第八章

「なに、稜榛りょうしん、貴様の首を手土産にすれば、こうの國が俺たちを守ってくれる」

「めでたい考えだな」

 勇桔ゆうきつの言葉に稜榛が辛辣な言葉で答えた。稜榛の腕は後ろで縛られ、とても上つ國の跡取りとは言えない扱いだった。狭い部屋の床は板張りで、おそらく上層なのだろう、壁の外から強い風の音が聞こえていた。

 火が出てから、比較的早く消火されたとはいえ、この部屋にも焼け焦げたような臭いが充満していた。場所にもよるだろうが、稜榛たちが本丸にたどりついたときには、上層階は燃え落ちた箇所もあり、このままでは城としての役割は果たせないだろう。

 前線に位置する下つ國の城を失ったことは、榛の國としては、無視できない痛手だった。

「どうせ、何かうまい条件を出されたのだろう」

「それのどこが悪い」

「悪くはないさ。榛の國にいては、いつまでも下つ國としては下から二番目。しかも國堺にあたるため、常に最前線に立たされる」

「その通りだ。これ以上、貴様らの言う通りにはならん」

「だがな。篁に寝返ったところで、今度は榛との國堺だ。最前線にはかわりあるまい」

「違うな。そこが違うのだ。きつの國は篁府近くに國替えをしてもらう。そしてわたしは、祠篁しこう殿の軍師としてお側に仕える」

 勇桔ごときが、篁の國の軍師が務まるとは思えないとは、稜榛は口にはしなかった。そもそも祠篁は軍師など必要としていないだろう。西方の國を次々と攻略していった知略の雄であることは、この東方にも聞こえてくるほどだった。

 桔の城を焼かせたのは、ここを榛の國の盾とさせないためだ。桔を国替えするといったのは、この地を篁が直轄領にするためだろう。

 よしんば、篁府こうふ近くに國替えという話が本当だとしても、領地は数分の一になるに違いない。もしかしすると、城下に屋敷だけを与えて、國替えの話は立ち消えになる可能性もある。

 篁の國としては、この桔の國は喉から手が出るほど欲しい土地なのだ。そしてその重要性は榛の國とて変わりはない。

「俺の首はその手土産か」

「そう。と言いたいところだが、それだけでは足りんのだ。鉱山のありかを吐いてもらうぞ」

「鉱山…?」

「とぼけても無駄だ。硝石はどこから出る? わかっているんだ、榛の下つ國六國のどこかに硝石の鉱山があることがな!」

 硝石とは、爆薬をつくるために非常に需要な材料だ。木炭と硫黄に硝石を混ぜることで爆薬ができる。比較的手に入りやすい木炭と硫黄とは違い、硝石は希少価値が高い。そしてそれがどこから採取できるのかが、はっきりとしていなかった。

「榛の城で実験に成功したこと、俺が知らないとでも思っていたのか?」

「いや、特に隠していたわけではないからな」

 それは稜榛の本音である。爆薬の実験は始めたばかりで、まだ戦に用いられるような段階ではない。

 隠すのではなく、逆にそれが抑止力になればいいとの思いもあり、実験をしていることも公にしていた。

 だが、その技術と材料が他国にわたるとなれば話は別だ。

「俺がそれをしゃべると思うのか?」

「命がかかれば、話す気にもなるだろう」

 逆に話せばその後、用済みとばかりに首を刎ねるだろうに。そのくらいのことを稜榛がわからないとでも思っているのだろうか。

 榛遥を出立すると同時に、この桔の國の南隣にあたる梨の國には援軍を要請してあり、夜明けまでには合流できるだろう。だが、そのときに自分がここに囚われていたのでは、攻撃を仕掛けることはままならない。朝までに脱出する方法を見つけねばならなかった。

 一方勇桔のほうも、祠篁から硝石の入手方法を聞き出すよう言われているため、おいそれと稜榛を害することはできない。

 部屋の外から声がして、伝令と思しき者が何やら勇桔に耳打ちをした。苦虫を潰したような顔になった勇桔は稜榛のほうを向き直って言った。

「まあ、良い。話たくなるまで待つとしよう」

 勇桔は焼け焦げた臭いの残る小部屋から出て行った。


 稜榛は縛られたままひとり部屋に残された。おそらく戸の外には見張りがいるのだろうが、気配からしてひとり。何かあったのか、他の者たちも勇桔とともにどこかへ立ち去ってしまったようだった。

