第九章

 朱鷺しゅろ翠鸞すいらんは本丸の二層目の屋根に上っていた。の軍に囲まれたことで、城の中は騒然としており、身を隠しながらではあるが、ここまで登ってくるのはさほど難しいことではなかった。

稜榛りょうしん様は?」

「あそこに」

 朱鷺ほど目のよくない翠鸞が、稜榛が陣に戻れたかどうかを案じて聞いてきた。

 ここからは本丸の城門が良く見える。堀を挟んでその前に整然と陣を張る稜榛の姿も見て取れた。心配していたわけではなかったが、陣に立つ姿を見ると、やはりほっとした。

 すでに東の空は白んでおり、あと少しで日が昇るだろう。

 門の内側には、桔の兵が詰めているが、こちらにはどこか余裕がある。跳ね橋はあがったままなので、敵が堀をわたりきらない限りぶつかることがないためだ。

 泳ぐためには鎧を脱がねばならず、泳いで渡る間に城門から狙いうちにされる。どんなに城門の外に敵がひしめいていても、そうやすやすと城は落ちたりはしないものなのだ。

 しかし、それは内側に敵が潜んでいない場合の話だった。


 東の空に朝日が顔を出したのを合図に、互いの法螺貝が吹き鳴らされた。

 稜榛の命なのか、やみくもに堀に身を投げる者はおらず、弓で城門の上にいる兵たちを射落とそうと試みている。しかし、下から上の攻撃は、なかなか成果があがらず、届かぬ矢がむなしく宙を舞うばかりだ。そして、逆に城門の上から狙いうちされる者もいた。

 そう、弓は上から下を狙うほうが、圧倒的に有利なのだ。

 朱鷺がここにいる理由はそれだった。

 この城の屋根は傾斜のある瓦葺きだ。足元は滑りやすく、踏ん張るのが難しい。しかし、それを問題にする朱鷺ではなかった。

 矢をつがえて弦を引き絞る。ぎりぎりという低い音を体全体で感じる。朱鷺の眼には、はっきりと城門に立つ兵士の姿が捕らえられていた。

 標的になったのは、跳ね橋の鎖を操る兵だった。他の者たちが弓で応戦しているのを、見物していたところ、いきなりその背に矢が突き立ったのだ。

 朱鷺の立つ場所からは、悲鳴は聞こえはしない。ただ、背中からも正確に心の臓を狙った。貫通していれば苦しむことはなかったはずだ。

 風に吹かれた紙人形のように、標的となった兵が倒れるのを見届けると、朱鷺の眼には跳ね橋を巻き上げるための歯車がはっきりと見えた。歯車のひとつに金属の板が嵌められており、それで跳ね橋を止めている。そしてその間にはいくつもの滑車が見え隠れしている。

 朱鷺はその滑車を吊り上げている鎖に狙いを定め、矢を放った。矢は正確に滑車と鎖の間に刺さり、滑車が鎖から脱輪した。その滑車を介していた長さだけ、大きな音を立てて跳ね橋が降りる。

 跳ね橋を持ち上げる力を軽くするため、数多くの滑車を挟んで巻き上げる仕組みになっていることを朱鷺は知っていたのだ。

 二つ目の滑車、三つめの滑車と次々に脱輪させると、変な負荷のかかった大元の歯車に嵌められていた金属の止め板がおかしな方向にねじ曲がっていた。

 最後の一矢は、その止め板と、歯車の間に狙いを定めた。

 鏃が、歯車と止め板の間に楔のように穿たれた。一瞬動きが止まったかと思った瞬間、止め板がはじけ飛ぶのが分かった。そうすると大きな音とともに跳ね橋が、堀の上に降ろされたのである。

「やっぱり朱鷺はすごいな…」

 翠鸞が感心したように言う。突然降りた跳ね橋から怒涛のように梨の軍が城の中に押し寄せてくる。心の準備ができていなかった桔の軍は、慌てふためくばかりで勝負にもならない。

「ここで、高みの見物といきましょうか」

「これは、本当に高見だね」

 そう言って、翠鸞はくすくすと笑った。この戦で一番の仕事はやり切ったのだ。あとは稜榛たちがこの城を完全に抑えた後で、合流すれば良いだけだ。

 そう思っていると視界の端になにやら気になるものがあった。土煙だった。

「若! すぐに降ります!」

「何か見えたのか?」

こうの軍です。まずい、こちらの三倍はいます」

 すぐに知らせないと背後から突かれる。この城を押さえたとしても、半分焼け落ちたような城では、持ち堪えることはできない。

「すぐに稜榛様に知らせなければ!」

「わかった!」

 

 稜榛は再び本丸の城門をくぐっていた。跳ね橋が降りたあとは、実にあっけない展開だった。まさか橋が降りると思っていなかったのか、桔の兵はあっという間に蹴散らされて、先鋒はすでに本丸の中に入ったはずだ。勇桔が捕らえられるのも時間の問題だろう。

