第四章

 次の朝、朱鷺しゅろは髪を切った。

 言葉として藍鷺らんろの許しを得たわけではないが、咎められることはないだろう。小刀をあて、編んだままの髪をそのまま肩のあたりでふっつりと切り落した。

 首の後ろに風が通り、すこしひんやりとする。

 切り落した髪は、漆塗りの黒い箱にしまう。これは育ててくれた義父に残していこうと思った。

 昨夜、屋敷にあった酒を二人で空にするまでに呑んだので、藍鷺が目覚める気配はまだなかった。朱鷺はひとり先に簡単な朝餉を取り、城へ向かうことにした。


 朝の開門時に、門の前に立っていた護衛隊の同僚たちが、髪を切った朱鷺の姿を見て、驚いた顔をしていたが、唾を呑み込んだだけで、声はかけてこなかった。朱鷺はいつも通り、軽く頭をさげて、門を通った。

 さつの間の前で、碧鸞へきらんへの取次を頼むと、御館様付きの側仕えの少年までもが、変な顔をして朱鷺のことを見上げていた。何かあるのかと訝しみながらも、中から碧鸞に呼ばれ、静かに戸を開けた。

「朱鷺にございます」

「うむ。早いな」

「昨日のお返事にまいりました」

 朱鷺が話をはじめようとしたそのとき、朱鷺が入ってきた側とは違う、上座側の奥から慌てたような足音が近づいてきた。

「父上、入ります」

「おお、翠鸞すいらんか」

 碧鸞が許す前に、翠鸞は戸を開けた。万事、礼儀正しい翠鸞らしからぬ振る舞いだった。

「さきほど、朱鷺が城にきたと…。朱鷺!」

 翠鸞の驚きは、先ほどの側仕えの少年の比ではなかった。

「その髪、どうしたのだ!」

「今朝、切りました」

「それは見ればわかるけど。自分で切ったのか?」

「はい」

 翠鸞は、父親と顔を見合わせると、なにやらふたりとも妙な顔つきになった。

「さきほど、護衛隊の者がわたしのところに駆け込んできて、朱鷺が鬼のような形相で城にきたと知らせてきたのだ」

「はあ」

 自分はそれほど切羽詰まった顔をしていたのだろうか。自覚はないが、普段から愛想がないのはいつものことなので、仕方がない。

「朱鷺、髪を切ってから鏡を見たか?」

「いえ、あいにくと私は鏡をもっていませんので」

 ここで、墨烏ぼくうなら「年頃の娘なら鏡くらい持ってろ」と言いそうなところだが、持っていないものは仕方がない。

「だろうな。あまりに髪がざんばらで、鬼のようになっている……」

 その髪型と、決意を胸に秘めて固い顔つきになっていたため、何事があったのかと、ここに来るまでに顔を合わせた者たちに思わせたようだった。

 どうやら自分の髪は固くて張りがあるようで、ざくざくと小刀で切り落したため、まるで絵に描いた鬼のような様相になっていたのだ。

「朱鷺、話は後で聞くゆえ、とにかく、その髪をなんとかせい」

 碧鸞はそういうと、朱鷺を一旦下がらせた。

 翠鸞は朱鷺と一緒に、颯の間を下がると、自分の部屋へ朱鷺を連れて行こうとした。

「若、控えの間に下がらせていただきたいのですが」

「また、自分で切る気か? もっとひどくなるぞ」

 確かに整えようとして、さらに短くなる気がする。いっそ、誰かの手を借りて、刈り上げてもらうほうが手間がないかもしれない。

 翠鸞は、朱鷺の腕をつかむと、これ以上朱鷺の話は聞かないとばかりに、廊下を歩きだした。部屋の前までくると、さっと戸を開けて、朱鷺を部屋へ放り込むと、近くにいた側仕えに声をかけた。

「母上をお呼びして」

 翠鸞の母の緑鶯りょくおうは、碧鸞の後妻で、親子ほども歳の離れた夫婦である。若くして老年といっていい年頃の碧鸞に嫁いだが、よく夫に尽くし、ほどなく翠鸞を授かった。おっとりとした、気立てのよい女だった。