 壁のすきまから差す光の加減から、そろそろ夕刻をすぎたころだとわかる。この納戸のような部屋には、小さな油皿がひとつ。この油が切れてしまえば、真っ暗になるかもしれない。そのときが、脱出の機会だ。そう考えを巡らしていると、何やら目の前に糸でくくられた小刀が降ろされてきた。

 上を見上げると、天井の板が一枚外されており、糸はそこから垂れていた。稜榛は背を向け、後ろ手に縛られたままその小刀を受け取った。小刀から糸を引きちぎろうとしたが、なかなかうまくいかない。

「稜榛様」

 小さな声が天井から聞こえた。見上げると、翠鸞すいらんがさかさまにちょこんと顔を出していた。

「翠鸞殿!」

 声をひそめながらも、稜榛は驚きを隠せず、名を呼んだ。

「どうやってここへ?」

「その話はまたいずれ」

「そうか」

 稜榛は返事をしながらも、小刀から糸を外そうと必死になっている。糸の端は翠鸞がもったまま小刀を宙づりのまま保ってくれている。腕を後ろで縛られている稜榛にとって、床に落ちたものを拾うのは大変なので、落ちないよう適度な高さに保ってくれているのだ。しかしこの状態のままでは自由に刀を使えない。

「それは、糸でなくて弓弦なので、引きちぎれません。柄の方からそっと抜いてください」

 やけに丈夫な糸だと思ったら、弓の弦であったようだ。確かにそれでは、手で引きちぎるのは無理である。翠鸞のいうように柄のほうに、少しづつ弦をずらして、弦を外した。

 外された弦は翠鸞の手の中にするすると巻き取られていく。

 翠鸞は顔を出しただけで、降りてこようとはしなかった。天井からここに飛び降りると、相当な音がしそうなので、懸命ではある。

「もうすぐ陽が落ちます」

「そのようだな。動くとすればそれからだ」

「わかりました」

「おそらく夜明けと同時に、一斉攻撃がある。それまでに翠鸞殿もここを脱出してくれ」

「一斉攻撃?」

の國に援軍を要請してある。夜半にはこちらに着くだろう」

「手回しがいいですね」

「そうでないと、上つ國の跡取りなど務まらん」

「何故、捕まってみせたのですか?」

「わたしがわざと捕まったと?」

「そうとしか思えません」

 これほど視野の広い稜榛が、勇桔の考えていることが見破れないはずがない。

「翠鸞殿の目はごまかしがきかぬな。勇桔が何を狙っているかを知りたかったのだ」

「狙い?」

「正確には勇桔のではなく、裏で糸を引いている祠篁のだが」

「それで、狙いが何かわかったのですか?」

「うむ。どうやら、硝石が欲しいらしい」

「硝石とういうと、先日、爆薬の実験に使っていらした…?」

「そうだ。硝石の鉱山のありかを聞いてきた」

「それは困りましたね…」

「ないものはないからな。答えようがない」

 そう、硝石は鉱山から掘り出すものではないからだ。そのことを知っている者はほとんどいない。

「もしかして、翠鸞殿は知っているのか? 硝石のことを」

「知ったのは偶然ですが…」

「そうか。それならばそのことを勇桔に知られぬようにな。身が危ないぞ」

「心得ました」

 話をしながらも、稜榛は後ろ手に縛られた綱を切ると、小刀を懐にしまった。

「朱鷺はどうした?」

「西の櫓に残っています。敵に囲まれて、私だけを逃がしてくれました」

「翠鸞殿も人質の価値があると考えたのか。だが朱鷺しゅろのほうが一枚上手だな」

「さて、わたしは行かねばならないところがあるので」

「行くところ?」

「ここに入れてもらうために、ある約束をしたのです。それを果たしに」

「何の約束かは知らんが、朝までにこの本丸を出ろよ」

「わかりました。では、ご無事で」

「翠鸞殿もな」

 その言葉を合図に、翠鸞は天井の板を元に戻すと屋根裏を足を潜めて歩き出した。


 日がすっかり落ち、あたりが暗くなったことは、朱鷺には都合が良かった。人と違う目の色をしていることを子供の頃には気に病んだこともあったが、遠目が効き、夜目も効く、この目を持てたことをありがたいと思うようになっていた。

