第十章

「狙いはきつの國だけではなかったということか…」

 朱鷺しゅろから渡された伝聞をみて、稜榛りょうしんは苦虫を潰したような顔になった。

 祠篁しこうは、桔の國をけしかけておいて、稜榛の目をこちらに引きつけた上で、真反対に位置するらんの國に兵を差し向けていたのだ。

 しかも鸞の國の背後は険しい山脈が続く。だれもがこの峰を越えて兵を動かすとは思ってもみなかったその虚を突かれたことになる。

「なにもかもが後手後手だな…」

 忌々しそうにそう吐き捨てると、稜榛は、翠鸞すいらんに自分の陣を離れる許しを出した。

「翠鸞殿と朱鷺はこのまま鸞の國へ戻られよ。白鷹はくようには遣いを出す。鸞の國の護城の役を解く。そのまま兵を連れて鸞府らんぷへ向かうよう早馬を出せ」

「稜榛様、鸞の國への援軍は…」

 護城として榛の城へ上がっている鸞の兵は決して多くない。一刻も惜しいため、まず白鷹とそのものたちが鸞の國へ帰るのは良しとしても、何としても榛の國からの援軍が必要だ。

「目の前にこうの軍がいるのだ。これから榛の城まで退いたとしても、今すぐそちらに回せるだけの余裕があるかわからん」

「そんな…」

 翠鸞がうめくような声を出した。稜榛とて、本心では鸞の國に援軍を出したい。しかし、兵は無限にあるわけではない。しんの國の跡取りとして、稜榛が第一に護るべきは榛の國であるのだ。

「わかってくれ。篁の軍とて、桔の國と鸞の國、二手に兵を割いているはず。万全の布陣とはいえまい。こちらの戦の形が付き次第、兵は回そう」

「わかりました。朱鷺! 出るぞ!」

「はい!」

 稜榛の気遣いとして、陣の中でも足の速い馬をあてがってもらうことができた。また途中の街で替え馬を調達できるよう手形も手渡された。だが、鸞の國の真反対に位置するこの桔の國から、鸞の國までどんなに馬を飛ばしても五日。それまで、鸞の國が無事であるようにとただ祈るしかなかった。


「囲まれましたな…」

 本丸の最上層で、鸞の國守である碧鸞へきらんとともに城下を見下ろしていた藍鷺らんろがそう呟いた。

 鸞の城を取り囲む篁の軍は、およそ千。平地での合戦では小勢と言えたが、この小さな山城を取り囲むには十分な兵の数だった。

 しかも囲まれたのは背後からだった。険しい山を背に立つことこそ、防御の要と考えて築城された鸞の城にとっては、まさに背後を取られたということになる。

 藍鷺たちのところにも、桔の國の内乱と、その平定に稜榛たちが立ったことは知らされていた。榛遥しんようにいる白鷹には信鳩を飛ばしたものの、そこから桔の國にいる稜榛の元に連絡がいくまでどれほど時間がかかることか。

 また白鷹自身は護城の役についているため、勝手に城を離れることは許されない。出陣の準備はしているだろうが、身動きが取れず苛ついているだろう。

「翠鸞は、稜榛殿とともに桔の國へ行っておるのか」

「はい、出立前にしたためられた書状がきておりました」

 朱鷺は翠鸞とともにいるはずだ。そう考え、信鳩を朱鷺の元へ飛ばしたが、果たしてたどり着いたかどうか。あれほどの距離に信鳩を使ったことはない。非常時とはいえ、かわいそうなことをしたと藍鷺は思った。

