第二章

 鸞の國は、東方の上つ國かみつくにであるしんの國に属する下つ國である。上つ國とは、皇王が天下を治めていた頃、皇族をその地の守りとして配した國であり、代々の國守は、皇族の血を引いていることが多い。それに対して下つ國しもつくには、上つ國を支える周辺の小國であり、その土地に根ざした有力者の場合はほとんどだった。

 皇王の力が衰えてから数十年、それぞれの上つ國はそれぞれが皇王の血の正当性をかかげて、争いを始めた。中央の朝廷の争いでは収まらず、みな自分の國こそが、皇王の位を継ぐにふさわしいと主張し始めたのだ。その中でも西方のこうの國、東方の榛の國は、この天下を分ける二大勢力に成長していた。直接國堺を接しているわけではないため、全面対決には至ってはいなかったが、小競り合いは絶えることがない。

 榛の國の北東、険しい山岳地帯を背後に持つ山間やまあいの小さな國、それがらんの國だった。決して豊かなわけではないが、國の民の暮らしは貧しいながらも穏やかなものだった。

 それが、この乱世によって大きく変わってしまった。厳しい自然の中の暮らしで鍛えられた男たちは、屈強な兵として取り立てられて戦に出ることが多くなった。狩りを生業とするものが多かったこともあり、優れた弓士を何人も送り出した。

 鸞の國の上つ國である榛の國は、小國ながらもすぐれた武人を出す鸞の國を頼りにし、戦の度に、兵を出すように命をだした。

 幸い、榛の國は皇王の血を重んじる家柄であったため、鸞の國が手柄をあげるとそれに応じた褒美を下げ渡した。それによって、これといって産業のなかった鸞の國も、多少豊かにはなっていたのである。

 上つ國と下つ國の関係は、持ちつ持たれつを保つことが肝要だった。とある上つ國では、税も兵も絞り取るだけ絞り取ったあげく、下つ國が疲弊しきって、その國の民が離散した。民がいなくなっては、もはや上つ國を支えることはできない。隣国との戦となったおり、兵を揃えることすらままならず、あっけなく滅びたという。また、あまりに圧政が過ぎると、下つ國が結託して反乱を起こし、上つ國に成り代わり、下つ國が割拠する地方も現れ始めた。

 そのような國々に比べると、榛の國は良く治められており、配下の下つ國も榛の國に信頼を寄せていた。


 榛の國と篁の國の戦がひとまず収まってから三か月、朱鷺しゅろは鸞の國で左肩に負った傷を気付かいながらも、弓の手入れに余念がなかった。

 まだ、前のように強弓を引くのには痛みが残るが、馬上で使う普通の弓を扱うのであれば、さほど弓がぶれることもなくなった。

「おい、嬢ちゃん。無理すんなって」

 城の弓場で腕を馴らしていた朱鷺にむかって、背後から声をかけてきた男がいた。

 墨烏ぼくうだ。

「無理などしていない」

「いや。肩、矢が貫通したんじゃないのか」

「治った」

「三月で治るわけがないだろ」

「治った。鬼は傷が治るのが早いらしいからな」

 朱鷺は傷の治りが人よりも何倍も速かった。幼い頃は、なぜほかの子供が転んだあと何日も傷が残っているのか不思議に思っていたが、そのうち自分だけが傷の治りが早いのだとわかった。それを訝しんで、鬼の仔だと苛められたこともあったが、遠い昔の話だ。今は、武人として傷の治りが早いのはありがたいことだと思っていた。ただ、矢が貫通するほどの傷は、痛みが多少軽くなったとしても、傷痕はそう簡単には消えそうになかった。

「自分で鬼っていうなよ」

「本当のことだからな」

「傷が治ったてのが? それとも鬼だってのが?」

「どっちもだ。何なら自分の目で見て確かめるか」

 そう言って、朱鷺が衣の襟の合わせに手をかけると、墨烏は慌てて首を振った。

「おいおいおい。ここで脱ぐ気じゃねえだろうな」

「それがどうした」

「だから、おまえ十六の娘だって自覚はないのか!」

「ないな。だから墨烏もそう思っておいてくれ」

 墨烏との会話は煩わしいところもある反面、どうしてもこの男を憎みきれないところもあった。


 墨烏は剛毅な武人であるが、普段は気のいい男であり、城の皆からも慕われていた。見た目はいかつい三十男で、どこをどう鍛えればそれだけの体になるのかと不思議になるほどの大男である。その上、戦場でなくとも無精ひげを伸ばしたままにしている。強面とおもいきや、意外と子供が好きなようで、城の庭先で剣の稽古の相手をしてやったり、幼い子には木切れでちょっとしたおもちゃを作ってやったりもしている。見た目にそぐわず、手先が器用なのである。

