9月17日

 帯刀を待って十五分くらい経っている。月曜日の朝十時に待ち合わせである。本来ならば、今日は平穏な三連休の最終日であった。ちなみに敬老の日だ。僕はこのありがたい休日を惰眠にも敬老にも使わず、帯刀と会うことで消費することになった。

 ところで口約束とはどれほどの強制力があるのだろうか。僕は小学生の頃、家にランドセル置いて公園に集合、のような約束はした。それは小学生という狭い世界だから通用したものなのだろうか。高校生になってから、友人と休日に会う機会が無かったものでわからない。

 先週、帯刀とコンビニに寄った帰りに「月曜日に○○駅西口に十時集合で。軽装でいいからお金だけはしっかり持って来て」と言われた。僕は面倒臭いから嫌だと抵抗したが、あの約束は無いものとなったのか。不安になるだけに充分な時間は経過した。

 九月も中旬になり、最高気温はまだ三十度になるも大して暑さは辛くなくなってきた。良い傾向である。ただし十五分も立たされっぱなしという状況との組み合わせとなると話は別だ。突破口は二つほどある。一つは電話で確認を取る、もう一つは無かったものとして帰る。普通なら前者であろう。しかし「冗談だし、あれを信じて来ちゃったの?」となればいたたまれない。それを躊躇う十五分でもあったのだ。だがもう我慢できない。スマホをウエストバッグから取り出し、ラインを開こうとしたそのときだった。

「やほ。唯都くん。待った?」

 帯刀が来た。悠々と駅の反対方向から歩いて来る。余裕たっぷりのその姿に衝撃を受けたのを覚えている。

「よお。待ったね。十五分ほど」

涼しい顔をしていた帯刀は口をへの字に曲げて僕を睨んだ。

「そこは嘘でも今来たところって言わなきゃ」

言う義務はあっただろう。五分程度なら。十五分ともなると、汗の量との辻褄が合いそうにない。僕の顔が渋いのを見て帯刀は楽しそうに怒る。

「あと女の子のお洒落を誉めるのは常識です」

 時間厳守は人間としての常識だと思うのだが、違うのだろう。服装のことだが、ゆったりとした雰囲気のある白シャツにぴったりとしたデニムパンツを着用していて学校で会うときとずいぶん印象が違う。わざわざ言うことは無いけど、似合うと思った。

「時間通り来ていたらすんなり口にしていたと思う。それより、今日の予定は?」

「あそこへ行くよ」

 帯刀は背後を指差す。遠くの観覧車が視界に入る。まあ、おおよそ予想通りであった。この駅から徒歩十分ほどの所には、動物園と遊園地とプールが一体となったハイブリッド公園がある。小学生の頃はしばしば行ったものだ。

「わかった。行くけど、僕はどうして誘われたのかな。今日は二人?」

 帯刀はきょとんとしてからニヤニヤ笑う。

「二人がいい? お望み通りだよ」

 不快である。無視しよう。僕が歩き出すと帯刀は付いて来た。追い付くと追い越し、目の前でうろちょろ歩く。にこにこする様子からしてこの人は反省してない。今月三日に初めて会話をしてから文化祭なども通して帯刀とはそこそこの交遊を持った。放課後、お互い帰宅部で帰る方面も同じであるため一緒になることが多かったという理由がある。徐々にではあるが人となりというのもわかっている。だから僕も本気で怒ってはいないし無言の抵抗も長続きはしない。僕から話し掛ける。

「向こうから来たけどここらに住んでるの?」

 帯刀が僕より下りの駅を利用しているとは知っていたが、詳しく聞かされていなかった。

「そうだよ。近所なの。夏はお姉ちゃんとそこのプールによく通ってた」

「お姉さんいるんだ」

「バカ大学生のね」

 それから帯刀と適当に話すこと十数分で目的地に着いた。園の東ゲートで、遊園地側なので観覧車やその他高さのある乗り物が既に視界に入る。僕らはワンデーパスを購入したが、思いの外値段がした。お金を持って来いと言われたのはこういうことか。

「よし。いっぱい乗ろう。わくわくするね」

 しない。ゲートをくぐるまでの間、帯刀が振り返りながら笑顔を見せる。確かに広大な敷地でたくさんのアトラクションが目まぐるしく動き、人々の絶叫が聞こえると楽しい気がする。しかし僕のテンションはさほど高くない。今のところ不安が勝っている。