 翠鸞に呼ばれた緑鶯が、侍女たちをつれて部屋に入ってくると、急に騒々しくなった。

「まあ、まあ、まあ!」

「母上、なんとかなりますか?」

「まあ、本当に、大変なこと。ええ、なんとかしませんとね」

 驚きかたも、どこかのんびりとした受け答えであったが、手際は良かった。大きな布を広げ、その上に朱鷺を座らせると、よく砥いだ小刀で、少しづつ毛先を整えていった。

 それまであちらこちらに撥ねるにまかせていた毛先が、ほどよく収まって、あごのあたりの長さにそろえられていく。

「張りのある美しい髪だこと」

 そう言いながら、緑鶯は切り揃えた髪に櫛を入れた。

「固くて、ごわついた髪の間違いでは」

 少し皮肉れた心持で、朱鷺がそう切り返すと、緑鶯はにっこりと笑いながら、言葉をかえした。

「それは手入れをしないからではなくて。ちゃんと櫛を通せば艶やかになりますよ」

 侍女たちは手早く切り落された髪を片付け、緑鶯は小刀にさっと油を塗って手入れをすると鞘に戻した。

「髪を切ったのは早計だったのではないの?」

「わたしは…」

「気持ちはわかるけれど、髪は短いほうが整えるのが大変ですよ。これまでのように適当に編み込んでおくわけにはいきませんからね」

「え?」

 思わぬところに話を持っていかれて、朱鷺は思わず声を詰まらせた。

「ああ、そうか、朱鷺は髪が長かったから、朝、髪に寝癖がついたりしたことがないだろう」

「寝癖?」

「ははは。そのうちわかる。これからは、朝、出仕前に必ず鏡をみたほうが良いぞ」

 侍女たちは、翠鸞と一緒になって笑っているが、朱鷺には何を笑われているのかがよくわからなかった。

「はい、鏡」

 そういって緑鶯から手渡された鏡に映った自分の姿は、やはり年頃の娘には見えなかった。髪があごのあたりで切り揃えられたこともあり、二十歳前後の若者に見える。

「若」

「何?」

「わたしは、若とともに、しんの國へまいります」

「ありがとう」

 翠鸞は朱鷺の前に腰を下ろすと、その手を取って礼を言った。

「礼を口にされるのは、早すぎます。わたしが若の役にたつかどうか……」

「朱鷺が側にいてくれるだけで、十分心強いよ」

「髪を切ったのは、榛の國では『朱鬼あかおに』で通そうと考えたからです」

 護城としての務めはもちろんだが、朱鷺にとって一番大切なのは翠鸞の警護だ。その場合、女だと侮られるよりも、男と押し通したほうが都合が良い。

「そう。朱鷺がそうしたいのなら、それでいい。でも、わたしにとっては、朱鷺は『朱鬼』なんかではないよ。それは忘れないでおくれ」

「はい」


 その後、翠鸞とともに、碧鸞に護城として榛の國へ行く決意をしたことを報告すると、朱鷺はもうひとつの問題を片付ける必要に迫られた。

 自分に与えられた控えの間に戻ると、手早く一通の手紙を書きあげた。城の雑用をしている童仕えに声をかけると、その手紙を墨烏に届けるように頼んだ。

 墨烏は屋敷を構えず、城住まいをしているので、そのあたりを探せばすぐに見つかるだろうが、朱鷺はできるだけ顔を会わせたくなかった。

 手紙に書いたのはたった一言だった。

『嫁にはならぬ』


 出立が三日後と決まり、急に朱鷺のまわりが慌ただしくなった。

 護衛隊の籍から抜けるため、夜番の組みまわりを見直してもらわねばならない。慣れ親しんだ弓場から何を持っていくか選ばねばならない。朱鷺が愛用している強弓に使う弦は、らんの國でしか手に入らない。取り寄せるとなると時間がかかるため、いくつか予備を持っていく必要があるだろう。いつ帰ることができるかわからないため、屋敷のほうも片付けておきたい。

 数え上げればきりがないが、時間は限られているのだから、できることも限られる。できぬところは早めに諦めてしまうほかない。

 あっという間に時間がたち、出立の前夜となった。朱鷺は夜番のときにいつも立っていた城の見張り台に上った。月明かりに照らされて、うすぼんやりと城下の家々の陰が見渡せた。

 明日は夜明けとともに出立するため、屋敷に戻ることはかなわないが、藍鷺とは昼間のうちに別れを済ませてあった。

「よう」

 見張り台の上に姿を現したのは、墨烏だった。

「明日だな」

「ああ」

「準備はできたのか」

「もとより、持っていくものはあまりない。弓弦と矢羽の予備くらいのものだから」

「そんなもん、足りなくなったらいくらでも送ってやるさ。俺が言っているのは、こっちのほうさ」

 自分の胸を親指でさしてそう言った。

「榛の國に行ったことは?」

「ない」

「榛の國に知り合いは?」

「ない」

「やれやれ…」

 朱鷺はこれまでなんども戦には出ているものの、それ以外で他の国に赴いたことはなかった。義父の藍鷺はしばしば榛の國へ行き、外交上の詰めをすることはあったが、そのようなときには、朱鷺は留守番と決まっていた。それこそ十六の娘を連れていくような場ではなかったからだ。

「この鸞の國は本当にいいところだ」

 墨烏は、月明かりに照らし出された、郷の様子を眺めながらしみじみとそう言った。

「御館様は度量があるし、軍師の親父さんは物分かりがいい、その上、郷のものはよそ者の俺にまで親切ときたもんだ」

「そうだな」

 六つのときからこの鸞の國で育った朱鷺も、よそ者であるが、普段はそのことを忘れるくらい鸞の國になじんでいる。それは、この鸞の國が自分を受け入れてくれるからだ。

 弓士としてやっていけるのは、体が大きいとはいえ、女である自分を武人のひとりとして認めてくれている城のみんながいるからだ。

かみつ國っていうのは、そんなわけにはいかない。しもつ國どうしは意地を張り合って、ちょっとでも上つ國に気に入られようと必死になっているからな。その上、上つ國どうしは腹をさぐりあっていて、いつ戦がおきるかわかったもんじゃねえ。常にどこかぎすぎすしていてよ。お互いの隙を狙ってやがる」

