第2話 農奴の生活
ぐぎゅるるるる、と弟の腹の虫が鳴った。ミレナは鍬を地面について、後ろで縛った赤毛の髪を振り払うと、弟を振り返った。
「ごめんなあ、腹減ったよなあ、ティモ。姉ちゃんが不甲斐ないせいで、年始だってのに腹いっぱい食えねえんだもんなあ」
「姉ちゃんのせいじゃねえよ。それにこんくらいのこと、どうってことねえや」
ティモはじっとりした目でミレナのことを睨んだが、腹の虫の声は収まっていなかった。
「いんやあ、ティモはまだ育ち盛りだからなあ、腹も減るよなあ」
「いや、歳は姉ちゃんと一つしか違わねえけど」
「男の子はまだまだ育つ時期じゃて、父さんも母さんも言ってたもんなあ」
「……」
ティモは俯いた。
ミレナとティモの両親は去年相次いで病気で亡くなった。この村の他の農奴は薄情なもので、二人のことを病原菌扱いしてろくに近づこうともしない。それでも姉弟は二人だけで力を合わせて、何とか農地を耕し、農作物を売り、税金を領主様に納めている。
「泣きごと言ってたって始まらねえ。姉ちゃん、さっさと鍬を動かさねえと……」
「こらァ!!」
見回りに来た領主のダーフィト様が怒鳴ってこっちに来て、ミレナの頭を棒でぶった。ゴッと鈍い音がした。
「うちでの労働をサボるんじゃない!! ちゃんと働かないと家から追い出すぞ!!」
「はぁい、ただいまぁ」
ミレナは面倒臭そうに言って、凍えきった手で鍬を持ち上げた。今日は賦役労働の日だ。つまり、自分の家の農地を耕すのではなく、領主様の直轄地の農地を耕す労働の日。この労働も税の一部だから、きちんとやらないと家と土地を失ってしまう。
ティモは怯えて首を縮めていたが、ミレナは何事も無かったかのように鍬を動かし始めた。ティモは心配そうにそれを眺めながら、己も鍬を動かす。
「姉ちゃん、痛くねえか?」
「ん? 別に何ともねえよ」
「……。姉ちゃんってぐちぐち言う割には、ものすごく肝が据わってるなあ」
「そうか?」
「ぐちぐち言うのも俺のことばっかだし。自分に何かあっても、てんでこたえてねえじゃねえか」
「そりゃあ、ティモは姉ちゃんの一番大事だからなあ。正直言って他んことはどうだってええんじゃ」
「あんなあ。もっと自分を大事にしてくれねえと、俺だって困るよ」
「そっかあ、困るかあ。そりゃどうにかせにゃなあ」
「そうだよ。今日は食いもんを俺に押し付けんのは無しだからな。姉ちゃんもきちんと食わねえと、いざって時に体力が」
その時、ミレナの胸に何かが突き刺さった。ミレナはウッと言って鍬を手放し、二、三歩よろけたかと思うと、バターンと後ろ向きに倒れてしまった。
「姉ちゃん!! ああ!! 言わんこっちゃねえ!!」
ティモが駆け寄ってミレナのもとにしゃがみ込む。
「姉ちゃん、具合が悪いのか? どうしたんだ?」
気絶しているミレナの胸の真ん中には、薄く金色に輝く透明な何かが突き立っていた。
「ええっ!? 何じゃあこりゃあ!?」
「そこォ! 何をやっている!」
ダーフィトがずんずんとやってくる。そしてミレナの様子を見て腰を抜かした。
「そ、そ、それは……」
「ダーフィト様、これが何かお分かりですか!?」
「大天使アルビーナ様の魔法の矢じゃないか!?」
「えっ?」
ティモはきょとんとした。
「それって十八の貴族様とかによく当たるっちゅうあれですか? そう言やあ今日は儀式の日でしたっけ……」
「そうだそれだ!! おい、娘!! 起きろ!!」
ダーフィトはミレナを乱暴に揺さぶった。
「やめてくだせえ、ダーフィト様! 姉ちゃんは今……」
「うううん」
ミレナはぱちっと目を覚ました。
「姉ちゃん!」
ティモはダーフィトを押し退けてミレナの頭を持ち上げた。
「気分はどう?」
「……すごくいい!」
「そうなのか?」
「こう、よく分かんねえけど、力がみなぎってくる……!!」
「待て待て待て待て」
ダーフィトは慌ててミレナの前で手を振った。
「その力をここで暴発させてもらっちゃ困るんだよ!」
「おやまあ、ダーフィト様だ」
ミレナは呑気に言った。
「何で困るんですか?」
「お前は今、魔法の矢によって、大天使アルビーナ様に選ばれたんだ。恐らくものすごく強い力を手に入れたはず……それこそ戦場で通用するような!」
「アルビーナ様に?」
ミレナは首を傾げた。
「でもダーフィト様、天使の魔法の矢はだいたいが貴族様や軍人様に当たるって聞いとりますけど……」