 僕がゲートを通過すると、先に入った帯刀はもう数メートル先でぶらぶら歩いていた。あいつの行動力はおかしい。僕は走る羽目になった。入ってすぐに大きめの池があって池の淵に沿ってぐるりと回る必要がある。左右それぞれルートがあるが、帯刀が右を選択したので素直に従う。

「やっと追い付いた。待てよ、僕のことを」

 帯刀は悪気が無いようでこっちを向くと口角を上げた。

「お昼はここで食べようね」

 左右のルートの集合地点にはレストランがあった。まあ、昼食は何でも構わない。

「最終的には全部乗ることになるけど、まずはジェットコースター? それか観覧車?」

「やだな」

「お化け屋敷?」

「いいよ」

 帯刀は僕を見た。愕然としている。僕は暑かったのでシャツの胸元を掴んで扇いだ。

「これは唯都くんに楽しむための素養があるか無いかの大事な質問だよ。高い所怖い?」

 怖い。生来高所恐怖症である。帯刀がフリーパスを買ったときは戸惑った。僕はのんびり動物園で今日を過ごすものとばかり思っていたのだ。帯刀は僕が黙り込むのを肯定と捉え、ふう、と息を吐いた。

「じゃ、ごめん。今日は存分に怖がって」

 やっぱり。高校生にとって大金を払った今、後戻りは不可能である。入口に引き返すのは悪いのでもう覚悟はした。

 地獄という安直な例えは好かないが、地獄であれをやられたら随分な拷問になると思う。久々にジェットコースターに乗った。帯刀は有言実行であり、それは出会ったときから変わらないけど、観覧車を残してほぼ全てのアトラクションに乗りきった。常識かもしれないが、遊園地にあるものは概して高い。

 僕らは、帯刀にとってメインディッシュに値する観覧車に乗るため列に並んでいる。隣の帯刀は気持ち良さそうに汗をかいていた。それもそうだ。既に二時間近く炎天下で遊び回っている。そろそろ昼食にしたいが、これを楽しみにしていたようなので、疲労を感じていないのだろう。僕らに順番が回ってきて、黄色のゴンドラに乗り込む。ゴンドラは全部黄色だったと思う。帯刀が今のところ観覧車の軸側、僕が外側に座る。

「何だかマリオみたいだよね。タイミング計ってぴょんって乗る感じで」

 知らない。僕は入ってすぐに防御態勢をとっている。景色が視界に入らないように下を向くだけ。何のために来たのかわからなくなってきた。帯刀は僕に愛想を尽かせたようで、左右に広がるパノラマを眺めていた。今、大体三十度くらい回っただろうか。

 ほんの少しだけ、怖いもの見たさで顔を上げると帯刀が僕にちらりと視線を向けた。余計顔が上げづらい。そう言えば帯刀と向かい合って座していた。仕方ないので帯刀の足がぷらぷら機嫌良く揺れているのを見ている。今はたぶん九十度。

「観覧したら? 私の脚ばっかり見てないの」

「は? 見てない」

 僕は言葉とは裏腹に弾かれたように面を持ち上げてから答えた。やはりここは高いので、腕組みをして右手の窓淵に目の焦点を当てる。景色は見るともなく見えてしまう。だがこれくらいの高度ともなると、全てがジオラマのようで怖くないと気付いた。それに感動して真下を覗いてみたがダメだ。くらくらする。

「上見てればいいんじゃないの?」

 それは高所恐怖症を理解していない。上を見ると、恐怖の対象である下に注意を払えなくなるので結局怖い。今、約一三〇度。

「私は高い所嫌いじゃないけどね」

「馬鹿と煙は高い所が好きらしいね」

「ふうん。いつも校舎の四階までしか上がれないからさ、ここは高くていいよ」

「楽しそうで何より」

「ねぇ、唯都くん。今日は楽しい?」

 帯刀は僕の方に向かって訊く。僕は向き合わない。相変わらず園内を見ている。小さな子どもを連れた夫婦が木陰で休んでいる。暑いのに手を繋いだカップルがジェットコースターの列に並んでいる。今日、どうして僕はこんなところにいるのだろうと変な気持ちになった。体温が高いからかもしれない。頭が回っている気が全然しなかった。一六〇度。

