第一章
「若!」
兜の房飾りで、ひとめで國守の若君とわかる少年にできた隙を敵が見逃すわけがなかった。気を取られた瞬間を狙って、槍の穂先が繰り出される。
しかし、その穂先は翠鸞の身に触れることはなかった。その槍の柄を握っていた兵の腕の関節の鎧の継ぎ目には、朱い斑の矢が突き立っていたからである。
その兵は、矢の放たれた方を振り向いたが、矢が放った相手の姿を見ることはかなわなかった。朱鷺の放った二の矢は、正確にその男の右目を射ぬいていたからだ。
「朱鷺!」
「若、ご無事でしたか」
「うむ。大事ない」
しかし、言葉の通りとはいかぬようで、翠鸞の鎧にはいくつかの槍や刀がかすった後がある。初陣であることを考えると、ここまでかすり傷で済んでいるというのは、立派なものだと言えるだろう。
「討って出られたのを本陣から見て、肝が冷えました」
「遅えぞ! 嬢ちゃん!!」
翠鸞の脇を固めていた大男が、銅鑼声をあげて、槍の一突きで敵を馬から叩き落とした。
「
「礼なんざ、どうでもいい。俺さまがこんな陣の後ろで、ちんたら若さんのお守りをしている間に、大分押されている」
翠鸞は鸞の國の若君としてこの陣の大将ではあるが、初陣であり結局のところお飾りに過ぎない。この陣の実質的な一の将は、この墨烏と呼ばれた大男であった。
「わかった。若の守りはわたしが」
朱鷺は混戦には向かない弓を馬の胴に引っ掛けると、腰の刀を抜いた。
「頼んだぜ。ところで、嬢ちゃん。親父さんはどうした?」
「義父上は、榛の國の陣に残られた。
「くそう。こっちだって軍師は欲しいんだっつのうに。上つ國だってだけで、こき使いやがって」
榛の國は鸞の國の上つ國、つまり主筋にあたる。同じ國とはいっても、上つ國と下つ國は天と地ほども違う。鸞の國は下つ國の中でも弱小で立場が弱く、戦に駆り出されても貧乏くじを引かされることが多いのだ。
実際、朱鷺は開戦の一矢のために自陣を離れて駆り出され、朱鷺の義父である
「鸞の陣は、そなたらに任せられると考えてのことだ」
翠鸞がふたりの顔を交互に見てそう答えた。その声には二人への信頼が籠っていた。
「俺を買ってくれるのは嬉しいがね、戦ってのはそんなに甘くねえって」
無駄口を叩きながらも、墨烏の振るう槍の穂先は止まることを知らない。振り払っても振り払っても血糊は
墨烏の代わりに翠鸞の脇に控えた朱鷺の刀もまた、血に濡れていた。朱鷺の得意は弓ではあるが、剣の技も義父に叩き込まれていた。その辺の雑兵に遅れをとるような腕ではない。
翠鸞のまわりには功名心にはやった兵たちが次から次へと取り囲んでくる。将のはっきりとしない鸞の陣はまとまりを欠いて、崩れかけているのだ。
「嬢ちゃん、俺は前線に出る!」
「わかった。頼む。それから、墨烏」
「なんだ」
「嬢ちゃんと呼ぶのはやめろ。朱鷺だ」
「はん。十六の娘っ子は、俺の生まれた郷では嬢ちゃんって呼ばれるもんなんだよ!」
墨烏はそう言い捨てると、馬首を翻して、前線へ駆けのぼっていった。
まとわりつくほどの兵を斬り捨てながら、朱鷺は心の中で墨烏に毒づいていた。
(何が、嬢ちゃんだ。あの男、この戦が終わったら覚えておけ!)
