朱鷺の城
源宵乃
序章
「おい、
前線の兵たちの中で、ひそひそと噂話が広まり始めていた。
「おれも聞いたぞ。昨日の戦で将軍様がたった一矢でやられたって話だろ」
「ああ、それもどこから射られたかわからないほど遠くからだそうだ」
「この戦、もしやということがあるかも……」
兵たちの噂の的となっている朱鬼とは、凄腕の弓士の渾名だ。矢羽に朱い斑のはいった羽を使っていることからその名で呼ばれていた。
二年ほど前から、恐ろしいほどの弓の腕でその名を知られるようになっていた。昨日、小競り合いとなった際、
「おい、そこの者ども、怖気づくでない」
兵をまとめる将のひとりが、雑兵たちの噂話を差し止めた。戦の口火を切る間際でのこうした話は、裏でささやかれるほど兵たちの士気にかかわるものだ。
青く冴えわたった空に、戦の火ぶたを落す法螺貝の音が鳴り響いた。
かつて、皇王が治めていたこの天下は、十数年ほど前からおかしくなりはじめた。三代の皇王が相次いで早世した後、中央の朝廷では皇王の跡目争いが激化し、その権力は弱体化していった。
その隙にそれぞれの地方を治める役割でしかなかった地守が、それぞれ、國守を名乗り始めたのだ。そして、自らの土地を守ることに飽き足らず、より広く豊かな土地を求めて争いはじめた。
いままさにこの二つの國は、鉾を交えようと相対していた。昨夜の小競り合いとは違い、両者の陣を構えての戦である。
法螺貝の音は、榛の國の陣で吹かれたものだった。その前線でひとりの弓士が大弓を構えていた。その丈は弓士自身の背よりも長く、地に触れる寸前だった。つがえた矢の羽には、朱い斑。篁の國の雑兵たちの噂となっていた弓士である。
その弓はよほどの強弓であるのか、引き絞るごとにぎりぎりと音をたてんばかりだった。法螺貝の余韻が消える寸前、その矢は放たれた。
「やったか?」
「わかりませぬ」
馬上から問いかける将に、弓士が目をすがめ、相手軍を確認しつつ答えた。その声は落ち着いた低い声であったが、男のものではなかった。
「
遠眼鏡を手にしていた、伝令が勢い込んで榛軍の将に報告した。吹き交わした法螺貝と同時に突進してきていた敵軍の左翼がみるみるうちに失速しているのがわかる。たった一矢で左翼を率いていた敵軍の将を射落としたのである。
「さすが、朱鬼よ。わたしの國にもお主のような弓士が欲しかったな」
「いまは、榛の國にお味方しておりますれば。いかようにもお力になりましょう」
榛の國の跡取りであり、この陣を率いる稜榛は、口元に薄く笑みを浮かべた。
「では、篁の國守を射落としてくれぬか」
「ご無理を申されますな。いくらこの朱鬼といえど、陣の奥深くには矢はとどきませぬ」
「冗談だ」
「……」
朱鬼と呼ばれた弓士は、背に編み込まれた髪を長く垂らしていた。その両のこめかみから編まれた髪が一房づつ朱い。髪は黒と決まっているこの世では、殊に珍しい。そしてさらに珍しいのがその瞳の色だった。それは銅を朱く
朱鬼は、稜榛に一礼すると、そのそばを離れ自分の馬の手綱を引き寄せた。その背に稜榛が声をかけた。もう戦場は混戦状態に陥り始めている。榛の國の兵もこの丘に敷いた本陣以外は、討って出ている。
「戻るのか?」
「わが陣にて、若を守るお役目がございますので」
「
「榛の國あってこそのわが鸞の國。この戦で初陣を迎えられた若君も、よくそのように仰せです」
「朱鬼よ」
「は」
「そのほうの名、聞いておらなんだ。何という」
「
そう、言い残すと朱鷺は自分の馬にまたがり、今まさに前線に雪崩れ込もうとしていた、鸞の陣の中央へ駆け去っていった。
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