第七章
まだ実力の伴わない自分ひとりでは何もできない。まずは、
庭木の間に身を隠すようにして本丸を目指した。下つ國とはいえ若君として育てられた翠鸞にとって、こうして一人きりで行動するのは初めてのことだった。
しかし、朱鷺が自分の身を盾にして、逃がしてくれたのだ。しかも、大事にしている弓を託して。自分には到底扱えないとはわかっているが、朱鷺の矢筒もその背にあった。朱鷺が屋根から突き落とすときに、自分の肩に矢筒の皮帯を引っ掛けたのだ。
この強弓を自分が引くことはできないが、この背にあることになぜか安心感を覚えた。朱鷺はこれを自分から受け取るために必ず、自分に会いにくると思えたからだ。
「何者だ!」
勇ましい口調とは裏腹の甲高い子供の声に翠鸞が振り向くと、煤だらけになった顔の子供が三人、こちらをにらんでいた。年のころは七つか八つだろうか。
「おまえ、
「何って、きみたちのお城が燃えているから、火を消すのを手伝いにきたんだよ」
「うそだ! お城の方たちは、榛の兵が火をつけたって言ってたぞ!」
「そうだ、そうだ。朝から狼煙はずっと上がっていたけど、お城に火がついたのは、榛のやつらが城下町に来てからだ! おまえらの仲間が火をつけたんだ! そうだろっ!」
その話を聞いて、翠鸞ははっとした。盛大に上げられた狼煙を火事と勘違いしたのだ。元々榛の者たちは、内乱によって城が落ちることを危惧していた。そんな自分たちをだますのはたやすかったに違いない。
そして稜榛たちが城下町に入るのと同時に火をかけた。榛の兵がやっきになって消火するのを見越した上でだ。これならば焼け落ちるほどの被害には至らないだろう。城に入ってからの違和感の正体はこれだったのだ。燃え始めてから時間がたっているのに、被害が少なすぎたのだ。そして、そのことをわかっていた城の者たちには焦りはなく、逃げまどっていたのは、煤まみれになった民たちだけだった。
「火を消しに来たのは本当だよ。ほら、みてごらん、お城から出てる煙がどんどん小さくなっているだろ。榛のひとたちと、桔のひとたちが力を合わせて、お城を火事からまもろうとしているんだよ」
翠鸞の言葉に三人は顔を見合わせながら、相談を始めた。
「……信じられるかっ」
「本当かも…」
「だって榛の國のやつらは、俺たちばかりに戦をさせていい思いをしてるんだぞ!」
その言葉を聞いて、翠鸞ににっこりと笑った。
「ああ、わたしは榛の國の出身じゃないよ。
「そうなんだ…」
「桔と同じ、下つ國…?」
「そう。実はここより、もっと小さい國だけどね。だからみんなと同じ仲間だね」
領地の大きさからすると、鸞の國は桔の國の半分にも満たない。しかし暮らしぶりは桔の國よりもずっと豊かだ。擦り切れた衣をまとっている子供たちの姿に少し心を痛めながら、翠鸞は、子供たちに共感を得てもらおうと、言葉を続けた。
「火事、大変だね。みんなの家族は大丈夫だった?」
そう言うと、ひとりの顔から涙がぽろりとこぼれた。
「お姉ちゃんが、お城にお仕えしてるんだ。まだ、お城の中にいるかもしれない…」
「そう、心配だね」
そう言うと、父さんが、母さんがと口々に言い始めた。この子供たちは本丸仕えの者たちの家族で本丸の堀の外に建てられた宿舎に住んでいるらしい。しかし、子供は本丸に入る許しがもらえないらしく様子を見に行くことがかなわないという。
「わたしが、お城の中まで見に行ってあげようか」
「本当!」
「ほら、わたしは今榛の兵隊さんだろ。お城の中に入れてもらえると思うよ」
「ああ、だめだよ…。ほら、橋が…」
「橋?」
「本丸のお堀を渡る橋。榛の國のお偉いさんが通った後、跳ね上げられちゃったよ」
「え? 跳ね上げられた?」
翠鸞は、本丸で何かが起こっていると直感し、できうる限り早く稜榛と合流せねばと気が焦り始めた。
「あっちから行く?」
「でも、あそこは通っちゃいけないって、言われているだろ」
「でも、いまはひじょーじってやつだと思う」
「このお兄ちゃんなら、大丈夫かも」
三人は話合った結果、翠鸞をどこかに案内することに決めたようだった。心を決めたら、我先にと翠鸞の手を取って、走り始めた。その先は、本丸の裏手にある堀の支流だった。雨などで堀の水位が高くなった場合に水を逃がすためのものであろう。水門があって普段は閉じられているようだった。その水門の脇の石垣のうち、いくつかだけ不自然に苔が生えていなかった。
「ここ、ここだよ!」
ひとりがそう言って、苔の生えていない石を押すと、ずずっという低い音とともに、いくつかの石が連動して動き、人が這いつくばれば、なんとか通れそうな隙間ができた。
「もしかして、抜け穴?」
「そう。でも、お城のどこに通じているのかは、ぼくらは知らないんだ」
「ここの、草むしりや泥かきをするのが僕らの仕事なんだよ」
確かに、大人ではしゃがんでくぐるのが精一杯で、中での作業は困難だ。かといって、堀の支流になっているということは、大雨が降ると、泥がたまる。いざというときに、泥が溜まって使えないのでは意味がない。子供たちの力を借りて、泥かきをさせていたのだろう。