 朱鷺は灯をともすことなく歩ける。一方、守りにあたる桔の兵たちは盛大に篝火を焚いている。それならば、その篝火が照らす範囲を外れて歩けば良いのだ。これほどたやすく身を守れるならばそれに越したことはなかった。

 遠くからでも、堀に架かっていた橋が跳ね上げられていることは見て取れた。籠城の構えだろうが、本丸の上層部の一部は焼け焦げているらしく、朱鷺のいるあたりまで、煤けた臭いが漂っていた。中から火を放たれたのでは、どうしようもなかっただろう。完全に焼け落ちなかっただけでも良かったと思うしかない。この状態で籠城など意味がない。この桔の國の國守はいったい何を考えているのか、朱鷺には理解できそうになかった。

 正面にいても意味がないと考えた朱鷺は、城の裏手に回った。

 いきあたりばったりだと影樟に言われたことを思い出して、ふと笑みが浮かんでくる。

 この風貌のせいで歴戦の武人のように勘違いされることが多いが、朱鷺は決して経験が豊かなわけではない。初陣を経て二年。世間ではまだまだひよっこと呼ばれる歳だ。戦乱が続いた折でもあり、義父である藍鷺に連れられて、戦場に出る機会に恵まれてはいたが、自分の判断に自信が持てるかと言われれば、そうではない。

 数刻前に、翠鸞をひとりで逃がしたことも、正しかったのかどうか不安だった。だが、あの状況では、手元で翠鸞を守り切るだけの力が自分にはなかったのだ。実際、櫓の三層目から一層目にたどり着くまでに、朱鷺の体は、深手はないものの満身創痍になっていた。鎧は太刀痕だらけで、頬にも、腕にも、足にも守り切れなかった場所から血が滲み出ている。このような状況に翠鸞を置かなくてすんだことは、間違いではないと思う。

 翠鸞は朱鷺の二つ年下で、朱鷺が八つになったときに、跡取りの遊び相手にと藍鷺が鸞の城に連れていってくれたことが初めての出会いだった。

 幼い頃の翠鸞は、笑顔のかわいい溌剌とした男の子で、自分よりずっと体の大きい朱鷺にも物怖じせず、ずっと後をついてまわっていた。

 元々不愛想で、歳を重ねるごとに口数が少なくなっていった朱鷺とは異なり、誰にでも優しく、素直で明るい世継ぎは、鸞の國の皆から慕われていた。そして、朱鷺はそんな翠鸞の側に仕えることを誇らしく思っていた。

 一度だけ翠鸞が本気で怒ったことがあった。朱鷺が初陣にたつと翠鸞に報告したときだ。

 その時、朱鷺は十四だったが、体つきだけなら並の男と変わりがなかった。義父から元服と初陣の許しを得られたことが嬉しく、そのことを翠鸞に報告したのだ。

 まだ丸い頬をした幼さの残る顔で、翠鸞はなぜ朱鷺が男子と同じように元服したのかを問い詰めた。朱鷺は自分が武人としていつか戦場にたつとうことに疑いを持ったことがなかったので、翠鸞が怒る理由がわからず、無言でいるしかなかった。朱鷺が何も言わないことにさらに苛立ち、翠鸞のその目には怒りのせいからか、涙がせりあがってきていた。

「朱鷺のことは、わたしが護ろうと思っていたのに…!」

 その言葉に、朱鷺は耳を疑った。

 鸞の國の跡取りである翠鸞を護るのが自分の役目と考えてきた。なのに、翠鸞は逆に朱鷺を護るというのだ。自分がいない戦場で誰が朱鷺のことを護るのかと、心配しているのだ。

「早く大きくなる。だからそれまで待って」

 そう言って朱鷺を困らせた。だが、すでに決まってしまった出陣が、子供の声で覆るわけがない。

「だったら、必ず帰ってくると約束するんだ!」

 このとき、朱鷺はまだ戦がどのようなものか知らなかった。自分が無事に帰ってこれるかどうかもわからない。翠鸞を安心させるための軽口をきくだけの器用さもない。

「行ってまいります」

 そのとき、朱鷺はその一言だけを残して初陣にたった。

 幸いその戦では大きな怪我もなく、いくつかの手柄を立てて帰参することができた。しかし、その代償として、『朱鬼』という異名がついたのだ。

 