顔を合わせる度に、朱鷺をからかわずにはいられないようで、それはこのような戦の最中でも変わらない。
朱鷺は女扱いされるのが苦手だった。そして、これまで誰も朱鷺を女として扱った者もいなかった。戦場にいる朱鷺を見て、十六の娘だと思うものは敵の中には、いや味方の中にさえいないだろう。
そのわけは、朱鷺のその姿であった。背は並の男より高く、肩も腕もとても十六の娘を思わせるような華奢な代物ではない。何しろあの強弓を弾くことのできる腕である。鎧を着込めば、誰も女とは思わないだろう。
黒髪、黒い瞳をもつのが普通のこの天下において、両のこめかみから生えている一房の朱い髪といい、その赤銅色の瞳といい、明らかに異形であった。
物心ついたときから『鬼』と呼ばれていた。
義父に拾われなければ、本当に鬼として生きていたかもしれなかった。
鸞の國の軍師である藍鷺が『鬼』として土牢に囚われていた幼い朱鷺を解き放ってくれた。そして自分の養い子としてひきとってくれたのだ。
『朱鷺』とは、義父が自身の名から一字与えて、付けてくれた名だった。
しかし、異形であることには変わりはない。男と見間違うほどの育ちぶりに、子のなかった藍鷺は、武術を教え込んだ。特に弓の才は非凡なものがあり、十二の頃にはあの強弓を弾くようになっていたのだ。
十四になり、初陣を飾ると、朱鷺はまた『鬼』と呼ばれるようになった。それは弓士としてのその恐ろしいほどの技にあった。
常人はあり得ない距離からの遠矢で、狙いを誤ることなく射ぬくその技は、敵を震えあがらせるのに十分だったのだ。
そして、それは味方でも同じこと。榛の國の跡継ぎである稜榛でさえ、『朱鬼』という渾名で呼ぶ。
朱鷺は、女である前に異形であることを知っていた。
自分が『朱鬼』であることを知っていたのである。
墨烏が前線にあがってから、戦況は明らかに変わった。翠鸞のまわりに押し寄せる雑兵の波は収まり、陣が少しづつ前に押しあがっていく。
その武術の冴えに目を奪われがちではあるが、墨烏は将として用兵の才に長けていた。良く戦況を見極め、ときには慎重に、ときには大胆にとその布陣を展開していく。軍師として近隣に名をはせている義父、藍鷺も墨烏のその才を認めていた。
この陣を任せられると言ったのは、墨烏にだろうと朱鷺は思っていた。自分には武術の才はあっても、ここまでの用兵はできない。なによりも経験が足りない。戦に出てまだ二年。まだひよっこと呼ばれてもおかしくない年回りではあるのだ。
「翠鸞殿!」
伝令の旗を背に挿した兵が近づいてきた。朱鷺は警戒しつつ翠鸞と伝令の間に割って入った。偽の伝令兵であった場合、突然翠鸞に斬りかからないとも限らないからだ。
伝令から、封書を受け取るとそのまま翠鸞に手わたした。一読した翠鸞は驚いた後、苦い顔になった。
「何と?」
「中央へ回れと言ってきた」
「そんな、何をばかな」
「ここで踏ん張るだけでも精一杯だというのに、この敵軍を振り切って、中央の援護をせよと…」
ようやく好転してきたとはいえ、混戦から抜け出したに過ぎない。味方の兵の疲れもある。このまま連戦は難しい。
「義父上がそのようなことを言うとは思えません」
「藍鷺ではあるまい」
「どうなされますか?」
「上つ國からの下知だ。従うしかあるまい」
翠鸞はひとつ溜息をつくと、脇に構えていた法螺貝吹きに命じた。一旦、兵を前線にいる墨烏の元に集中させるためだ。密集陣形から、突破して振り切るしかないと判断したのだろう。
前線に兵を集めると同時に、翠鸞は伝令を飛ばして墨烏を側まで呼び寄せた。作戦の変更を伝えるためだ。
「そろそろ手打ちだと思ってたのによ」
「墨烏…」
「親父さんがついていながら、何馬鹿げた命令出させてんだ、まったく」
「そなたの言うことはわかる。だが…」
「ああ、若さんが悪いわけじゃねえさ」
墨烏は幾分怒りを呑み込んだ。
「潮時ってもんがあるんだ。討ってでて何刻たっていると思う。兵だって限界だ」
「しかし…」
初陣の翠鸞は、上つ國からの下知と自軍の窮状との狭間で押し潰されそうになっていた。
「目の前の敵を振り切りゃいいんだろ。そこまではやってやるさ。だがな、そこまでだ」