「わたしにこの場所を教えたこと、誰にも言っちゃいけないよ」
もし、抜け穴を教えたことがわかったら、この子たちの命が危ない。
「誰にも言わないよ。大丈夫」
「ありがとう。じゃあ行くね」
「あのね。お兄ちゃん。さすがに、それ背負ったままじゃ無理だと思う」
翠鸞の背には、朱鷺の弓と矢筒がある。確かにこの狭い通路では、弓が天井につかえてしまいそうだ。
「…そうだね」
翠鸞は、残念そうに肩から背から弓と矢筒を降ろすと、子供たちに手渡した。
「ひとつお願いがあるんだ」
「なあに?」
「この弓と矢を、ある人に渡してほしい」
「ある人って?」
「わたしと一緒にここにきた榛の國の兵隊さんでね。朱い鎧を着た大きな女の…」
「朱い鎧の大きな女のひと?」
「いや、大きな男の人だよ。夕焼けみたいな目の色をしてる」
「その人にこれを渡せばいいんだね」
「うん。頼んでもいいかな」
「もちろん!」
「じゃあ、本当に行くね」
翠鸞はそう言うと、抜け穴へと降りて行った。
西の櫓では、まだ朱鷺が戦っていた。三層目から、二層目へ。二層目から一層目へと、敵を切り倒し、蹴り落とし、狭い階段の中、着実に下へ降りていく。何人を倒したのか、もう数えられなくなっていた。次から次へと新しい兵が朱鷺に挑みかかるが、通路がせまく他の者と入れ替わろうとすると、いったん屋上の見張り台まで戻らなくてはならない。それでは意味がないのだ。朱鷺は肩で息をしながらも、黙々とひとりで対峙し続けた。一層目にある階段の入り口の兵を切り倒し、みぞおちを思い切り蹴って、その体をふっとばすと、途端に視界が開けた。
一層目にある広間に出たのだ。
その瞬間、敵が一斉に朱鷺に襲い掛かってきた。
「あんたは下がってろ!」
そう言って、朱鷺の後ろからぴったりくっついて降りてきた榛の兵の一人が、朱鷺をかばって前にでた。それに引き続いて、どんどん、上から仲間たちが降りてきて、朱鷺の前に立つ。
「『
「でも、もう、息があがってるぜ。後は俺たちに任せなって!」
口々に朱鷺を褒めながら、次々と敵を切り伏せていく。さすがに稜榛に付き従って、ここまできた者たちだけあって、精鋭なのだろう。みるみる敵の数が減っていく。じりじりと敵を追い詰めていってもう櫓の入り口近くまで、敵が退いている。
「いったん退け!」
櫓の外から隊長らしき男の声がすると、残っていた敵兵が櫓の外に消えた。
「外の様子は?」
朱鷺が階段口から、上に声をかける。念のために何人か、見張り台に残っているのだ。
「敵は本丸の方に行ったようだ。囲まれてはいない」
その声を聞くと、朱鷺はその場にいた者たちと顔を見合わせた。
「外へ出て、稜榛様たちと合流しよう」
「そうだな」
そう意見がまとまり、外へ出た。あれからどれほど時間がたったのか、すでに日が西に傾き、夕陽が城を赤く染めている。
桔照に入ったのが昼過ぎ、翠鸞と別れたのはそれから一刻ほど後のことだった。
「夜になるとやっかいだな」
朱鷺のつぶやきを、榛の兵が聞きとめた。
「いや、時間はこちらの味方かもしれん」
「どういうことだ…」
「
「何?」
「稜榛様は、ある程度のことを見越していらした。城での評議の場では公にはしなかったが、内密にすぐ南の梨の國には援軍を要請していた。
「あなたは、何故それを知っている?」
「ああ、まだきちんと名乗っていなかったな。
「稜榛様の側近? なぜここに?」
「もちろん、翠鸞殿の護衛だよ。あんたの鉄壁の守りがあれば、俺など不要だったがな」
稜榛がそれとは告げずに、自分の配下から信頼できる者を翠鸞に付けたのだろう。朱鷺が翠鸞を櫓から逃がしたため、影樟の仕事はなくなっていたが。
「さっき、上から降りてきた奴に聞いた。堀に架かっていた本丸への橋が跳ね上げられているらしい」
「何だと。確か稜榛様は我々と別れた後、本丸へ向かわれたのでは?」
「ああ。そうだ。本丸で何かあったことは確実だろう」
「では、こちらも兵をまとめて本丸へ」
「いや、本丸に籠られた以上、この手勢では無理だ。突撃をかけるなら梨の國の兵と合流したからだな」
「では、わたしは翠鸞様を探しにいく」
「心当たりはあるのか?」
「ない」
「…え?」
朱鷺のあまりの率直な答えに、影樟は一瞬答えに窮した。
「それでどうやって探すつもりなんだ」
「心当たりはないが、若ならきっと、稜榛様と合流しようと試みるだろう。分かれてからもう数刻はたっている。きっと本丸の中に潜入していると思う。勘というやつだ」
「『朱鬼』さんよ。あんた結構、感覚で生きているな」
「そうか。そうかもしれない」
「本丸へ行くつもりか? どうやって堀を渡る?」
「何とかするさ。いざとなれば泳げばいい」
「しかも、行きあたりばったりと来たか。俺たちは、梨の兵と合流する。あんたも気を付けて行けよ」
「ああ」
朱鷺はそう影樟とそう言いかわして、その場を後にした。稜榛が手配した通り梨の國からの兵が着けば、夜明けには総攻撃がかかるかもしれないが、朱鷺はそれまで待つつもりはなかった。
もうあたりは暗くなり始めていた。
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