 この墨烏という男は、鸞の國の生まれではなかった。五年ほど前、ふらりと現れて居ついてしまったのである。はじめてこの國の土を踏んだ折、この國の民に鳥の名を持つ者が多いと知り、自分で『墨烏』と名乗ったのである。

「墨色の烏ってのは、俺らしくていいだろ」

 というのが、この男の言い分であった。

 鸞の國の國守である翠鸞の父親は度量のある主で、その素性を質すことなく墨烏を家臣に迎えた。その容貌からして、武人であることは間違いなく、鸞の國のひとりとしてこの國を支えるのであればとだけ条件をつけただけだった。

 その後、戦の場において、ひとりの武人としても、またひとりの将としても得難い存在であることはすぐにわかった。おそらくかつては名のある武将であったことは間違いないだろう。しかし、鸞の國では、その過去を無理に明かそうとする者はいなかった。そのことが、墨烏にとってさらに鸞の國を気に入る理由になっていた。


 タンと的を射ぬく音が心地よく響く。朱鷺は一矢一矢確かめるように、弦を絞っていた。矢筒の矢をすべて放ってしまうと、的に刺さった矢を集め、また矢筒に戻す。

 墨烏は弓場に入ってきたときに、朱鷺へ声をかけはしたが、矢を放ち始めてからは、黙ってその様子を眺めていた。

「どうした、弓場にくるなんて珍しい」

 矢を集め終わった朱鷺のほうから声をかけると、墨烏はいかつい顔に人懐こい笑みを浮かべた。

「いや、相変わらず大した腕だと思ってな」

「墨烏もたまには弓の稽古をすればいい」

「いや、俺には向いてないんでな」

 なんでもこなすように見えて、この男にも苦手はあるようで、それが弓だった。この逞しい体つきからすると、朱鷺の強弓よりも、さらに大きな弓でも引けそうに思えるが、いつも狙いがよくない。朱鷺の半分の距離に置いた的でさえ、かすりもしないありさまだ。

「稽古をしないからだろう」

「ま、人には向き不向きがあるさ。弓はおまえさんに任せるよ」

「稽古をする気がないなら、何しにきた」

 稽古の邪魔だとまでは言葉にしなかったが、朱鷺は弦の具合を確かめながらそう言った。

「朱鷺に会いに」

「はあ?」

「年頃の娘っ子に会いにくるのに、理由なんていらないだろ」

「今度、ふざけたことをいったら、的にしてやる」

「はは、冗談だよ。物騒なこと言うな。いや、親父さんにおまえを呼んでこいって、頼まれてな」

「先にそれを言え!」

「いやあ、嬢ちゃんの腕に見惚れてて、忘れてたよ」

 朱鷺は慌てて、矢筒を肩からおろすと、弓場の片隅にある棚に片付けた。墨烏が義父から自分を呼んでくるように頼まれたのがどのくらい前だったかわからないが、急ぐに越したことはなかった。

