第三章

 藍鷺らんろの屋敷は、らんの城下、その中でも城からもっとも近いところにあった。藍鷺は早くに妻を亡くしており、養い子の朱鷺しゅろとのふたり暮らしであった。そのふたりともが城で過ごすことも多く、通いの手伝いがいるだけで、ほとんど空き家のような状態だった。

 國守である碧鸞へきらんから、朱鷺をしんの國の護城ごじょうにとの話があった後、ふたりは無言で屋敷に帰ってきた。朱鷺が通いの手伝いの者に風呂と夕食の準備を頼むと、藍鷺が酒の用意もさせるようにと声をかけてきた。

 風呂の後、二人して夕食の膳を前にして始めて、藍鷺が口を開いた。

「こうして朱鷺と食事をするのも久方ぶりだな」

「はい。普段は城の御膳ですましてしまいますから」

 朱鷺は元服してから、鸞の城の護衛隊にも所属しているため、二日に一度は夜番にあたる。夜番にあたれば、食事は交代で握り飯を食べて終わりだ。

 夜番でなくとも、いろいろと城の御用を済ませていると、夕刻を過ぎることも多く。城で支給される膳を取ってから帰宅することも多かった。それは、藍鷺も同じで、ふたりともが城勤めになってからは、屋敷で顔を合わすことはめっきり少なくなっていた。

 藍鷺が瓶子を傾け、手酌で盃を満たすと、朱鷺のほうを向いて言った。

「おまえも、飲むか」

 朱鷺は少し驚いた顔をして盃を手に取った。これまで、義父に酒をすすめられたことなどなかったからだ。

 戦に出るようになってからは、朱鷺も出陣前の景気づけや、勝ち戦の後の祝い酒を口にすることはあった。しかし、このような屋敷の晩酌では、義父がひとりで静かに酒を口にするだけで、これまで一度もふたりきりで酒を酌み交わしたことはなかった。

「あ、はい…」

 朱鷺は、おずおずと酒を口にすると、横目でちらりと義父の顔をみた。その顔には少し寂しそうな笑みが浮かんでいた。

「遠慮することはないぞ。そなたが底なしなのは知っている」

 女とはいえこの体つきだ。無礼講の宴のときなどに、呑み比べの相手にと駆り出されるのはよくあることで、小ぶりの樽ごと空にしたこともある。

 酔いとは別の理由で顔を朱くしていると、藍鷺がさらに酒をつぎたした。

「義父上も…」

 朱鷺は酒をつぎ返すと、藍鷺もぐいと一息で飲み干した。

「こうやって、息子と酒を酌み交わすのが夢だった」

 ぽつりと呟くように藍鷺がもらした。

 藍鷺の実の息子は、生まれると同時に息を引き取っている。そのときの産褥が元で妻も失ったのだった。それからひとり、後妻をもらうこともなく、鸞の國の軍師として、お役目に尽くしていたという。朱鷺を養い子として引き取ったのは、妻と子を亡くして随分たってからのことだと聞いていた。

「そなたは息子ではなく、娘だがな。それでもいいものだ」

「……」

 朱鷺が男として振舞うのを認めてくれている義父だが、娘であるということを忘れてはいない。だからこそ、男のように元服をさせ、武人として出陣はさせても、編み髪を切ることだけは許してはくれなかった。

 このように並の男よりもいかつい体つきになってしまった自分のことを、まだ娘と呼んでくれる義父のことを慕わしく思った。この義父をまたひとりにしてしまう。

 炙られた干物を肴に、言葉少なに酒ばかりがすすむ。言葉にしなくてはいけないことがあるのに、朱鷺はなかなか切り出すことができなかった。

 結局、話を切り出したのは藍鷺だった。

「心は決まっておるのだろう」

「はい」

 朱鷺は、素直にそう答えた。碧鸞から護城の話を聞かされたときには、確かに驚きはしたが、自分がどうすべきか、迷うことはなかった。

「翠鸞様とともに護城として榛の國へまいります」

「そうか」

「義父上、お願いがあるのです」

「なんだ。言ってみよ」

「髪を切ることを許してください」

 この鸞の國では、みな朱鷺が女であることを知っているが、榛の國のものは『朱鬼あかおに』が女であることを知る者はほとんどいない。榛の國では、男であっても髪を伸ばしている者がいないわけではないが、編み髪となれば話は別だ。戦の場では、兜の中に髪をいれておけば済む話だが、護城となれば榛の城に住まうことになる。翠鸞の側使えが女であると侮られたくはなかった。しかもこのような大女など、笑いものになるだけだ。