 朱鷺は城の裏手から堀を泳いで渡る算段だった。川を泳ぐのとは違い堀には流れがなく、さほど難しくはないだろう。しかし、川と違って水深は相当あり、足はつきそうにない。この深さで鎧を着て水の中に入れば沈むだろう。鎧を脱いで泳げば向う岸に上がった後、斬り合いにでもなれば、圧倒的に不利だ。

 それでも、朱鷺にはそれしか手段がなかった。

 少しでも目立たぬ場所へと堀の支流に降りるための石段を下っていった。するとそこには、男の子たちが三人、座り込んで肩を寄せ合っていた。

 朱鷺はその脇に自分の弓があることに気が付き、急いで彼らの元に駆け寄った。

「その弓をどうした!」

 胸倉をつかみあげたい気持ちを押さえて、朱鷺が問いかけると、三人が顔を見合わせて、何やら小声で話しあっている。懐から火打ち石を取り出し、灯り皿に火をともして、朱鷺の顔を照らし出した。

「ほら、やっぱり目の色、夕焼けみたいだよ」

「あの、お兄ちゃんの言ったひと?」

 剣を携えた他國の兵に怯えながらも、子供たちのひとりがそう問いかけてきた。朱鷺は自分が鎧をまとっている姿が『朱鬼あかおに』と呼ばれていることを忘れていた。

「その、お兄ちゃんというのは、どんな人だった。十四・五の少年だったか?」

「うん。そのお兄ちゃんがこの弓と矢を、朱い目をした人に渡してって」

「それは、わたしの弓なんだ。それで、その後どうした?」

「それがその…。絶対、言っちゃいけないって…」

「わたしは、その方を助けに行かなくてはいけない。だからどこへ行ったのか教えてくれないか?」

 苛立ちを隠して、できるだけ穏やかに尋ねても、子供たちは口を割ろうとはしなかった。それでも、そのうちの一人の視線が本丸に向けられる。

「本丸へ行った。そうだね」

 よほど口が堅いのか、それでも頷くことさえしなかった。

「これを返してもらえればそれでいい。ありがとう」

 朱鷺は弓と矢筒を子供たちから受け取った。

「これから、どうするの?」

「本丸に行く」

「どうやって? 橋は通れないよ」

「知っている」

 朱鷺は手早く鎧を脱ぐと、弓と矢筒、それに剣をひとまとめにして背に負った。

 こういうとき、髪を短くしておいて良かったと思う。長い髪は濡れると重い。

「もしかして、泳いで渡るつもり?」

「もしかしなくてもそうだ」

「濡れるよ」

「そうだな」

「危ないよ」

「危なくはない。私は泳げるし、この暗がりなら、弓で狙い打ちされる心配もない」

「でも…」

 子供たちはまた、額を寄せ合うようにして相談をし始めた。一番気が強そうなひとりが意を決したように、石をひとつ動かした。

「抜け穴か…!」

 朱鷺は驚いて、子供たちの顔をみた。

「絶対言っちゃいけないって、あのお兄ちゃんにも言われたんだ」

 それはそうだろう。こんなことが知られたら、この子たちの命が危ない。

「翠鸞様はここから?」

「翠鸞っていうの? あのお兄ちゃん。うん、そう。ここから中へ行った。でも、お城のどこにつながっているか、ぼくたちも知らないんだ」

「そうか…」

 朱鷺は、抜け穴を覗き込んだ。小柄な翠鸞なら、かがめば歩けるだろうが、自分ほど背丈があれば、四つん這いにならなければ無理そうだった。場所によっては伏せたまま進む必要があるかもしれない。しかもこの狭さでは、弓を持って入るのは無理だ。ようやっと自分の手元に戻ってきた弓をここでまた手放す気にはなれなかった。

「ありがとう。でも、わたしはやはり泳いでいくよ。ここはわたしには狭すぎる」

「うん…。そうかも」

 自分たちよりもずっと上にある顔を見上げて、子供たちも頷いた。

「翠鸞様が言ったように、わたしたちにこの抜け穴を教えたことを誰にも言ってはいけないよ」

「わかってる」

「絶対言わないよ!」

 この子供たちは口が堅い。きっと大人たちには口をつぐんでいてくれるだろう。

 朱鷺は、手早く鎧を脱ぐと、子供たちに預かってもらうことにした。ここに取りに戻ってこれるかどうかはわからないが、そのあたりに脱ぎ捨てて人目につくよりはずっと安心だ。水の中でほどけないように帯を締め直すと、堀の中に身を沈めた。