「楽しいのかな? 帯刀以下なのは確かだ」

「まあね。超楽しい。唯都くんは?」

 一七〇度。風が吹いてゴンドラが揺られ、一瞬止まった感覚がする。手が汗で湿った。

「わからないよ。そんなに楽しんでほしけりゃ彼氏と来れば良かっただろ」

 一七五度。垂直のポールが近い。高さの基準が急に迫ってくる。

「うん、そうなんだけど。頂点来たよ」

 一八〇度。安心感だ。これから下るだけというのは。僕が左手に顔の向きを変えるために帯刀を見ると笑っていた。初めて見たような照れ笑い。なぜそんな表情をしているのだろうか。ひょっとしたら彼氏と来いと僕がからかったかもしれない。万が一だが、一応確認したいので尋ねる。

「帯刀、彼氏いないよね」

 帯刀は笑みを消して、右の髪を耳に掛けた。

「え。私言ってなかった? いるよ。彼氏」

「……ん?」

 そうだ。今はおそらく二七〇度だろうか。

 観覧車を降りた僕は、他のジェットコースターに乗るためにすたすた歩き出した帯刀に遅れを取らないよう付いて行く。もちろん、確認すべきことがある。

「帯刀はさ、どういうつもりで僕を誘ったの? 彼氏がいるんだよな」

「唯都くんは会ったこと無い? 文化祭のときもうちのクラスによく来てたし。隣のC組で、バスケ部で──」

「彼氏は今日のこと知ってるの?」

「もちろん知らないよ」

 僕の溜息が漏れた。相変わらず歩くのが早い帯刀はしかし、話をまともに聞こうとしない。僕からすればこれは重大な事実であるのだが、彼女にとっては些細なことなのだろうか。とりあえず真面目に向き合って欲しくて手首を掴んだ。

 反射的に帯刀が振り返る。その顔は今まで見てきた笑顔ではなく、ちょっと面倒臭そうな物を眺める顔だった。一瞬怯むが、言う義務を感じるので声にする。

「あのさ、何がしたいの? 浮気かい?」

 それを耳にして帯刀は笑った。だが、いつもの無邪気なそれではない。冷笑。軽蔑するための表情だったと思う。

「どういう意味? 唯都くんはそういう目的で私と会ってるの?」

 僕をいたずらに煽るような言葉。周囲の人の声やアトラクションの音楽が、そのときばかりは澄んでいるようで、やけに明瞭に僕へ届く。胸を蝕まれる思いがした。僕は自身で思うほど熱くはなれなかった。よって、帯刀を責めるような口調になってしまった。

「帯刀の事情は知らない。だからこの後、もし彼に今日のことが伝わって、帯刀がどうなろうと僕は関知しないよ。でも僕がそのことで君の彼氏から恨まれたら責任取れるのか?」

「唯都く──」

「僕は毎日を平穏無事に暮らせればそれで充分だと思って生きてる。だから君と会えなくても僕は何とも思わない。元々僕は──」

「わ、わかったよ。ごめんって……」

 つい夢中になっていた。見ると帯刀はさっきの侮蔑はどこかへ置いてきている。今は思い詰めるような表情で、僕に握られている手首を見ていた。慌てて手を離す。気まずくなって顔を下に向けた。傷付けた? こうやって友人を失うことは初めてじゃなかった。

「……」

「……」

「僕も悪かった。今日は帰る」

「……待って」

 帯刀が僕を引き留める。腕を凄い力で握り締められる。顔は暑さのせいで紅潮していて、全体として苦しげに見える。

「私、浮気でも唯都くんを欺くつもりも無いから。馬鹿だから、よく考えてないだけ。今日はどうしても誰かと遊びたい気分で、一緒に来たい人の中で予定が合ったのが唯都くんだったの。信じてくれなくても仕方がない。どうしても帰りたいなら引き留められない。だけど、もし唯都くんが周りの誤解が怖いってだけなら、それを解く最大限の努力はする。私は残りの時間も一緒にいたいよ」

 言い終えて、帯刀は不安で顔をいっぱいにした。声が震えているのを聞いて僕は脱力感を感じ得ない。こんな僕との関係でも壊すことを怯える帯刀がいやに弱々しく見えたのだ。これ以上責めることは到底出来ない。それに帯刀はきっと強烈な後悔に襲われているのではなかろうか。挑発的な態度が僕を傷付けたことを悔やんでいるのではないだろうか。初めて会ったとき、語っていた通りに。そう思ってなお責め立てるほど、僕は唐変木ではない。極力笑みを作って言ってやる。