「榛の國が、護城として欲しているのは、女のわたしではなく、男の『朱鬼』でございましょう」

 朱鷺がそう切り出したとき、何やら表のほうが騒がしくなった。


 手伝いのものが慌てた様子で、部屋に飛び込んできた。

「だんな様…」

「どうした騒々しい」

「それが、その……。墨烏ぼくうさまがこちらに…」

「墨烏? この夜更けにか。急用かもしれん、こちらに通せ」

「それが…。だんな様にではなく、朱鷺さまにお話しがあるとか」

「わたしに? とにかくこちらにお通ししてくれ。義父上、よろしいか?」

「ああ、かまわぬ」

 その答えを持って表へ回ったと思いきや、どかどかと墨烏らしい遠慮のない足音が響いてきた。

「朱鷺!」

 墨烏は、戸を開けるなり、大声で朱鷺の名を呼んだ。

「なんだ、いきなり」

 さすがの朱鷺もその声に驚いて、思わず墨烏の顔を見た。

 墨烏は、部屋の中を見て、藍鷺がともに食事の膳を囲んでいるのに気が付いたらしく、一瞬動きが止まった。

「これは、藍鷺殿、失礼いたした」

 ここは藍鷺の屋敷である。屋敷の主がいるのは当たり前のことであるのに、どうやら墨烏はそのことを失念していたらしい。いつもとは違うぎくしゃくとした言葉遣いが、どうにも墨烏らしくない。

「墨烏。城で何かあったのか」

 藍鷺は盃を置き、座したまま背を正して墨烏を見上げた。

「いや、そういうわけでは…」

 墨烏はそう言うと、座を勧められる前に自分で腰を下ろした。

「藍鷺殿がここにいるのは、ちょうど良かった。話があるのだ」

 この夜半に人の屋敷に押しかけて来るのだ、話があるのは当たり前だろうと、朱鷺は心の中で思った。

「わたしに話があると聞いたが?」

「ある」

「義父上にではなく?」

「いや、藍鷺殿にも聞いて欲しい」

「なんだ、はっきりせぬな。なんの話だ」

 朱鷺は少し苛立ちながら、先を促すと、墨烏ははっきりとこういった。

「おぬしを嫁にもらいたい」

 朱鷺は唖然として、墨烏の言葉が一瞬理解できなかった。

 墨烏は、藍鷺の前に膝で進み出ると、深く頭を下げた。

「藍鷺殿、そなたの娘御をおれの嫁にもらい受けたい」

 朱鷺が義父の顔を盗み見ると、やはり鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしている。こんな表情をしている義父をみたのは生まれて初めてだった。

 あまりのことに二人が無言でいると、墨烏は焦ったように言葉を続けた。

「朱鷺は十六。嫁に出すのに早いということはあるまい。おれとは十以上年回りが離れているが、世の夫婦にこのくらいの歳の差など珍しくはあるまい。おれは鸞の國の生まれではなく、よそ者ではあるが、ここ数年…」