「榛の國に行ったことがあるのか?」

「いや。だが、他の國をいろいろ渡り歩いたからな」

 朱鷺は墨烏が鸞の國に来るまで何をしていたか聞いたことがなかった。もしかしたら、これまでに上つ國に仕えていたことがあるのかもしれない。

「親父さんに聞いたが、男で通すつもりだってな」

「だから、髪を切った」

「榛の國に行くんなら、俺もそのほうがいいとは思う」

「反対しないんだな」

 朱鷺は思わず聞き返した。いつぞやの晩、朱鷺に求婚したときとはあまりに違ったからだった。

「反対して止まるもんなら、反対するさ。でも、決めちまったもんは仕方がねえさ」

 墨烏は、朱鷺のうなじに手をやって、短くなってしまった髪の先に触れた。

「ま、短い髪も似合ってはいるよ」

 ふと笑みをもらした墨烏につられて、朱鷺もつられて微笑んだ。

「そんな顔されると、あきらめきれねえよなぁ」

「その話はなしだ」

 墨烏はおおきな溜息をつくと、真顔になった。

「とにかく、榛の國にはいったら隙をみせるな。それと、ひとりで若さんを守れると思うなよ。力づくで何とかできることばかりじゃないからな」

 おそらく、問題になってくるのは、力ではなく権謀術数のほうなのだろう。墨烏は経験からそのことを良く知っているのだ。確かに朱鷺にはその経験はまったくない。

「それから、体には気をつけろ」

 そういうと墨烏は無骨な手には似合わない優しい手つきで、朱鷺の頬を撫でた。朱鷺はその手を振り払いはしなかった。ただ、小さく頷いただけだった。


 夜が明ける少し前から、護城として榛の國へ向かう者たちが慌ただしく城の前に集まり始めた。交代要員と新しく追加されるものとで合わせて二十名ほどだった。その中に翠鸞と朱鷺の二人の姿もあった。

 夜明けと同時に、碧鸞への挨拶をすませると、隊列を整えて城門へむかった。鸞の國は小さいため、城から城門まではわずかな距離だった。その城門のまわりには、護城となる者たちの家族が別れを惜しんで集まっていた。

 翠鸞は城門付近で歩みを緩めるように指示をだすと、皆にゆっくり別れを惜しませてくれた。護城となると、何年も鸞の國に帰れないこともあるからだ。

 そこには若い娘たちの姿もたくさんあった。翠鸞との別れを惜しんでのことだろうと朱鷺は思った。翠鸞は優しい面差しの少年で、城下のものたちに人気があった。

 朱鷺には、ここまで見送りにくる家族はいない。たったひとりの義父である藍鷺は、碧鸞とともに城にいるからだ。

「朱鷺!」

 自分を背後から呼び止めた声は、少女の声だった。ふと振り返ると、編み髪の美しい女の子が小さな革袋を手に持っていた。

橙燕とうえん…」

 それは、蒼燕そうえん縹燕ひょうえんの歳の離れた妹だった。城下や郷の少女たちは、朱鷺のことを遠巻きに見ていることが多いが、橙燕だけは、兄たちが朱鷺と親しくしていることもあって、物怖じすることもなく朱鷺に声をかけてくるのだ。

「あの、これ…」

 そういうと、手にしていた革袋を手渡した。

「ありがとう」

 そう言って馬上から手を差し出して受け取ると、橙燕の頬が朱く染まった。

「朱鷺が髪切ったの、すごくびっくりした。でも、すごく似合っているよ。でね、それでね…」

 橙燕はまだ話を続けたそうだったが、前方の列はすでに動き始めていた。朱鷺もぽくりと馬を一・二歩前に進めた。すると、橙燕は慌てたように、朱鷺の手を握った。

「本当はね。みんな朱鷺と話をしたかったんだよ…」

 そう言って橙燕がちょっと後ろを振り返った。そこには遠巻きにして朱鷺のことを見ている女の子たちの姿があった。

 朱鷺は少し驚いた。普段から男たちから声を掛けられることはあっても、年下の少女たちから声を掛けられることはほとんどなく、怖がられているとばかり思っていたからだ。

「だからね、わたしがみんなの代表で来たの。それ、傷にきく薬草なの。みんなで集めたんだよ!」

「そうか。大事に使うよ」

「元気でね…」

 そう言った、橙燕の目にうっすらと涙が浮かんできた。

「おいおい、うちの妹泣かすなよ…」

 いつの間にかすぐ隣まできていた縹燕が声をかけてきた。

「若を頼むよ」

 蒼燕の姿もある。少し後ろには護衛隊の仲間たちも手を振っていた。

 自分には見送りに来るものがいないなどと思っていたのは間違いだった。

 藍鷺に連れられてこの國に来てから十年。ここが自分の故郷なのだと、朱鷺は改めて思った。

 列から遅れ初めていた朱鷺は、別れを惜しみながらも馬を進めると、少しづつ手を振る人びとが小さくなっていった。

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