「わかったよ。不安が消えた訳じゃないけど、帯刀が保証してくるならある程度は」

「本当?」

「ただし、次乗り終わったら昼飯にしよう」

 帯刀の目にはちょっぴり輝きが戻っていた。

「ご飯食べたら機嫌直してね?」

 また笑顔が見れた。不思議な気分がした。僕は嬉しかった。目的地までの間、帯刀は出来るだけ隣を歩いてくれた。


 洋風の建物のレストランに来た。和風の建物は見たところ無いけど。池のほとりにある、朝に示し合わせた所だ。注文は入店時にする方式らしかった。僕が店前のサンプルのディスプレイを眺めていると「時間切れ!」と帯刀に遮られる。まだ十秒程度しか経っていないのだが。

「もう決めたの? 決断力あるね」

 帯刀は熟れたリンゴ色の頬を膨らませた。

「私は優柔不断だよ」

 言葉の意味を履き違えていないだろうか。首を傾げる。

「優柔不断な人が即決するには、メニューをろくに確認しないか、もしくは前日の晩から決めて来るしかないのです」

 また笑った。帯刀は後者なのか。でなきゃ、アトラクションを効率良く回ったり昼食のレストランを相談無しで決めたりできない。

 結局僕は注文未定のまま入店した。中はぱっと見たところ、池側全面に広がる窓が特徴的だった。その窓に沿うようにテーブルが配置されて、中央にはドリンクバーが設置されている。暖色系の照明で、僕のイメージするちゃっちい遊園地のレストランとは少々違った。店員さんに帯刀がまず注文する。

「この、オムライス二つでお願いします!」

「あ、僕はナポリタン一つで」

 帯刀は振り返ると、笑顔で僕の肩をひっぱたいた。店員は困惑している。

「それは無しで。二人で合わせて、オムライス二つとドリンクバー二つです」

 会計を済ませ、僕らは入口から少し離れた窓際の席を確保した。二人席で差し向かって座る。天気もいいし、最高のロケーションだ。好きなものを注文できたら、なお喜ばしいのだが。目の前のやつは怒っているし。帯刀は笑顔の方が断然似合うと思う。

「僕、変なこと言ったかな」

「とぼけないで」

「てか、怒るのは僕の番だ。他人の分を勝手に頼むなんてあり得ない。あれじゃ帯刀がオムライス二つを注文したと勘違いする」

 帯刀は腕組みして目を半分に開けて睨む。

「女の子は二つもオムライス食べられませんので。……本当にそう思ってないよね」

「帯刀は食いしん坊だから疑った」

 帯刀は笑った。すぐ笑う。ぶっ壊れているのではないか。

「ご機嫌直ったかしら?」

「まあ、大体」

 先程ジェットコースターで体調が極めて悪くなったので、不機嫌が持続できなかった。する必要も無い。

 こんな風に適当な話をし続けた。時間は流れていってしまう。現在、時刻は一時二十二分。長いような短いような。そうこうするうちにオムライスが登場した。店員さんが僕らの前にオムライスを給仕する。帯刀は「わーありがとうございます!」と手を叩いて喜ぶ。僕も会釈で感謝の意思表示をする。出て来たのは鉄板の右側にオムライス、左にハンバーグが載ってるずいぶんボリューミーなものだった。デミグラスが焦げるいい香りが鼻に吸い込まれる。食欲をそそる素晴らしい出来だ。

「じゃあ、いただきますしよ」

「いただきます」

「いただきます! あ、唯都君はその前にドリンク注いできてよ」

 わかった。帯刀の分もちゃんと持って来る。問答無用でオレンジジュースにしてやろう。雑用負担に心中で不満を言いつつも仕事をした健気な僕だが、一口目で幸福に脳を塗り潰された。美味しい。シンプルだがはっきりした味付け。とろとろの卵に程よい弾力のハンバーグ、期待以上だし、帯刀の無礼は水に流そう。顔を上げて帯刀を見ると、ほっぺたが落ちそうということを体現していた。頬を押さえていたということだ。