「おじさん、気を付けてね!」

「おじさん?」

 朱鷺が怪訝な顔をして振り返ると、子供たちも顔を見合わせていた。

 確かに翠鸞をお兄ちゃんと呼ぶのであれば、それよりもずっと大人に見える自分のことはおじさんと言えなくはない。七つ八つのこどもなら、大人の男は、みなひとくくりにおじさんなのだろう。

「いや、あの、えっと、気をつけてね。お兄さん」

 ひとりが慌てて言いつくろってくれたのが、どこかおかしくて、朱鷺はくすくすと笑った。

 軽く手を挙げて合図をすると、朱鷺はそのまま本丸に向けて泳ぎ出した。


「なぜ! 梨の國の兵が、こんなに早く!」

 勇桔は苛々としながら、家臣たちに問いただしたが、もちろんその答えを持っている者は、その場にはいなかった。

 稜榛と話しているときに、耳打ちされたのは、梨の國の一軍がこちらに向かっているという話だったのだ。

 下つ國のひとつで起きた民の打ちこわし程度で、他の下つ國の一軍を動かすなど聞いたことなど通常ではあり得ない。だからこそ、勇桔は、表立って叛旗を翻すのではなく、民の内乱に見せかけて、稜榛をおびき寄せたのだ。

 この速さで隣国が動いたとなると、稜榛はこちらの動きを先に見破っていた可能性がある。

 稜榛が率いてきた小勢では、焼けかけたこの城でも少しはもつが、一軍に囲まれては、それもおぼつかない。梨の軍勢がくるまでに、篁の本軍がきてくれないと自分の立場が危うい。

「祠篁様からの連絡はまだなのか!」

「いまだ何も…」

「篁の軍は?」

「まだ影もかたちもありません…」

 勇桔はぎりぎりと歯をくいしばり、低い唸り声をあげた。

「もしや…」

 家臣のひとりが、ひそひそと小さな声で発した不安は、またたく間に広まる。

「そんなわけはない! こちらには、祠篁様との密約があるのだ!」

 勇桔の叫びが、焼け焦げた部屋の中にむなしく響いていた。


 自由になった稜榛は、十分にあたりが暗くなるのを待ってから行動を起こした。後ろ手に縄をかけたふりをしたまま、食事を運んできた見張りに油断をさせると、その見張りが背を向けた瞬間に首の後ろに手刀を叩き込んで昏倒させ、腰にあった剣を奪った。翠鸞から渡された小刀だけでは心もとなかったので、武器を手に入れられたことは大きかった。

 後は、同じように囚われているだろう、自分と行動を共にしていて側近たちを助け出すことだった。

 桔の城の中は慌しさと静けさが同居していた。兵たちが走り回っているところがあるかと思えば、その裏には人気がない。城の大きさに比べて明らかに人が少なすぎるのだ。そのことは稜榛にとっては好都合で、鎧を脱がされて囚われていたため、廊下を稜榛が歩きまわっていても、誰も敵軍の将だとは思わない。こそこそと動きまわるよりも、どうどうと腰に剣を佩いて歩いていたほうが、疑われない。

 上つ國の跡取りの自分とは違い、自分の側近たちが囚われるとしたら地下牢だろうと推測して、稜榛は下へ下へと降りて行った。元から桔の國の城は、榛のような上つ國の城とは違い、本丸が大きくはない。どちらかと言えば小ぶりでかつ堅固なつくりの良い城だった。これまで何代もの國守が護りとおしてくれた城がこのようなことになったのが、稜榛には残念でならなかった。

 城の一層目まで降り、半地下の通路に入ろうとしたとき、上方から声がした。

「稜榛が逃げたらしい!」

「まだ、城内にいるはずだ、探せ!」

 さすがにいつまでも隠し通せるわけはない。ばたばたと上の階で人が走り回っている音が響く。

「ばれたか…」

 稜榛は舌打ちすると、目立たぬように気を使いながらあたりをみまわした。今のところ人影はない。稜榛は桔の國にとって最大の人質だ。逃げられては、何のために城を焼いたことが無駄になる。必死になって追跡するはずだ。もたもたしてはいられなかった。