「しかし、なぜ突然開いたのだ?」

 稜榛は全面で戦いながらも側面から丸太の一本橋を架けるべく、山の中で木を切らせ、運ばせているところだった。それが突然、跳ね橋が音をたてて降ろされたのだ。

「稜榛様、こんなものが橋の滑車に…」

 影樟えいしょうが手にしていたのは、滑車と朱い羽の矢だった。

「まさか…! 滑車を狙って脱輪させたというのか!」

 稜榛は思わず声をあげた。

「信じられませんが…。ここに証拠がある以上、そうなのでしょうな」

 それを持ってきた影樟も信じがたいことにかわりはなかった。城門を狙うとすれば、角度的に本丸の屋根しかない。そこから狙って、滑車を脱輪させるだけの矢の勢い。それを簡単に想像することはできなかった。

 稜榛も屋根を見上げていたが、そこにはすでに二人の姿はなかった。


「稜榛さま!」

「おう、翠鸞殿、無事か!」

 屋根から降りてきた朱鷺と翠鸞が、稜榛の姿を見つけたのは、城門が開いてまもなくのこと。すでに、勇桔ゆうきつの身を拘束したとの連絡を受け、本丸に上がろうとしていたときだった。

「篁の軍勢がこちらにむかっています」

「なに!」

 稜榛は本丸に向かっていた足をとめ、翠鸞の話に耳を傾けた。

「数はおよそ二千」

「こちらの三倍は超えているか。敵の場所は?」

「あちらには徒歩の兵もいるようですが、半日もあれば着く距離かと」

「なんだと! とういことは兵を伏せていたか」

 稜榛が、他の下つ國の兵を呼び寄せて、桔を攻めることを想定していたことになる。おそらく稜榛が桔の城に入る頃合いを見計らって、軍を動かしたのだ。

「影樟、本丸から兵を撤退させよ。この城では受けて立つのは無理だ。いったん退くぞ」

「はっ!」

 影樟はすぐに伝令を飛ばすと、すぐに兵をまとめさせた。この手際の良さはやはり、稜榛の子飼いの部下というにふさわしい働きぶりである。

「今回は、祠篁しこう殿にしてやられたな…」

「この城はくれてやるのですか?」

 翠鸞の問いに、苦笑いしながら稜榛が答える。

「この焼けた焦げた城はともかく、いったんこのきつの國は、篁の國に手に落ちることになるな」

 まるで、榛の國は喉もと切先をつきつけられたのと同じだ。

「祠篁殿は、この桔の國をどうするおつもりなのでしょう?」

「わたしなら、ここを自分の直轄領にする。次の戦場はここだ。もともと自分の土地ではない。荒れたところでお構いなしというわけだ」

 しんの國の配下にある下つ國のひとつとして、稜榛はできるだけ戦場にならぬように気遣いながら、戦略を練っていたつもりだ。しかし次の戦で祠篁は容赦なくこの地を踏みにじってくるだろう。そうなれば、桔は國として成り立つことが難しくなる。この乱世に愚かな國守をもった民は、たまったものではなかった。