「美味しいね! 私、卵好きなの」

「卵料理?」

「そう。一日卵三個は摂取しないと発狂する」

 そりゃ大層不自由だろうに。

「こうして唯都くんと向かい合って食べるのは初めてかもね」

 確かに。当たり前だが教室で帯刀と弁当を広げることは無い。目前で帯刀が元気良く食しているのは新鮮だ。改めて帯刀を観察すると、所作も綺麗で人懐っこい笑顔を振り撒きながら食事を楽しむ姿は美しかった。こんなことを考えていたら気持ち悪く思われるだろう。しかしここ十数日間、その他クラスメイトと関わるうちに帯刀の評判が耳に入ってしまった。今も汗は多少かいているはずだが、ツヤと柔らかさを忘れない肩にかかるまで伸ばした黒髪。健康的な白い肌にほっそりした体型。それだけに学年ではやはり美人な方だという。だけどそれ以上に、喜怒哀楽のはっきりした性格のためにモテるのだとか。僕がそれをこの耳でどう受け取ったのか、今となっては墓場に持って行くしかない。

 いきなり帯刀が視界に割って入って来た。帰れの合図か。手を振っている。

「何見てるのー。お腹一杯なら頂いちゃうよ」

「食いしん坊だね」

「友達と食べてるときも、まさかぼうっとしてないよね。最近、誰かと一緒にお昼食べてるじゃん」

 文化祭以降、僕は昼食を食べ、休み時間に談笑するくらいの友達が出来た。

「帯刀のせいだ」

「お役に立てて光栄だね」

 僕に友達が出来たのは文化祭と帯刀が原因だった。自然と文化祭のときに話題が移る。そもそも僕と帯刀の接点は学校くらいしかないため、普段から学校についての話を中心にしている。そう言えばこの間、お互いローペースではあるがオムライスを口に運んでいる。

「帯刀が準備期間中に僕をこき使ったのが良くなかった」

「だって男子が働かないから。唯都くん暇してたでしょ」

「いいや。僕は校内の人気の少ない所で音楽でも聴いて情操を育もうとしてたんだ」

「うるさい。手伝え。クラス行事です」

 帯刀の言い分は全面的に正しい。しかし、僕も離脱組に入りたかった。文化祭の準備は、月曜から四日間の午後を使って行われた。初日は男子共も意気込んで力仕事を請け負っていた。二日目で飽きた。ほとんど全ての男子は火曜から不要な買い出しや他クラスの冷やかしに旅立って行った。パレートの法則の反証を示す快挙とだと思った。僕の場合、一日目の時点でやる気が皆無だったため教室にいなかったが、二日目にふらりと戻ったら帯刀に捕獲された。そこからは過酷な労働の日々だった。実直に仕事をこなす女子から「これ持って行って」、「それ、ゴミ」、「あれ」と指示を受け続けたのだ。

「帯刀が女子の前でこき使うから、皆勘違いして僕に雑務と力仕事を押し付けたんだ」

「でもいいきっかけになったでしょ。友達作りの」

 それは認める。仕事を押し付けられたのは僕だけはない。同じく逆らう力が無い男子たちもいた。一緒に苦労を分かち合ううちに、多少は会話をする仲になった。

「私とも仲良くなれて良かったでしょう?」

 帯刀とは文化祭当日に二人で校内を見て回るという思い出を共有した。もちろん帯刀に誘われた訳だが、今思うと彼氏がどこかにいたのだ。かなり危機だった。仲良くなった、という言葉に僕が窮しているのを嬉々として眺める帯刀に言い忘れていることを一つ思い出した。