「墨烏!」

 その言葉を制したのは、朱鷺よりも先に正気を取り戻した、藍鷺だった。

「鸞の将のひとりとして尽くしてきた……。 はい」

 妙に素直な墨烏の返事に朱鷺は思わず噴き出した。

「落ち着け」

 藍鷺はそういうと、瓶子と盃を差し出した。墨烏は盃を受け取るとなみなみとつがれた酒を一気にあおいで、深く息をついた。

「この朱鷺を嫁に欲しいというのか」

 藍鷺が問い直すと、墨烏がさらに真剣な面持ちになった。

「お頼み申す」

 そう言うとまた、藍鷺に向かって深く頭を下げた。

「勝手なことを言うな!」

 朱鷺は思わず立ち上がって、そう怒鳴り返した。

「わたしは、若を守って、榛の國へ行く。もう決めた」

「まだ、決めるな!」

 墨烏はがばと体を起こすと、座ったまま朱鷺の顔を見上げた。

「おまえなら、そう言うと思った。だから急がねばと思った。榛の國へ行くと、御館様に返事をする前に、話をせねばとな」

「わたしが榛の護城になる話と、墨烏の嫁になる話となんの関係がある」

「おおありだ!」

「はあ?」

「おまえ、わかっているのか。榛の城へいけば、『朱鬼』になっちまうんだぞ」

「望むところだ」

「おれは望んでない。いまのままの朱鷺がいい。おまえは『朱鬼』じゃない。朱鷺だ」

「……」

「おれの嫁にこい。このまま鸞の國で、朱鷺のままでいてくれ」

「…だからと言って、何故、おまえの嫁にならねばならん」

「『朱鬼』を護城にというのは、跡取りの稜榛りょうしん殿が、是非何としてともとの要望だと聞いた。断るのにはそれなりの理由がいるだろう」

「だから、何故その理由におまえの嫁にならねばならんのだ!」

「ああ、すまん。肝心なところが抜けている」

 墨烏は立ち上がって、朱鷺と目線を合わせた。

 朱鷺は並の男たちよりも上背があるが、墨烏はさらに頭ひとつ高い大男だ。少し見下ろすようにして、朱鷺の瞳を覗き込んだ。

「おれは、おまえに惚れている。だから嫁にきてくれ」

「痴れ者! この話は終わりだ。帰れ!」

 自分の手を取ろうとした墨烏の手をはたき返すと、朱鷺はそう言い放った。

 結局、二人のやりとりを見かねて助け船を出したのは藍鷺だった。

「墨烏。今日のところは引き取ってくれぬか。返事はまた改めていたそう」

「しかし…」

「墨烏」

 さすがに、藍鷺の一言にはそれ以上言い返せない重みがあった。

 墨烏はふたりに向かって一礼すると、来たときとは同じ男とは思えないほど、とぼとぼと部屋を出て言った。


「嵐のような男だな」

「義父上が追い払ってくれて、せいせいしました」

 朱鷺はもとの座に戻って腰を下ろすと、手酌で酒を注ぎ、そのまま一息にあおった。

 藍鷺が朱鷺に向かって盃を差し出すと、朱鷺は瓶子を傾けた。しかし、あいにくと数滴したたっただけで、瓶子が空になってしまった。

 手伝いのものに声をかけ、次の瓶子をもってきてもらうと、二人きりの晩酌を再開した。

「悪い話ではないと思うがな」

「何がです」

 最初の遠慮はどこへいったのか、朱鷺は次々と盃を傾けながらそう答えた。

「墨烏の嫁になるという話だ」

「義父上まで、馬鹿なことを」

「いや、おまえも十六だ。嫁にいっても何もおかしくはない」

「それは普通の娘の話でしょう」

 自分が普通でないのは、自分自身が一番良くわかっている。普通ではないが、それで良いとも思っている。弓士としての腕を鸞の國のために活かせるのなら、この鬼のような体つきも赤銅色の目もありがたいとさえ思える。

「時折思うのだ。お前を息子のように育ててしまって良かったのかと」

「このような大女になったのは、育て方のせいではありません」

 おそらくは、鬼の血が混ざっているからだ。遠い遠い海を越えた北の大地に住まうという朱鬼の血が。

「それでもだ。武術など仕込まず、刺繍や織物を習わせておけばと」

「どう考えても、わたしの無骨な指にはなじみません」

 そう答える朱鷺の横顔をみながら、藍鷺もまた盃を傾けた。

 藍鷺は妻を早くに亡くしていたこともあり、朱鷺に娘らしいことを何一つ教えてやることができなかったことを悔やんでいた。

 他の子よりも育ちが早かった朱鷺に、試しに剣術を教えたところ驚くほどのみこみが早く、ついつい武術を本気で仕込んでしまった。特に弓術には、特別な冴えを見せたものだから、早くから体に合わせた弓を与えて、鸞の國に伝わる弓術をすべて叩き込んだ。それでも十二で強弓を放ったときには、藍鷺は声を失うほど驚いた。言葉にこそしなかったが、本当にこの子は鬼の子なのかと思ったのだった。

 朱鷺が男の子として元服したいと言い出したのは、無理からぬことだった。そのあたりの少女たちとはあまりにも違い過ぎていたからだ。だから、十四のとき元服をさせた。初陣もさせた。

 そこで思わぬ手柄を立てつづけに挙げたのには舌を巻いた。普通ではありえない距離から遠矢を放ち、次々と敵を撃ち落としてしまったからだ。

 敵から『朱鬼』と呼ばれ始めたのはその頃からだった。ますます年頃の娘として生きるのを難しくしてしまった。このままでよいものかと思うこともあった。十六。そろそろ娘たちは嫁に行く年頃なのだ。護城として榛の國に赴くということがどういうことか。藍鷺には痛いほどわかっていた。

 そこに墨烏からのこの申し出だったのだ。

「墨烏のこと、どう思っているのだ」

「どうもこうもありません。わたしは、誰のところにも嫁にいくつもりはありません」

 朱鷺は、男として元服させてもらえたことを心底感謝していた。藍鷺から教わった武術を思う存分いかすことができる。誰かの妻となり、家に入るなど考えたこともなかった。

「義父上、わたしの気持ちはかわりません」

「榛の國へ行くか」

「はい」

 朱鷺は自分の気持ちをただ素直に答えた。

「そうか」

 そういうと、藍鷺はまた盃を傾けた。

 後は、ふたりでぽつりぽつりと昔話をしながら、静かに酒を呑み続けた。夜半を過ぎる頃、うつらうつらとし始めた藍鷺を寝所まで運ぶと、朱鷺は小さな声で言った。

「これまで、本当にありがとうございました。義父上……」

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