 稜榛は半地下の通路に飛び込んだ。さすがに地下の廊下は真の闇に近い。この中にまで潜り込めば、敵か味方かの判別は難しいだろう。そう思った矢先、背後から灯りが照らされた。

「ここにいたのか!」

 後ろから襲い掛かられる気配に、振り向いて応戦の構えを見せたとき、奥の闇から風を切り裂く音が聞こえた。

 暗闇の中から放たれた矢は、まっすぐに稜榛に襲い掛かった男の眼を射ぬいていた。その矢羽の色は朱。

 引き続いて襲い掛かっていたものにも、容赦なく矢が放たれた。かすかなうめき声をあげただけで、稜榛の周りにばたばたと敵が倒れていった。

「朱鷺か!」

 当座の敵がいなくなったことを確認してから、朱鷺が稜榛の元へ駆け寄った。

「稜榛様、お怪我は?」

「ない」

 稜榛が、喜びと驚きのあまり朱鷺の肩を叩くと、朱鷺が小さな声をあげた。

「おまえこそ、怪我をしてるのか?」

「かすり傷です。堀を泳いできたので、傷に水が入って滲みているだけで」

 そう言えば、暗くてよくわからないが、朱鷺の体からは水の臭いがする。

「ここで会えてようございました。翠鸞様は?」

「夕刻に助けてもらった。それからは別行動だ」

 その言葉を聞いた朱鷺は少し、顔を曇らせたようだった。朱鷺はあくまでも翠鸞を探しにここにきただけで、稜榛のことはついでだったに違いない。

「なにやら、別にやることがあると言っていたが…」

 翠鸞に聞いたままを伝えると、朱鷺は稜榛に先を促した。

「翠鸞様はわたしが探します。稜榛様はこの先に囚われている御家来衆を!」

「おう、言われずとも」

影樟えいしょう殿から、本丸の外に残された者たちは、梨の國の兵と合流するとの伝言がございました」

「あいつに任せておけば大丈夫だろう。おそらく夜明けには突撃が始まる。それまでにここを出る。翠鸞殿にもそのことは伝えてある」

 話を続けながらも、朱鷺は敵に刺さった矢を抜き、血振りをしてから矢筒に戻していた。補給の効かない敵の中、一本でも矢が惜しいのだろう。それにしてもこの暗闇の中でも寸分たがえず射止める技は、味方ながらも背筋が凍るような思いがした。

「お気をつけて」

 朱鷺はそう言うと、背を向けて稜榛がはいってきた廊下の入り口に向かって走り出した。

「おまえこそな…」

 稜榛は口の中だけで語りかけた。朱鷺の一途に主を思う姿を見送った後、踵を返し、自分の側近たちと合流するために、奥にある地下牢へ向かっていった。


 稜榛と別れた朱鷺は、半地下だった通路を抜け、地上へ出た。堀から上がって濡れたままの衣服が体にまとわりつき、体温を奪う。傷を負ったまま水に濡れたため、あちこちから血が滲んでいるのがわかる。しかし、それを気にしている場合ではなかった。

 すでに夜半は過ぎているだろう。稜榛が口にした期限は夜明けまで。あのまま側近たちを開放し、本丸の外へ脱出を成功させると、総攻撃の準備をするはずだ。

 朱鷺には翠鸞の行先の心当たりがあった。先ほどの子供たちから聞いていたからだ。翠鸞は子供たちの家族の無事を確認すると約束したと言っていた。それと引き換えに抜け穴を教えてもらったのだとしたら、翠鸞は必ずその家族たちを探しにいくだろう。そのような約束は必ず守る少年だ。

 そして、子供たちの母親や姉たちが城の賄い方として勤めていることも聞いていた。本丸に火の手が上がったとき、多くの民たちが城から逃げてきたが、兵たちは中にとどまっていた。もし、籠城を選択肢のひとつと考えていたなら、賄い方は城に残した可能性はある。逃げ出したくても、逃げさせてもらえなかった、そう考えれば辻褄はあう。

 朱鷺は、多く城で賄い方が置かれる、水場の近くをあたることにした。賄い方は大量の水を使うため、井戸がかかせない。どこからか米を炊く匂いが漏れてくる。目指している場所はそう遠くはないはずだった。