「ちょっといいか?」

 戸をがらりとひく音がして、墨烏ぼくうが入ってきた。あいかわらず遠慮のない男である。

「ここからも見えると思うが、相手さん、ぴくりとも動かねえ」

「そうだな」

 藍鷺はそう答え、遠眼鏡を墨烏に渡した。

「あんた、軍師だろう? 相手の出方わかんねえのか?」

「わからんな。あの山を越えて来ること自体、わたしの想定外だ」

「あっちのが一枚上手ってことか」


 一方、鸞の國の城を取り囲んだ篁の軍では、余裕の笑みを浮かべた祠篁の姿があった。

「祠篁様、どうして攻撃をかけないのですか?」

 側仕えの少年が、茶をいれ椀を祠篁に手渡しながらそう聞いた。鸞の城を取り囲んで丸二日、攻撃をかけることもなく、ただじっと待っているだけだ。

珂筐かきょうは、どうしてだと思う?」

「疑問を疑問で返さないでください。わたしにわかるわけないから、聞いているんじゃないですか」

「できれば、戦わずに通してくれればいいなと思って」

「そんなことができるのですか?」

「さあ…」

 またもや祠篁にはぐらかされてしまった珂筐は、長い溜息をついた。

「このまま、待つだけの戦では、皆の士気が下がってしまいます」

「籠城戦というのは、得てしてこのようなものだけどね。とある歴史書によれば三年も待ち続けた戦もあったそうだよ」

「三年!?」

「もちろん、わたしたちはそんなに待つつもりはない」

 珂筐には、祠篁が何を待っているのかがわからない。千を越えるこの篁の軍の誰一人してわかる者はいないだろう。

「こんな城、無視して押し通れば良いのではないですか」

「そうしたいところだけどね。通り抜けた後、背後から襲われるだろうね」

「ならば、城を落すしかないと思います」

「それが、簡単ではないよ。山城というのは、存外堅固にできているものだからね」

 実のところ、祠篁は待っていたのだ。桔の國で、篁の國の別働隊と稜榛の率いる梨の國の軍勢がぶつかる時を。そうなれば、稜榛は鸞の國に自ら赴くことも、援軍を送ることも難しくなる。その隙にこちらは安心して一千の手勢で鸞の國と戦うことができる。

 だが、桔の國は遠すぎる。この山脈越えの経路を使って、連絡がくることはまずない。桔の國で戦が起こる時を自分で予測して動くしかなかった。

 誤算のひとつは、思ったよりも早く山越えに成功したことだった。あの険しい尾根を越えることなど想像できず、軍を進めるのにどれほどの時間が必要かを見積もることができなかった。しかし、いざ軍を進めてみると、どれほど険しくとも人が歩めるくらいの道はあった。荷馬車で押し通ることはできなくとも、馬で一頭づつ慎重にあゆみを進めることはできたのだ。山を越え鸞の城の背後に出たのは、祠篁が予測していたよりも二日も早かったのである。

 そえゆえ、あまりに早く動いては、せっかくの連携が壊れてしまうのだ。それが、鸞の城の前でじっと耐えている理由だった。

「ふむ。確かに、おまえの言うように、ここにじっとしているだけでは、士気が下がってしまうね。時間つぶしに調略でもしに行ってみるか…」


 その頃、朱鷺と翠鸞は、桔の國の城から一心不乱に馬を駆けさせていた。本当なら馬で五日の距離だが、早馬を街々で替えながら走っているため、もっと早く着くはずだ。それでも、一刻でも早くと気が焦り、眠る時間を惜しんで馬を走らせた。

 走る馬の上で居眠りをするわけにはいかないが、疲れで一瞬気が遠くなることがある。桔の國では、ほぼ徹夜で戦い続け、その後十分な休憩をとることもできず、すぐに出立したのだ。出立してから三日、野宿が続き、そろそろ体力も限界が近づいている。朱鷺よりも小柄な翠鸞はすでに限界を超えているかもしれなかった。

「若、次の街では宿を取りましょう」

「何を言っている! 時間が惜しい」

「どちらにしろ、馬を替えねばなりません」

「では、馬を替えたらすぐ出立する」

 夕刻にたどり着いた街道沿いの街は、それなりに賑わっており、替え馬を世話してくれる駅舎もすぐに見つかった。榛の國に入ってから、街の豊かさが実感できるようになった。やはり上つ國とはそれだけ安定した政が行われているのだ。街々には早馬のための駅舎が用意され、手形があればすぐに用立ててもらえる。しかも朱鷺たちが持っているのは、稜榛の名が入ったもので、どの街でも最優先で駿馬と交換してもらえた。

 駅舎のものから変え馬の手綱を渡された翠鸞は、疲れのためかうまく馬にまたがれず鐙を踏み外してしまった。

「若、やはり休みましょう」

「いや、あともう少しで鸞の國に入る。休むのはそれからでいい」

「城に戻れば、すでに戦がはじまっているかもしれません。その時に疲れで体が動かないのでは話になりません」

「……しかし、もし、間に合わなかったらどうするのだ」

 移動に費やした日数のことを考えると、十分に考えられることであった。もしあのとき休まずに走っていればと後悔するくらいならと考えてしまい、無理を重ねてしまうのだ。

「……もし、わたしたちが間に合わず、城が落ちてしまったのなら、取り返せばよいのです」

 朱鷺のその言葉に、普段は穏やかな翠鸞の顔が険しくなる。

「そのようなこと、口にするな! それでも鸞の國の民なのか!」

 言ってしまってから、翠鸞は、はっとして口をつぐんだ。

 朱鷺は、ただ静かに答えた。

「わたしは鸞の國の民です。鸞の國の民でありたいと、そう思っています」

「…すまぬ」

 翠鸞は、朱鷺が鸞の國の生まれでないことを引け目に思っていると知っていた。感情が高ぶっていたとはいえ、どうにもならない苛立ちをそのまま朱鷺にぶつけてしまったのだ。

 朱鷺も翠鸞もそれ以上言葉を交わすことはできなかった。陽が落ちかけて通りに屋台が出始め、人が増えてきた。馬にはまたがれず、手綱を引いたまま街はずれまで歩くことになった。