「朱鷺、そのほうも無事か」

「はい」

 稜榛は、翠鸞の後ろに控える朱鷺にも声を掛けた。何といっても城門を開いた功績は今回の一番の手柄と言ってい良い。

「相変らず恐ろしい腕だな」

「いえ…」

「謙遜することはないぞ。ん? 怪我をしているのか?」

 血がしたたるほどではないが、朱鷺の体には無数の傷がついていた。

「西の櫓での傷だな」

 傍らに控えていた影樟が、横から口を挟んだ。

「稜榛様、朱鷺は弓だけでなく、剣も相当な腕ですよ。それと蹴りもね」

 西の櫓の階段で何人もの敵兵を蹴り落としたことを話して聞かせると、稜榛はにやりと笑って見せた。

「ほう、弓の腕では到底かなわぬと思っていたが。落ち着いたら剣の手合せを願いたいものだな」

「……」

 朱鷺が返事をできずに困っていると、翠鸞が横から助け舟を出してくれた。

「兵をまとめて撤退するまで、まだ時間がある。その前に手当をしておこう」

「翠鸞殿の言うとおりだな。あと一刻ほどで退却する。それまでの時間を使うといい」


 男ならここで衣を脱いで手当をするところだが、朱鷺の場合はそうはいかない。濡れた衣もあらかた乾いてきたが、血が滲んだ箇所は固くごわついてしまった。

「朱鷺、あの子たちのところへ行ってみよう」

 翠鸞がそう提案した。子供たちには朱鷺の鎧も預けてある。取りに戻れるとは思っていなかったが、戻れるものならそれに越したことはなかった。

 堀の外、支流に沿って宿舎があると聞いていたので、あたりを探してみると、いくつか粗末な宿舎が軒を連ねているのが見えた。おそらく、あの中のひとつだろう。

 翠鸞が近くのものに声をかけると、その様子に気が付いた子供たちが駆け寄ってきた。

「お兄ちゃん! 無事だったんだね!」

「お母さんや、お姉ちゃんには会えたかい」

「うん。夜明け前に帰ってきた。もうすぐ、ぼくたちここから引っ越すんだ。その前に会えてよかった!」

 翠鸞はひとりひとりの頭を撫でながら、こどもたちの話を聞いている。鸞の國にいるときからそうだったが、幼いものたちからの人気は絶大だ。

「そっちのでっかいお兄ちゃんも! 鎧預かったままだったろ」

「ああ」

 翠鸞の前でおじさんと呼ばれなくて良かったと思いながら、子供たちに手を引かれるに任せた。

「声がしたと思ったら、あんたたちか。無事だったんだね」

 宿舎の戸口から顔を出したのは優杏ゆうあんだった。朱鷺の姿を見て、子供たちが預かっていた鎧を奥からもってきてくれた。

「ちょっとあんた、よく見たら傷だらけじゃないか」

 鎧を受け取ろうと出した朱鷺の腕を見て、優杏が顔をしかめた。翠鸞がその言葉を聞いて、言葉を継いだ。

「そうなんだ。ちょっと、手当をお願いできないかな。わたしは外で子供たちと待っているから」

「若!」

「ちゃんと手当をしてもらうんだ」

「ほら、あのお兄ちゃんもそう言ってんだし、遠慮しなくていいよ」

 朱鷺はようやく翠鸞がここへ連れてきたわけがわかった。ここなら屋内で手当ができると思ったからだ。朱鷺はそんな翠鸞の気遣いに感謝しながら、優杏の部屋に入った。

「ほら、服抜いで」

 優杏はそう言うと、背を向けて傷薬を準備し始めた。朱鷺はまだ少し湿り気の残った衣を脱ぎ捨てた。素肌にひやりとした風があたる。両の乳房には固く布を巻いているとはいえ、その形ははっきりとわかる。

 薬をいれた乳鉢を手に振り返った優杏は、驚いてしばらく固まっていた。

「うそ。あんた女だったの……」

「驚かせてすまない」

「いや、謝るようなことじゃないんだけど…」

 優杏は、手早くそして優しく傷の手当てをしていく。弟たちがしょっちゅう傷をこさえてくるため、手慣れたのだと言った。

「脇腹の傷は、その布とらないと無理だね」

 そう言って、乳房を押さえていた布を取り去る。逞しい体つきには不似合な、やわらかな二つの膨らみが現れた。

「確かに、女よね…。しかも、わたしより大きいじゃない。こんな布で抑えてたら形悪くなるわよ」

「別に構わない」

「はあ、何言っているの。せっかくなのに、もったいない」

 朱鷺には何がもったいないのかが理解できなかったが、手当をした後、優杏は新しい布を朱鷺にくれた。それで乳房を押さえろというのだ。

「あんたの御主人様って、あのお兄ちゃん?」

「そうだ」

「知ってんの? あんたが女だってこと」

「ああ」

「だから、あんたをここに連れて来たってわけ…。感謝しなくちゃね」

「もちろん」

 朱鷺が衣を着ようとすると、優杏がそれをとめた。

「そんな血だらけで湿ったの着てどうすんの!」

 そう言って父親のだといって、粗末ではあるが乾いた衣を投げて寄越した。朱鷺は手早くそれを身に着けると、優杏に礼を言って、翠鸞の元に戻った。

「そろそろ一刻たつかな。稜榛様のところに戻ろうか」

「はい」

 そのとき、朱鷺はふと耳慣れた鳥の声に気が付いた。しかし、それは決してこのような場所にいるはずのない鳥の声だった。

 朱鷺は空を見上げ、その姿を確認すると、驚いて合図の指笛を短く吹いた。そうするとその鳥はまるで墜落するかのように朱鷺の腕の中におちてきた。嘴の端には小さな泡をいくつか吹いている。

 藍鷺らんろと朱鷺の間をつなぐ信鳩しんきゅうだった。

 信鳩は人と人とをつなぐ鳩だが、その距離は決して長くはない。ひとつの戦場内で使うことを主な目的として育てられるからだ。

 時には、鸞の城と榛の城を行きかうことはあったが、それが限界の距離だと思っていた。なぜなら信鳩は相手の元にいくまで、飲まず食わずで飛ぶよう訓練される。そのため、おのずと使える距離が定まってしまうのだ。

「それは、藍鷺の信鳩か?」

「ええ」

 途中で息絶えるかもしれない信鳩に連絡を託すということは、よほどの事態と思われた。信鳩の足環につけられた伝文を急いで開いた。

「何と?」

「鸞の國に、篁の軍が…。すでに囲まれていると」

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