 朱鷺が踏み入った賄い方の慌しさは、鬼気迫るほどのものだった。炊き上がった米を次々と握り飯にしていく。盆には握り飯が山のように盛られ、それを持って娘たちが慌ただしく部屋を出ていく。それをわずか数人で切り盛りしているのだ。さすがの朱鷺もこの状況では、声をかけるのがためらわれた。

「あんた、なんか用?」

「ああ、その…」

「いくらせかされても、順番だから。取りに来ても先に渡せないから」

 気の強そうな娘が、握り飯を作りながら、こちらをちらとも見ずにそう言った。翠鸞と同じ年頃だろうか。話していても手は止めることはない。

「いや、握り飯じゃなくて…」

「おかずなんてないわよ。この非常時に! 使う米の量だって厳しく言い渡されてんのに、贅沢言うんじゃないわよ」

 どうも会話がかみ合わない。この娘は人の話を聞く余裕がなさそうなので、ほかの誰かにあたろうとしたとき、背後から声がした。

「朱鷺!」

 自分の名を呼んだのは翠鸞だった。側を離れていたのは半日ほどだったはずだが、ひどく懐かしく思えた。

 翠鸞は、飯炊きの手伝いをしていたようで、手にしていた火吹き竹を隣の娘に手渡すと、朱鷺のほうへ走ってきて、子供のときのように抱きついた。

「若! ご無事でしたか」

 朱鷺はそんな翠鸞のことが愛おしく思えて、やはり子供のときのように抱き返した。

「朱鷺、びしょ濡れじゃないか…」

「堀を泳いできましたので」

「抜け穴は使わなかったのか?」

「わたしには狭すぎました。それに弓がありましたから」

 翠鸞は朱鷺から少し体を離すと、少し頬を朱くして言った。

「朱鷺…」

「はい…?」

 どこか言いにくそうにためらっている翠鸞の様子に、どう答えて良いか思案していると、翠鸞は少し顔を背けて、ためらいがちにその理由を教えてくれた。

「その…。濡れた服が体に張り付いて……」

「…?」

 朱鷺は一瞬意味がわからなかったが、自分の体を見下ろしてみて、ようやく翠鸞が顔を背けた意味がわかった。水に濡れた布がぴったりと張り付いて、自分の体の線を浮き彫りにしているのだ。普段はゆったりと着こなすため、目立たない乳房の形が、今はくっきりと浮かびあがってしまっていた。

 暗い地下ならともかく、賄い方には夜半を過ぎても灯りがともっており、朱鷺の姿を照らしていた。

 翠鸞は、娘たちに声をかけ、調理台にかけてあった大きな布をもらってきた。

「とりあえずだけど、これをかけておけば…」

「すみません」

 薄手のその布を肩から外套のようにまわしてはおった。確かにこれで少しは目立たない。

 翠鸞の顔はまだ少し朱い。

「…朱鷺も、女の子なんだなと思って…」

「いえ…。忘れてください」

「うん。そうする。でも、無理だと思う…」

 意味の反する二つの答えを返した翠鸞は、うつむいたまま顔をあげてくれず、朱鷺は話を替えることにした。

「ところで、あの子たちの家族は見つかったのですか?」

「ああ。皆ここで飯炊きや水汲みに駆り出されていたようだね。さっき朱鷺が話していた娘もそのひとりだよ。優杏ゆうあんというんだ。気は強いけど、働き者でいい娘だよ」

「良かった…」

「良くはないよ。夜が明ければ、梨の軍の一斉攻撃を受ける。早くここの人たちも逃がさないと…」

「しかし、てこでも動かなさそうですよ。ここのひとたち」

 ある意味、食事を作ることが彼らの戦のようになっている。

「そう思って、わたしも少し手伝っていたのだけれどね」

「そうですか。顔に煤がついています」

 そう言って朱鷺が指で翠鸞の頬を拭うと、翠鸞が照れたようにその手をはらった。

 桔の國のためにと皆が力を合わせて働く姿は尊いものだ。しかし、その時間はもうあまり残されてはいない。燃え落ちかけた城に一國の軍勢が押し寄せればどうなるか、その結果は火を見るよりも明らかだ。愚かな主の引き起こした叛乱に、善良な民が巻き込まれる必要などない。