「実は、女子と話すこともあったよ」

 帯刀はもぐもぐ動かす口元を一回止め、「誰?」とだけ訊いてまた口を動かした。目は真っ直ぐ僕に向いているが、さほど興味が無さそうであった。

「名前はあやふやで思い出せないけど、僕がゴミ出しを頼まれたとき『手伝うよ』と申し出てくれた子がいたんだ。その子とはゴミ出しや掃除をしながら会話したよ」

「へー。誰だろ。可愛かった?」

「可愛いかどうかで判断できるの?」

「いや。唯都くんと話したい子が他にもいるんだな、と」

「いや、どうかな。文化祭の二日目、カフェに誘われて一緒に行ったんだけど、大方は一人でいた僕への情けだと思う」

「……まだよくわかんない」

「ふうん。ごちそうさまでした」

 帯刀はスプーンを握った手を上下にブンブン振る。怒っているらしい。僕はただ行儀良く食に感謝しただけなのに。口の中の物を飲み込んで、お説教を開始する。

「唯都くん、せっかく私が同じもの頼んで同時にいただきますしたのに、どうして先に食べ終えちゃうの! バカ」

「知るかよ」

「人はそれぞれ大事にしているものがあるんです。あれー。私のコップ空じゃないの。何かさっぱりしたもの飲みたいわー」

 僕は溜息をついて席を立つ。ウーロン茶で二つの容器を満たして席に戻る。帯刀はニコニコ待っていた。僕は帯刀の左側に置いた。

「ばいざうぇい、この後どうしたい?」

 帯刀が僕に意見を求めるなんて感動ものである。好機は逃すまい。

「こっちとしては、動物園に行きたいな」

「えー退屈だよ。でも仕方ないか」

 僕に遊園地は刺激が強すぎる。疲れた心を動物で癒したい。帯刀は僕に遅れること約五分で完食した。「ごちそうさまでした」と丁寧に済ませる。この後の予定を軽く確認して店を出た。時刻は二時半過ぎ。太陽がかんかんに照っている。

「ねぇ唯都くん。今日はね、文化祭で友達ができた唯都くんに迷惑じゃなかったか質問する目的もあったの」

「そう。別に平穏な学校生活が過ごせればそれでいいから。迷惑ではないよ」

「良かった。えっと、友達が出来ても私と仲良くしてね」

 僕は日差しがますます強烈な屋外に顔をしかめて言った。

「わざわざ休日に会うのは、今のところ君だけだよ」


 動物園側に入った。まず暑い。当たり前のように動物たちも暑がっている。キリンやサイを見て、ライオンやホワイトタイガーも見たが、大概気怠そうにしていたし、覇気が無かった。それは帯刀も同様で「あづいー」を口癖に適当に写真を撮影して楽しんでいた。

 僕は動物に癒しと自然を求めていた。だけどここでは逆に自然を薄く感じる。動物が柵や檻に囲われ、人に餌を与えられているので人工的な物が際立。

 ゾウの前に来た。二頭のゾウが一枚の柵を隔ててゆっくり歩いている。でかい。こんな生き物もいるんだなと思った。別に初めて見た訳じゃない。久し振りに実物を見たのだ。帯刀はふらふら僕の一歩前で先導していたが、ゾウの前で止まった。

「二頭なのかな。もし仲が悪かったらどうするんだろ」

「ゾウもそんなことで同情されたくないと思うけど。何でそんなこと訊くの?」

「仲良くないやつと一緒の空間にいたことあるから」

「生きてりゃ、誰でもね」

 帯刀はプレーンな表情で次へと歩き始めた。僕はゾウに軽くお辞儀をして付いて行く。

 カバやペンギンなどを経て、ふれあいコーナーに行った。帯刀は暑さが堪えたのか大人しくなった。僕が引っ張る形で動物を探す。ふれあえる動物は色々いたようだが、僕はウサギを選んだ。理由は帯刀がウサギを好きだと思うから。ラインのアイコンがウサギのイラストだった。あとはヒヨコもいたが、ヒヨコはトラウマだ。小学生時代、手の平に載せたらそのままフンをされた思い出がある。それに、鶏卵好きの帯刀には天敵に当たるはずだ。プレハブっぽい小屋に入った。すまないがクーラーが涼しいと感じてしまった。

「涼しい!」

 帯刀が叫ぶ。慎め。涼を取りに来たのではないので、ウサギに近寄る。しゃがんでウサギのいる箱を見ると「優しく撫でて下さい」と書いてある。撫でてみる。

「ど、どう? 唯都くん」

 素晴らしい。先程まで暑さが鬱陶しいと思っていたが生き物の温かみは異なる。お前はそんなに可愛い顔をしながら温もりを与えてくれるのか、嬉しい。といった感想だ。

「何その微妙な顔」

「そんな顔断じてしてない。とりあえず触ってみれば」

 帯刀は後退りして「無理無理」と連呼する。どうにか十分ほどかけて懐柔して近くに連れて来た。今は手を伸ばしては引っ込めを繰り返している。僕が助けてやろうと手を押さえると、結構真面目にキレた。その後も一人で格闘していた。

「よ、よーし。おいでー……いやあっ!」

 帯刀は耳に触れただけですっ飛んだ。

「ははは、嫌いなの?」

 帯刀はもう充分に涼んだだろうに、顔を赤くしている。そして笑っている僕を見てきょとんとした表情をした。また戻って来て隣にしゃがむ。僕としっかり目線を合わせると、ニッと笑う。う、何だ。帯刀は僕に笑いかけたままウサギに手を伸ばす。ぴょんぴょん跳ぶ白毛赤目の子がその手に激突した。