「敵軍を突破はするが、その後は様子見するということか、墨烏」
朱鷺の言葉に、墨烏はにやりと笑った。
「嬢ちゃん、俺の代わりに前へ出ろ。まわりの奴に自分を守らせて、嬢ちゃんは、弓で適当な奴を何人か討ってくれ、頼む」
「わかった。時間稼ぎだな」
朱鬼が出たと言えば、怯えて一旦士気が下がることもあるだろう。そこが狙いなのだ。
朱鷺は、弓を片手に馬首を返すと、最前線へ躍り出た。その瞬間にはすでに矢を放っていた。最初の一矢は誰でもかまわない。とにかく敵陣に自分が現れたとわからせることができればよいのだ。混戦の中、敵のひとりが落馬すると、あたりが急にざわつきはじめた。敵がその矢羽の色に気付いたのだ。
「朱鬼だ…」
そのざわつきこそが、朱鷺がここにやってきた意味だった。朱鷺は敵軍のなかから派手な房飾りをつけた兜をさがしあてると、まずこちらに注意をむけるために、わざと肩のあたりを狙い矢を放つ。その者がこちらを向くと、その目を射ぬく。部隊長とおぼしきものが落馬すると、さっきよりも動揺がひろがった。
次の矢をひきしぼろうとしたとき、弓を持つ左脇から敵の槍が繰り出された。馬上で弓を弾く場合は、手綱を持つことができないため、馬首を返して避けることが難しい。それでも、上半身をできる限りひねって槍の穂先をかわそうとしたとき、後ろから、割って入る影があった。
「朱鷺、油断するんじゃない!」
鸞の軍の兵のひとりが、月槍で朱鷺を襲おうとしていた槍を弾き返すと、その刃を返して斬り倒した。
「すまんな、遅くなった」
もう一人、こちらも月槍を手に、朱鷺の右後方から駆け付けると、ふたりでぴたりと朱鷺の両脇についた。
「蒼燕、縹燕!」
「墨烏から伝令を受けたが、混戦から抜け出すのに手間取った」
「間に合ったんだから、構わないって、兄者。朱鷺には傷ひとつ付けてないしな」
よく見るとふたりは、瓜二つの顔をしているが、その表情はまったく違う。蒼燕と呼ばれた若者は、冷静沈着で落ち着き払った顔をしており、縹燕は、少年のような人懐こい笑みを浮かべている。双子のように見えるが、一つ違いの兄弟であり、ともに月槍の遣い手であった。
「俺たちが来たからには、雑兵のことなんて気にせず、弓を引いてていいぜ!」
「わかった」
縹燕の頼もしい言葉に、朱鷺は短く答えると、背の矢筒から矢を引き抜いた。混戦の中とはいっても、狙いを正確に定めて、射落とさなくてはならない。ただの威嚇ではなく、朱鬼がいると、思わせることが重要なのだ。
実際のところ、馬上で弾く弓は、開戦時の遠矢に使う強弓とは異なる。あれほどの強弓は地に足を踏ん張らねば、さすがの朱鷺といえども放つことはできない。あれば、敵の攻撃が届くことがなく、時間をかけて弦を引き絞ることができてこその技だった。
それに対して、戦の最中で使う弓は、馬上でも取り回しのきく、幾分小ぶりの弓だ。その分、飛距離も短く、威力も弱い。
しかし、白熱する戦の中でその矢の違いに気付くものは少ない。矢羽の色と、正確な射的の技があれば、十分に敵を震え上がらせることができるのだ。
そもそも、敵味方が入り混じって斬り合いが繰り広げられる中では、誤って味方を射るのを恐れて、弓を引くのは難しい。それでも、朱鷺には、敵だけを射落とす自信があった。
小隊長と思しき者たちを数人射落とした頃には、敵の動揺は随分と広がっていた。何しろ混戦の中、いきなり矢が飛んできて、目を射ぬかれるのだ。肩や脇を射られるのとは訳が違う。目を射抜かれては、その戦場ではもう役には立たない。傷が深ければ、そこで息絶えることもある。
「相変わらずの技の冴えだな」
蒼燕は、月槍を右に左に返しながら、朱鷺の技に溜息をついた。
「朱鷺が鸞の國にいてくれてよかったよ。敵にこんな奴がいたらと思うと、ぞっとするよな」
「まったくだ」
その言葉に、朱鷺はこの兄弟こそ敵にいなくて良かったと思った。何しろ、二人の息の合い方は恐ろしいほどで、まったく隙がなかった。この兄弟の間で護られているからこそ、朱鷺は狙いをあやまたず、敵を落すことができるのだから。
朱鬼が出たという声が広がったことで、敵の前衛がじわじわと後ずさりを始めた頃、鸞の陣から法螺貝の音が鳴り響いた。中央突破の合図である。