 酒場や宿屋がひしめくあたりを通り過ぎようとしたとき、朱鷺は翠鸞の後ろにまわり、首の後ろに軽く手刀を浴びせた。

「若、すみません」

 翠鸞は声もあげることもできず倒れこんだ。朱鷺は麻袋を担ぐように、翠鸞を肩にかつぎあげると、二頭の馬の手綱を引き、手近な宿屋へ入っていった。

 夜明けとともに出立すれば、その日のうちに鸞の國に入れるだろう。


「お初にお目もじいたす。篁の國の嫡男、祠篁と申します」

 鸞の城に調略に訪れたのは、篁の國の総大将である祠篁本人だった。このような面白そうなこと、人には譲れないというのが、祠篁の言だった。

「鸞の國の国守、碧鸞だ。こちらが、わが軍師、藍鷺」

「これは、名高いお二方に会えて、嬉しゅうございます」

 祠篁は、男にしておくのはもったいないほどの美丈夫で、鸞の城に入ってきたときも、城仕えの娘たちの中ではちょっとした騒ぎになっていた。

「何用でございますかな」

「単刀直入に申せば、この城の前を通していただきたい」

「はは」

 藍鷺はその言葉を聞いて、思わず膝を叩いて笑った。なかなか豪胆な若者である。こちらの城を取り囲んでおいて、その前を無傷で通せと言う。

「それは、我らに榛の國を裏切れと」

 碧鸞が声を低めて問いかける。

「裏切る? そもそも鸞の國は榛の國に仕える必要はないでしょう。なぜいつまでも榛の國の下つ國として甘んじておられるのですか?」

 確かに鸞の國は、他の下つ國とは成り立ちが異なっていた。鸞の國は、天下に反映をもたらすと言われる『鸞』と呼ばれる美しく鳥を皇王に献上したことにより賜ったとされている。その謂れからすると、上つ國に準ずる扱いをされていた國であるのだ。しかし、山間の小さな領土しか持たなかったこの國は、皇王の力が弱まった十数年前、隣接する上つ國である榛の支配を受け、下つ國とされた。何ももたない小國に抗うすべなどなかった。榛の國の配下にある六つの下つ國の中でも末席とされているのだ。

「また、上つ國になりたいとは思われませぬか?」

「思わぬな」

 祠篁の提案を碧鸞はにべもなく断った。もともと上つ國に準ずるといっても、小國すぎて対面を保つことができない。それよりは、榛の國の下にいたほうが安全なのだ。

「どうしても、我らと一戦交えると?」

「そちらの出方次第だ」

「あの山脈を越えてきた我らが兵を退くと思われますか?」

「いや」

「よくわかっておられる…。ふふ、勝てるとお思いか?」

「勝てずとも、負けねば良い。そう言う戦い方はある」

「戦上手の鸞の國のお手並み、拝見させていただきましょう」

 それは祠篁からの宣戦布告であった。


 翠鸞と朱鷺は、鸞の國に入ってすぐ、白鷹が率いる護城の兵たと合流することができた。白鷹は護城の役を解かれてすぐ、兵をまとめて榛遥をたっていたが、徒歩の兵もおり、思うように行軍できていなかったのだ。

「従兄上!」

「翠鸞、ここで合流できて良かった。稜榛殿は?」

「桔の國からは退くとおっしゃっていましたが、そこで別れましたのでその後のことはわかりませぬ」

「そうか、桔の國を斬り捨てるか。なかなか思い切ったことをするな」

 桔の國が敵の手に落ちれば、上つ國である榛の國自身が最前線に身をさらすことになる。上つ國は四方八方を下つ國に囲まれていることによって、戦がおきても自國を戦場にすることなく戦うことができる。稜榛はその有利さを自分からなげうったのだ。

 桔の國はすでに國として成り立ってはいなかった。その状況で手の内に納めておく危険性も高い。そう考えると確かに見捨てるというのも策略のひとつではある。

「白鷹様は何か鸞の國の情報をお持ちでは?」

 白鷹は朱鷺と同じく、藍鷺と直接やりとりのできる信鳩を持っている。朱鷺の信鳩は瀕死の状態で朱鷺の懐におり、これ以上鸞の國にいる義父の元へ飛ばすことはできなかった。白鷹ならば信鳩を使って、情報を集めることが可能だろうと考えたのだ。

「それが、昨日の時点ではまだ、膠着状態だそうだよ」

 まだ、鸞の城は落ちていない。それだけでも翠鸞と朱鷺をほっとさせるには十分だった。

「篁の軍の意図が読めないな。あちらの総大将は祠篁殿のようだ」

「え?」

 鸞の國を攻めたのは別働隊とばかり思っていたが、こちらが本隊であったのだ。桔の國に現れたのは陽動だったということだ。確かに稜榛をおびき出しておいて、その隙に背後から本陣を突くというのは戦術としては定石ではあるのだが、あまりにも並外れた広さで展開された策略である。

「とにかく、鸞の城に入るのが先決だ! 行くぞ」

 その白鷹の声を合図に、先へと急いだ。


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