「きゃあっ」

 また飛び跳ねた。ウサギより跳ぶなって。帯刀は僕を見て恐怖で強張った口元を弛ませる。

「唯都くん笑ってる」

 ここにいて笑わないやつはいない。初めて見た帯刀の無様な様子は滑稽だ。

「私が面白いから? ジェットコースターのときの唯都くんも大差無いと思うけどね」

 卓越した僕のリアクションは残念ながら記憶の中で割愛させているのだけど。帯刀はなおも笑って僕に言う。

「私、今が一番楽しい」

「そっか。いいことだ」

「ずっと悩んでてさ。どうしたら唯都くんが楽しんでくれるかなって。とにかく私の楽しいことに付き合わせてみたけど、唯都くんが笑ってるのを見て気付いたよ」

 何を言われるかわかってないので、不安になってウサギを撫でる。可愛い。

「今日は私が楽しむために来たんだから、唯都くんまで楽しませようなんて傲慢だよね。悪いけど私が楽しければ何でも良かったんだ。だから『楽しい?』なんて二度と訊かないよ」

 それだけか。何を今更。帯刀に笑ってやる。

「帯刀、僕は楽しいよ」

 帯刀はふっと笑った。傲慢でも相手が楽しんでるのを見るのが一番楽しい。僕は愛想だろうが何だろうが極力笑顔でいようと思った。

「そうかー。でもウサギを無理に触らせたこと、絶対許さないから」

 帯刀は清々しい笑みを投げかける。人は感情と表情が直結していない。今日はよく学ぶ。充実している。死に物狂いで逃げた。

 それからは適当に動物を見て回った。特筆すべき会話はしてないと思う。帯刀が写真を撮って一言言い、僕が感想を言うくらい。帰りに折り返したとき、今日の写真を見せてもらった。ほぼ僕が写り込んでいた。肖像権の侵害を訴えて消そうとしたが失敗した。ただ、ウサギと帯刀の映る写真だけは良かった。

 最終的に出口に着いたのは十六時二十五分。久々に遊び疲れた。日も落ちて来ていて、空はオレンジと赤と紫のグラデーションで──説明が面倒臭い絶妙な色だった。僕らは朝来た道をそのまま辿る。景色が違う。視野が開けて細部までありありと見える感じがした。しばらく歩くと、昭和に建てられた家と最近建てられた家が混在する住宅街に入る。帯刀はやはり僕の一歩前を歩く。鼻歌を奏でていた。ご機嫌で何より——。

「危ない!」

 僕は帯刀の細い腕を目一杯引っ張る。帯刀は後ろにつんのめって僕を見つめる。急に大声を出してしまった。目の前、住宅のブロック塀の間から乗用車が出て来る。僕が気付かなかったら、帯刀は轢かれていたかもしれない。僕は心臓の音を気味悪く聞きながら、帯刀を見た。こいつは怒っていた。

「急に出て来やがって! 死んじゃうだろ」

「マジで死ぬから気を付けてよ」

 帯刀は笑った。再び歩き出す。表情を見られなくなる。

「でもさ、人間意外と死にそうで死なないね」

「ちょっとは反省しろ」

「経験則だよ。私、何度か車に当たりそうになったり高所から落ちそうになったことあるけど、実際事故が起きたことないんだ。だから思うの。人間が死ぬにはすっごく高いある一線を越えなきゃいけないんだよ。でも越えたらころっと死ぬんじゃない?」

「それだけ生き物は良くできているってことの証明だね」

 帯刀は声で笑った。そして僕の方を振り返る。楽しそうだ。

「ね、唯都くん。今日は何の日か知ってる?」

「……ん? 敬老の日?」

「いや、いいや。今日は初デート記念日ってことにしといて」

「語弊が生じるな」

「ふふ、じゃあ私、家がこっち曲がった所だから。駅は真っ直ぐ行って──」

「君ほど方向音痴でもない」

「そっか、じゃあね!」

 僕は交差点の点滅する青信号に一度立ち止まって手を振る。

「楽しかった。じゃあね」

 棒読みでも帯刀は喜んだ。そのうちに帯刀の方の信号が青に変わった。僕の方が赤になってしまう。帯刀は手を振り、こちらを向きながら歩き出す。転ばないようにしてくれ。

「ありがと」

 帯刀の背中が小さくなっていく。その日の夜、ぐっすりと眠れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る