朱鷺も弓を鞍にかけると、腰の刀を抜き放った。
自軍の中央から、恐ろしいほどの速さで駆けあがってくる一騎があった。墨烏である。ここで先鋒が再度入れ替わるのだ。
墨烏が率いる一軍を先鋒に敵中央に斬りこみ、突破をかけた。そこから少し後方に翠鸞の姿も見える。朱鷺と蒼燕、縹燕の三人は、馬の脚をやや緩めて、翠鸞の護衛についた。
ここからは、一気に駆け抜けることになる。よほど馬の扱いに慣れていないと、とてもではないが、剣や槍を振り回す余裕はない。初陣の翠鸞には、馬を走らせることだけに集中してもらい、その前方と両脇を三人で囲むようにして守りを固めた。それでも、敵軍の真っ只中につっこむと、鸞の國の若君とわかるやいなや、数えきれないほどの槍が突き出された。
三人はそのすべての穂先をはじき返しながらも、馬の脚を緩めることなく、駆け続けた。翠鸞は馬の首に沿わせるように頭を低く保ちながら、手綱を操っている。下手に刀を振り回すよりも、よほど安定して馬を走らせることができる。このあたりは、墨烏から固く言われていたに違いない。
あまりの突破の勢いに篁の軍の兵たちもたじろいでいたが、敵軍後方までくると、守りが固くなる。少しづつ、敵の攻撃が厳しくなり、馬の足を緩めざるを得ないかと思っていると、前の方から、甲高い指笛の音がした。先鋒が敵陣を突破しきったのである。
少し、息をついたその時、翠鸞の前で馬を走らせていた朱鷺は耳慣れた音を耳にした。矢が風を切り裂く音だ。
頭で考えるより早く体が動いた。手綱を引き一瞬馬の脚を緩めると、自分の馬の尻を翠鸞の馬の首にぶつけるようにして無理矢理方向をかえさせた。
その一瞬のち、その矢が朱鷺の肩を射ぬいていた。
「朱鷺!」
翠鸞が驚いて、馬を止めようとしたが、朱鷺はそれを許さなかった。
「止まってはなりません!」
「しかし、朱鷺は怪我を…」
「矢は貫通しています。大した怪我ではありません」
朱鷺はそういうと、翠鸞を安心させるため、笑ってみせた。
「若、朱鷺の言う通りだ。墨烏の旦那が突破してくれた道があるうちに、走り抜けるぞ!」
「縹燕、私の代わりに前を走ってくれ」
「おう、任せとけ」
そう返事をすると、縹燕は朱鷺と入れ替わって曇った顔の翠鸞の前にたって馬を駆けさせた。
遠矢で翠鸞が狙われたことは、翠鸞の側近くを走っていた者しか知らなかったため、味方の陣にそれほど動揺は広まってはいないようだった。
どちらかというと、墨烏が敵陣を突破した合図に勢いを吹き返しているようだった。鸞の軍は、今一度馬たちを叱咤し、突き出される槍の穂先をはじき返し、敵陣を走り抜けた。
朱鷺たちは、翠鸞を護りとおして敵陣を突破すると、ようやく馬の脚を緩めることができた。それでも完全に脚を止めることはせず、敵とは十分な距離を取る。ここで相手に反転されて、相対されると、突破で体力を使い果たしている分、こちらが不利になるからだ。
くくぅという短い鳩の鳴き声に、朱鷺は空を見上げると、
信鳩とは、伝令に使う鳩のことである。通常の伝書鳩は、場所と場所をつなぐことしかできない。しかし、特殊な訓練をした信鳩は人と人をつなぐ。また矢の飛び交う戦場でも、舞い降りることができる、気の強い性格をもつ鳩しか、信鳩にはなれないこともあり、ごくわずかしかいなかった。降りてきたのは、朱鷺とその父である藍鷺をつなぐ信鳩であった。
朱鷺は信鳩を腕に止まらせると、足環から伝文を外した。そこにはごく短い言葉が記されていただけだった。
「藍鷺からか? 何と言ってきたのだ」
翠鸞が朱鷺に尋ねた。本来ならば、鸞の國の大将である翠鸞に伝令がくるのが筋であるが、翠鸞と藍鷺をつなぐ信鳩はまだいないため、朱鷺に連絡がきたのだ。
「『動くな』と。それだけでございます」
朱鷺は手にした伝文を丁寧に広げて、翠鸞に渡した。それを確認した翠鸞は、すぐに先鋒にいる墨烏に伝令を出した。それとともに、法螺貝で全軍停止の合図を送った。敵との距離も十分とれていることから、このあたりで反転して、休息するのが妥当なところだろう。
朱鷺は翠鸞の側から離れると、そっと蒼燕に声をかけた。手当をするところを翠鸞に見せたくなかったからだ。矢傷など戦場では見慣れたものだろうが、初陣の翠鸞の前で、体を射ぬいた矢を抜くとなれば、話は別だ。