「で、義父上はどちらに?」

「颯の間にいるぜ」

「何だと!」

 颯の間とは、國守が家臣たちと評議や軍議をする場である。そこに義父がいて、自分を呼んだということは、國守が自分を呼んでいるに等しい。

「もしかして、墨烏もそこにいたいのか?」

「ああ。一応、鸞の将のひとりってことになっているからな」

「なぜ、呼び出しを側仕えのものに頼まなかった! そんなに簡単に評議を抜けてきていいと思っているのか?」

「いやあ、嬢ちゃんを呼びに行くお役目のほうが、大事に思えたんでね」

「話にならん!」

 朱鷺はあわてて着替えを手に取ったが、少し考えて棚に戻した。朝から稽古をしていたため、かなり汗をかいていたが、着替える時間はなさそうだ。

「墨烏、後ろを向け」

「はあ?」

 朱鷺は自身も背を向けると、襟の合わせに手をかけて着物を両の肩から落とした。

「おい! こんなところで着替える気か!」

 墨烏は驚いて、背を向けたが、ここは屋外に面した弓場である。いくら片隅とはいえ、誰が通りかかるかわからない。

「汗をぬぐうだけだ」

 朱鷺は言葉の通り、ざっと手ぬぐいで汗をぬぐうと、そのまま襟を直し、帯と袴の紐を結びなおした。それだけでも、幾分すっきりとした様子になった。

「あのなあ、朱鷺、男の立場にもなれよ。あんなところで諸肌脱がれたんじゃ」

「女と思うなと言っているだろう」

「そういう訳にいくかよ」

「無駄話はいい。行くぞ」

 朱鷺は先にたって、歩き出した。その背には編み込まれた長い髪が揺れている。女と思うなと言われても、この長い髪が女であることを示していた。墨烏はその後ろ姿を眺めながら、鍛え上げられた逞しい体に不似合な艶やかな髪に見惚れていた。

 このあたりでは編み込まれた長い髪は未婚の娘のしるしだった。幼い頃から髪を伸ばし、年頃になると髪を編み込み、背に垂らす。十四・五になると、髪に美しい飾り紐を編み込み嫁入りの準備が整ったことを表す。嫁に行くと飾りを外し、髪を結いあげる。

 朱鷺の髪は飾り紐こそ編み込まれてはいなかったが、両のこめかみから生えた朱い髪がどんな飾り紐よりも鮮やかだった。

 朱鷺は初陣に立つ前に、その長い髪を切り落そうとしたのだが、義父である藍鷺が許さなかった。戦に出たとしても、娘であることを忘れて欲しくなかったのかもしれない。朱鷺自信は、そんな親心に気付きながらも、見ないふりをしようとしていた。味方からも敵からも『朱鬼』と呼ばれることをどこかで当然と思うようになっていた。


「遅参いたしました」

 朱鷺は膝をついたまま颯の間の戸を静かに開けると、そう告げた。

「入れ」

 奥から國守である碧鸞へきらんの声がした。すでに老年に差し掛かった重々しい声に、朱鷺は部屋の中に進み出ると末席についた。

 その後ろから、どかどかと足音を立て墨烏が中に入り、中ほどの空いた席についた。墨烏は鸞の國の生まれではないもの、いまではその功績から一の将として重く扱われていた。普段は対等な口をきいている朱鷺だが、二年前に初陣を迎えたにすぎない自分とは立場が違う。

 碧鸞の隣には、三月前の戦で初陣を飾った翠鸞すいらんが座っていた。元服を迎えてからこうした場にも姿を見せるようになっていた。戦の経験をえて、少し逞しくなったように見える。この年頃の少年は日に日に成長するものだから、当然かもしれない。

「話を戻そう」

 碧鸞がそういうと、前に置かれた書状に皆の目が注がれる。

「先の篁との戦で、きつの國の兵が多く倒れた」

 桔の國は、榛の國を支える下つ國のひとつだ。榛の國の南西に位置しており、これまでも何度も戦場になってきた。疲弊の度合いも鸞の國の比ではない。

 榛の國もこのままの状況は良くないと考えているのであろう、そこで提案してきたのは、上つ國の護城の兵の免除だった。護城ごじょうとはその名の通り、上つ國の城を護る役目である。それぞれの下つ國は、この護城の兵を國の力に応じて出さねばならなかった。これは下つ國にとって大きな負担になっていた。とくに常に敵に対峙することの多い、桔の國には、自分の國の守りにひとりでも兵が欲しいところである。背後の上つ國にまわすほどの余力はもはや持ち合わせてはいなかった。

 かといって、護城の役目をおろそかにすることもできず、榛の國は他の下つ國からの支援を要請してきたのである。

 同じ下つ國とはいえ、鸞の國は北東の端、桔の國は南西の端であり、直接手を貸せることは少ない。その分、護城の兵を増やすようにとの命であった。

「御館様、やはり翠鸞さまを榛へとの話となりましたか」

「うむ」

 碧鸞は、軍師である藍鷺の言葉に苦々しく頷いた。翠鸞が元服を迎えたのを機に、榛の國は再三、翠鸞を護城に寄越せと言ってきていた。護城とはいっても単なる一兵卒ではなく、実のところ、跡取りである稜榛の側近として迎えたいということである。

 先日の翠鸞の初陣も榛の國の強い勧めあってのこと。戦場での翠鸞の姿を確かめたいとの意向が働いていたのだ。このときには、墨烏を始めとした家臣の力もあり、見事に敵左翼軍を崩すことに成功していた。それも相まって、これを機にとの命であった。