「そうだ、農奴に当たるだなんて聞いたことが無い!! どういうことか、すぐに王宮に問い合わせねば……。いや、矢が当たったのなら王宮から早馬が来るのか? お迎えの準備をせねばならんのか? あああ、こんな事態など想定していなかった!」
「ダーフィト様、落ち着いてくだせえ」
ミレナが声を掛けると、ダーフィトは髪の毛をかきむしった。
「何で矢が当たった張本人が平然としているんだ!」
「姉ちゃんは肝が据わってるもんで……」
「いやいやいや、心臓に矢が刺さった状態なんだぞ!?」
「慌てたって何も始まりゃしませんよ、ダーフィト様」
ミレナは言った。
「とりあえずお聞きしてえんですが、この魔法の矢は抜いてもいいんでしょうか? さっきからちょっと邪魔なんですよねえ」
「よ、よせ、勝手な真似はよさんか! こういう場合の対処法など私は知らん。と、取りあえず家に帰って寝ていろ!」
「でも、賦役の時間はまだ終わっとりませんが」
「もういい! 帰れ! 私は忙しいのだ!」
横たわるミレナと、ミレナの頭を支えるティモを置いて、ダーフィトは大慌てで屋敷の方へと駆け出して行った。ティモは困り果てた顔でミレナを見た。
「姉ちゃん、立てるか? そんなもんが刺さってたら歩きづらいべ? 俺が運んでやろうか」
「いんや、歩けるから大丈夫じゃ。ほれ」
ミレナは立ち上がって、くるりとその場で一回転してみせた。
「踊りも踊れるくらい元気じゃ。こいつはちょっと邪魔だけんど、体を動かすぶんには支障はねえ」
「そうか……無理はしねえでくれよな」
「無理なんかじゃねえよ。さ、帰っていいなら帰ろう。余った時間で家の仕事をできるべ」
「姉ちゃんは矢が刺さった状態で家の仕事をするんか……」
ティモは呆れ返って、ミレナの後に続いた。
ボロ家まで辿り着くと、ミレナは本当に鍬を持ち出して農地に出た。
「姉ちゃん、本当に休まねえでいいのか?」
「休んどったら仕事がはかどらん。お前にちゃんと食わすためにゃあ、ちょっとでも長く働かねえと」
「姉ちゃんはそればっかだなあ……」
二人は畑を耕した。ミレナは不服そうに自分の胸元を見ていた。
「こいつは本当に仕事の邪魔じゃ。何とかしてえな」
「姉ちゃん。姉ちゃんはアルビーナ様に選ばれたんだって、ちゃんと分かってんのか? 魔法兵士に選ばれた人は軍の魔法部隊に入れられちまう。姉ちゃんはこれからは家を出て、人を殺す仕事をするんじゃ」
「まさかあ、そんなことにゃあならんよ。これは何かの間違いじゃろ。第一、農奴ってのは一生、家から出てどこかへ移り住むことはできんと、法律で決まっとる。金を払って自由身分を買わん限りは、農奴の身柄は領主様のもんじゃ。だから、魔法兵士になんてなれんよ」
「そういう問題かなあ……」
ティモは疑問を口にしながらもせっせと畑を耕す。やがて日が傾いたので、二人は家に帰った。
暗くならないうちに、小麦を煮たポリッジを、お椀によそって食べる。
「ティモ、それっきりじゃあ足りんじゃろ。姉ちゃんはもう腹一杯じゃから、姉ちゃんの分もお食べ」
「今日はそれは無しだって言ったろ、姉ちゃん」
「そうか……」
「何でガッカリしてんだよ」
暗くなったら、藁を盛って作った寝床で、震えながら眠る。真冬の夜は隙間風が染みる。服だってぺらぺらの薄いものしか買えないし、それももうぼろきれみたいになっている。寒いなあ、ティモは大丈夫かなあ……と思っていたら、やたらと周囲が暖かくなってきた。それに、ちょっと眩しい。
「……ん」
ミレナは目を開けた。すると、目の前に、白いワンピースを着た白髪の小さな女の子が立っていた。その女の子の周りは発光していて、その光が暖かかったのだ。
「ようやく見つけたわ。ブレッカー領に住まう農奴の娘、その名もミレナ」
女の子は歌うような声で言った。
「……? お嬢ちゃん、私に何か用か? 今は夜中じゃが……」
「うん」
女の子は上品に会釈した。
「我が名はアルビーナ。ペーツェル王国担当の天使よ。三本目の魔法の矢に当たったあなたを迎えに来たの」
ミレナは瞬きをして、胸に突き刺さったままの矢を見下ろした。こいつのせいで寝返りが打てなかったんだが。
「じゃあこれは何かの間違いじゃなくって、本当に私が選ばれたってえことですか?」
「そういうことよ」
「ありゃ……」
ミレナは隣で眠たそうに起き上がったティモを、悲しげな表情で見た。
「ティモ、ごめんなあ。姉ちゃん、本当に魔法兵士になっちまったらしい」
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