「夜明けに梨の軍が来ることは話したのですか」

「うん。でも信じてもらえなかった…」

「信じてもらうしかないでしょう」

 朱鷺はそう言うと、腰の剣を抜きはらうと、翠鸞の喉に腕をまわした。

「おまえ! 榛の間者だな! どうやってここまで潜り込んだ!」

 何が起きたのか、一瞬わからなかった翠鸞は小声で問い返した。

「朱鷺?」

「合わせてください」

 朱鷺も小声でそう返すと、力加減を微妙に調節して、ぎりぎりと締め上げる振りをした。

「いや、ぼくは上の命令で食事をとりに来ただけで…」

「いや、見たことのない顔だ。さっき、榛の兵たちが地下牢を抜け出したと一報があって探しているのだ! おまえもそのうちの一人か!」

 朱鷺が腹に力をこめて大声で怒鳴ったため、賄い方は一瞬にして緊張に包まれた。

「ちょっと、あんた離してやってよ。この子は本当にご飯を取りにきただけなんだからね。その上、手がたりないわたしたちの手伝いをしてくれてたのよ」

 朱鷺の前に立ってそう言い返してきたのは、さっきの娘、優杏だった。

「なんだ、おまえも間者の仲間か?」

「そんなわけないでしょ。誰があんたたちのご飯、つくってると思ってんの?」

「いや、わからんな! この城の誰かが榛と通じていた。その証拠に明日の朝には、梨の國が攻めてくるぞ」

「何ですって?」

「すぐにここも火の海になるぞ!」

「ちょっと待っとくれ、どこの國がうちの國を攻めるって? お城の火事は収まったのじゃなかったのかい?」

 後ろから握り飯をもったまま、年配の女が顔を出した。確かに下々のものには、自分たちの國が主筋にあたる上つ國の榛に叛旗を翻したことまでは知らされてはいないだろう。だから友軍である梨の國が、自分たちの國を攻め滅ぼしにやってくるなど、信じられないに違いない。

「御館様は、我らを利用するばかりの榛を見限った。そうしたら、榛は梨の軍を使って、この國を攻め滅ぼそうというのだ。もうすでに囲まれている」

「なんだって!」

 子供の翠鸞が言っても信じてもらえなかったことが、武人然として語る朱鷺の言葉には皆耳を傾けた。

「よく、わからないけど。この城は危ないってことよね?」

「そうだ!」

「確かに、半分焼けちゃってるこの城に残ってても仕方ないかも。母さん! おばさん! 持てるだけ握り飯持って逃げよう!」

「抜け穴に案内するよ!」

 翠鸞はそう言って先頭にたつと、案内役を買って出た。


 賄い方のものたちを連れて抜け穴から逃がしても、朱鷺も翠鸞もそこから逃げはしなかった。

「あんたたち、一緒に来ないの?」

 そう娘に問われて、朱鷺と翠鸞の二人は顔を見合わせた。

 あの後、二人が鸞の國のものであることと、子供たちから頼まれて、様子を見に来たことを正直に話すと、賄い方の者たちは事情を分かってくれ、一緒にここまで来たのだ。

「本当は、若だけでも外に逃げて欲しいのですけど…」

「嫌だよ。だって今は追い詰められているわけじゃない」

「ですが、危険です」

「その危険なことを朱鷺はしようとしてるんだよね?」

「はい…」

 どのみち、朱鷺が抜け穴を通って外へ出るのは難しい。また泳いで渡るという手も考えなくもないが、それよりもやるべきことがある。

 東の空がうっすらと明るくなりかけていた。


「揃ったか」

「はい、おおむね」 

 本丸の前に梨の軍の兵を率いた稜榛の姿があった。朱鷺と別れた後、地下牢に囚われていた側近たちを救い出し、そのまま堀に飛び込んだ。追手がかかったものの、向う岸で待ち構えていた影樟たちの助けもあり、無事、合流することができた。真夜中過ぎには梨の軍とも合流を果たし、夜明けを待つばかりだった。

「翠鸞殿は?」

「御姿が見えません」

「まだ本丸の中にいるのか…」

「攻撃を遅らせますか?」

「いや、この機を逸するわけにはいかん」

「はい」

 影樟にはそう言ったものの、翠鸞と朱鷺の姿が見えないことに、稜榛は苛立っていた。この二人を失うわけにはいかない。

「何をしているのだ…!」

 稜榛は、人に聞かれぬほどの小さな声でひとりごちた。

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