今までずっとお世話になってた修治さんに酷いこと言って」
綾乃の抱えるトラウマ。それが根本的に解決していないことを零斗は知っている。だからこそ迂闊なことは言えなかった。安易な慰めを綾乃が求めていないこともわかっていたから。
これはどちらが正しい、間違っているという問題ではない。綾乃の気持ちの問題なのだ。
「でも修治さんに向かって言った言葉は私にとって嘘ってわけでもなくて。だからこそ余計にタチが悪いんだけど。あの時言ったことは紛れもなく私の本心だった。それに……たぶん私、あんなこと言ったのはトラウマだけが原因じゃないの」
「? どういうことだ」
「姉さんを取られるんじゃないかって怖くなったの。実はね、修治さんは姉さんにプロポーズしてるんだよ。大学を卒業する時に。もちろん姉さんはそれを受け手お互いの仕事が落ち着いてきたらって話だったんだ」
「そうだったのか。朱音さんが……なんかちょっと意外だな。意外って言うと失礼か」
「ふふ、確かにあの姉さんが結婚だなんて想像もできないし。私も驚いたんだけど……だけど、その矢先に私がこんな風になって。一度話が流れちゃったの。原因が原因だったから。こんな状態じゃ話を進められないって」
修治と朱音が結婚するというのは綾乃と親友である春輝にとっても無関係ではいられない話だ。綾乃と春輝が仲違いしたままの状態で結婚などできないというのが当時の朱音と修治の下した結論だった。
「姉さんはずっと私の味方だった。いつも、どんな時だって。だけどもし私が修治さんからの謝罪を受け入れて、結婚の話がまた進み始めたら。そう考えたら急に怖くなったの。姉さんが私から離れていっちゃうんじゃないかって。また一人になるんじゃないかって」
綾乃が一番苦しかった時期。何もかもを投げ出したくなってしまった時期に綾乃を支えたのは朱音だった。
「情けないよね。そんな自分勝手な理由で、自分の気持ちだけで私は姉さんの幸せまで奪おうとしてる。そう思ったら自分のことがすごく嫌になっちゃったの」
話し終えた綾乃は自嘲するような笑みを浮かべていた。あるいは半ば自棄になっていたのかもしれない。
そんな綾乃に対して零斗は仕方のない奴だと半ば呆れながら口を開いた。
「そんな言い方したら俺がお前のことを嫌うとでも思ったのか?」
「え?」
「わかりやすいんだよ。自分のことを下げて下げて。嫌な奴だって思わせようとする。そんな見え見えの手に俺が引っかかるわけないだろうが」
「別にそんな……私はただ本当のことを言っただけで……」
「まぁ確かにそれはそうなんだろうな。だけどあんまり俺のことを見くびるなよ。今更そんな話を聞かされた所でお前に対する想いは微塵も揺らいだりしない。呆れてはいるけどな。それでも俺はどんなお前だって受け入れてやるさ。それくらいの度量はあるつもりだからな」
確固たる自信を持って零斗は言い放つ。
「きゅ、急になに言ってるの。恥ずかしいんだけど。というか、なんか少し……怒ってる?」
「あぁ、怒ってる。綾乃の話の中でどうしても納得できない所があったからな」
「納得できないところって……」
「お前は一人にはならない」
「あ……」
「俺は朱音さんじゃないから、勝手な想像にはなるけど。それでも確信を持って言える。もしその修治さんって人と結婚したとしてもあの朱音さんが綾乃のことを放っておくわけがないって。それに今のお前にはみんながいるだろ。藤原さんも、秋元さんも、生徒会の奴らだって。何より、俺がいる。俺が絶対にお前を一人になんかしない」
そっと近付いてきた零斗が綾乃ことを優しく抱きしめる。その温もりは綾乃の体だけでなく、冷たくなっていた心までも温めるようだった。
「……零斗の心臓、すごく鼓動が早くなってる」
「あ、当たり前だろ。こういうのは慣れてないんだ」
「そっか……ふふっ、零斗らしいね」
綾乃は恐る恐る零斗の体を抱きしめ返す。
赤くなった顔を、涙を流す顔を隠すように綾乃は零斗の胸に顔をうずめる。
「お願い、もう少しだけこのままでいさせて」
「あぁ、わかった」
それからしばらくの間、零斗は綾乃のことを抱きしめ続けた。
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