ようやく、朱鷺は左肩を貫通していた矢の鏃と矢羽を切り落してもらい、矢を抜くことができた。大きな血管からはそれていたようだが、矢を引き抜く瞬間には血が噴き出した。
「かなり、太い矢だったな。これではこの後の戦で弓を引くことは難しいだろう」
朱鷺を射たのは、遠矢だった。しかも朱鷺が使うのと同じような強弓で射られたものに違いない。敵陣を猛然と駆け抜ける中、狙いを定めてきた。恐ろしいほどの技の冴えだ。篁の軍にも自分のような弓士がいるのかもしれない。今回は翠鸞を守りとおすことができたが、それは単なる幸運かもしれなかった。
手当を手伝ってくれた蒼燕は医術の心得もあって、傷痕を手早く縫ってもらうことができた。とりあえず出血はとまったようだった。
「おーい、蒼燕! ああ、いたいた」
手際よく包帯を巻いてくれている蒼燕の近くに墨烏が寄ってきた。墨烏の右目上には大きな斬り傷ができていて、手当のうまい蒼燕を探していたのだろう。
「下手こいちまった。ちょっと二・三針縫ってくれよ。このままじゃ血が目に入って滲みちまう」
顔の傷が一番派手だが、よく見ると腕に足にと傷だらけになっていた。先陣を切って敵陣を突破したのだから、いくら剛腕で鳴らした墨烏であってもこのくらいの負傷は避けられなかったのだろう。
「いいですよ。こちらへ」
蒼燕は、手当をしていた朱鷺の隣へ座るように墨烏を促した。
先に手当を受けていたのが朱鷺だと気が付いた墨烏は、からかい半分、心配半分で声をかけてきた。
「おいおい、娘っ子が、体にそんな傷こさえんなよ」
「すぐ治る」
「治っても傷痕は残るぜ」
「気にしてない」
「気にしろ」
朱鷺は馬鹿らしくなって、返事をするのをやめた。どれだけ自分の身に傷が残ろうと、誰も気にするものはいないだろう。鸞の國の武人として生きていくと決めたときから、傷を負うのは承知の上だ。初陣から二年、腕にも体にも、傷痕など数えきれないほど残っている。
拾ってくれた義父藍鷺の元で、居場所をくれた鸞の國のために生きる。朱鷺という名をもらったときに決めたことだった。
篁の陣では、強弓を片手に苦い顔をしている男がいた。
「外したか…」
年のころは二十歳をいくつか超えたくらいだろうか。武人としてはやや細身ではあったが、その手には身の丈ほどの強弓があった。
「
側に仕えていた少年が、弓を受け取りながらそう答えると、祠篁は薄く自嘲の笑みを浮かべながら、言葉を継いだ。
「うわさに高いという、鸞の國の朱鬼のようにはいかないな」
「朱鬼など、雑兵たちの戯言でしょうに」
「いやいや、この戦いでも、何人も射られたようだよ」
「であったとしても、弓士ひとりの力で戦がどうにかなるものではないでしょう」
そう、戦はひとりの武人の力ではなく、國としての力で決まるものだ。まだ、十五にもならぬ少年であっても、この者にはそのことがわかっているらしい。
「おまえは聡い子だな」
「子供扱いはやめてください」
「子供のままでいてくれないか。おまえのような側仕えがいなくなると困る」
「大人になっても、お側でお仕えいたしますので、ご心配なく」
「それは、ありがたい」
祠篁は、自軍の左翼が突破され、陣形が崩れていくのを見て、一旦兵を退くように命じた。これ以上戦いを続けても、こちらの犠牲が増えるだけだ。中央部で正面から榛の軍にぶつかった本隊も膠着状態に陥っている。消耗戦を続けても意味がない。
この戦いはここらが潮時とみるべきだろう。もとより、この戦い一度で決着がつくとは祠篁も考えてはいなかった。東方では一の上つ國と呼ばれる榛の國の実力を掴むことが一番の目的だった。
西の上つ國の雄である篁の陣と互角に戦える相手は久しぶりだった。その上、突破をかけてくる者たちなどこれまで見たことがなかった。
「鸞の國か…」
祠篁は、これまでほとんど耳にしたことがなかった小國の名を呟くと、馬首を返した。
遠くで法螺貝が響いていた。細く細切れの吹き方は、兵を退かせる合図だった。
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