 その一方、鸞の國にとって翠鸞はたったひとりの跡取りである。國守である碧鸞はなかなか子に恵まれず、老年になってやっと生まれたのが翠鸞だった。いくら上つ國の若君の側近とはいえ、おいそれと外に出すわけにはいかない。

「翠鸞を出すのであれば、護城の筆頭にするとある」

「おお!」

 評議の場がわずがにざわめいた。護城の筆頭になるということは、数ある下つ國の筆頭として鸞の國を扱うということである。北東に位置する小國に過ぎない鸞の國は、下つ國の中でも、下から数えるほうが早いくらいの扱いをされている。そのような国を筆頭に据えても良いとは、なかなかの待遇である。そうまでして翠鸞を稜榛の側近に欲しいというのである。

「この鸞の國に、筆頭のお役目を果たせることができましょうや」

 藍鷺が言葉にすると、あたりはしんと静まった。筆頭となるということは、それだけその責も重くなるということだ。その対面を保つだけの豊かさが鸞の國にはない。うまい言葉に乗せられて、税や兵役を絞り取られるわけにはいかないのだ。

「藍鷺の言葉はもっともだ。わしも筆頭のお役目は辞退すべきと考えておる」

「では、翠鸞さまの護城のお役目についても…」

 家臣のひとりがそう問いかけると、碧鸞はさらに難しい顔になった。

「ここまでの申し出をされて、護城の役目まで断ることは難しい」

 筆頭にしてやるとまで言われても、頑なに拒んだのでは上つ國の面子を汚すことになる。上つ國に睨まれてはひとたまりもないのが下つ國である。

 その立場や、翠鸞を上つ國へやる不安などが、次々と口に出され、評議は紛糾していった。

「なあ、俺には難しいことはわからんが、若さんの話は聞いてやらねえのかよ」

 評議の中あくびを何度もかみ殺していた墨烏が突然口を開くと、皆の目が一斉に墨烏に向いた。

 これほど政治向きの話に向いていない男もいない。國守の前でも本音だけしか口にはせず、取り繕うこともなかった。

 話を向けられた翠鸞は、父親の顔と前に居並ぶ家臣の顔を見回すと、少し顔を紅潮させながら話始めた。

「わたしは、護城として榛の國にまいります」

 朱鷺は翠鸞の声がしっかりとした決意に基づいたものであることを聞き取っていた。翠鸞が幼い頃から、供回りのひとりとして城にあがっていた朱鷺である。翠鸞の言葉が國の立場だけから発されたものか、自分で考えひとりの武人として出した答えであるのかは、その声だけでわかった。

「これだけの好条件を出してまで、わたしを護城に迎えたいとの榛の國のお言葉、ありがたいと思います。稜榛殿のお側で学ぶことも多いでしょう。それは、きっとわたしが鸞の國を継いだ後にも役にたつと思います」

 十四の少年の言葉とは思えないほどの決意だった。その言葉を聞いた墨烏は満足したように、にやりと笑みを浮かべていた。

「そうか。それではその答え、榛の國に伝えよう」

 碧鸞は息子を手放す寂しさも見せながら、その決意を尊重すると決めたようだった。

「ところで朱鷺よ」

 いきなり、自分の名を呼ばれ、朱鷺は驚いて顔をあげた。

 そもそもこのような、國の行く末を左右するような評議の場に、自分が呼ばれること自体がおかしい。そのことに今更ながら気が付いた。

「榛の國から、そなたもぜひ護城にとの命があった」

「わたしがですか?」

「先の戦での働き素晴らしかったと、稜榛りょうしん殿から言葉があった。ぜひ護城に迎えたいと」

 あまりに突然のことに、朱鷺は答えることができなかった。

「わしとしては、鸞の國の弓士として手元に置いておきたい気持ちはあるのだがな…」

 碧鸞はひとりごとのようにそう呟くと、藍鷺のほうに顔を向けた。

「御館様、突然の申し出にて、時間をいただきたく…」

 義父にとっても寝耳に水の話であったようで、いつもは驚きを顔に出すことがないにもかかわらず、最後の方は言葉を濁していた。

「もっともだ。こちらの返事は明日まで待とう。朱鷺よ、義父とよく話しをして決めるがよい」

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