漫画喫茶

相沢 たける

漫画喫茶

 その漫画喫茶はあの日から二十年経った今も存在していた。まったくすごい企業だと思う。


 私はその日生き残った。火災が起きたわけでも、地震で建物が崩れたりしたわけでもない。しかし災厄と表現するにはあまりある出来事が起こったのである。


 私は製菓会社の営業の仕事をしていて、取引先との約束の時間まで何時間も余ってしまい、暇潰しにその漫画喫茶に入った。『快放館』。それがこの店の名前だった。


 店員に伝票をもらって、完全個室に入った。防音設備もバッチリである。私はとりあえず荷物を置いて、カードキーで鍵を閉め、コーヒーを飲むためにドリンクコーナーへと向かう。ソフトクリームもあるが、私はそれがラクトアイスだと知っていたから控えた。カップのコーヒーと、ガムシロップを持って部屋に戻った。


 ここまではいつも通りだった。誰の目から見てもふつうそのものだ。問題はそのあとに起こった。


 私は『ブースター』という漫画にハマっており、今は七巻まで読んだ状態であった。この漫画は二年前に終了し、全三十六巻まで出ていた。私は若さ故のウキウキを湛えて、鼻歌を誰にも聴かれないように小さな声で歌い、漫画の棚に向かった。少年ステップのコーナーにあった。私は棚の上にあるそれを取ろうとして、その手が、べつの手と重なったのを感じた。ほら、学園ドラマの図書室で起きるようなあの現象が、まさに今起こったのである。


 私はおそるおそる、私の手でない方の手を目で追って、隣に立つ彼女の顔を見た。正確に言うと、私はその顔を最初に見たはずなのだが、彼女のその容姿が強烈すぎて、どんな顔をしていたのかはよく覚えていない。その子はコスプレ会場と漫画喫茶を混同しているようで、真っ白な羽衣を着ていた。頭にはハチマキを巻いているんだからもう何が何だかわからない。


 わからないことがもう一つ、いや二つある。彼女のような変人がなぜこんな場所にいるのか。二つ目はその子がなんで私と同じ漫画を求めるのかということ。


「あぁ、ごめんなさい」私は言った。運命的なものを感じたわけではない。むしろ戸惑いの方が強い。


 彼女はブツブツ言っていた。「甘い匂いがする」


「へ?」わたしは製菓会社に勤めているし、営業だからお菓子は持ち歩いてはいるが、パッケージに入ったお菓子なので匂いが体に染みついているということはありえなかった。だが、焦っていた私は、スーツのあちこちの匂いを嗅いだ。甘い匂いはしていない。それとも私が自分の発する匂いになれすぎて気づいていないだけか?


 棚と棚に挟まれた通路。そこには私と彼女と、もう一人の客が少年漫画を探していた。その客は男性で、彼は指さししながらなにかの漫画を探して、横歩きを繰り返していたが、やがて急に足を止めた。そして、彼は私を見た。私はたじろいだ。見られるような真似をした覚えはないからこそたじろいだのである。


 彼の呼吸が急に荒々しくなった。顔中から汗が噴き出していた。まるでお菓子の製造工程を見ているようだった。脂ぎった汗。私は恐ろしくなる。彼は私からくるりと背を向け漫画もほっぽり出して去って行った。


「どういうことだ?」私の声は引き攣っていたに違いない。


「あの人常連さんだよ」

「ってことは君も常連なのかい?」

「ううん、それ以上だよ。二十四時間ここにいるの」


 なるほど了解した。つまり彼女は漫画喫茶で暮らし、どこかのオタク趣味に合うようなカフェーで働いているに違いない。コスプレ喫茶とか言う奴か。それなら納得できる。決まり切ったアパートとかマンション暮らしがあるわけじゃなく、漫画喫茶で生活を送る。そういう人は日本中に少なからずいる。


 ……ちょっと待てよ、一日中ここにいる?


 そのとき、カウンターにいた店員が慌ただしくなった。店員たちは六人くらい集まって、私の隣に立つ彼女を見ていた。彼女の羽衣の裾が翻る。十五、六歳だろう。


「ここって冷房効き過ぎだと思わない?」その声こそ私には甘ったるく聞こえた。


「女性にはちょっと寒いかもしれないね? で、この漫画が読みたいんだろう? だったら譲るよ。私は同じ作者の短編集で我慢するから」


「それもダメなの!」彼女が喚いた瞬間、店員の方がぶるりと震えたのが見えた。彼女が常連だとすると、トラブルメイカーという奴か。店員が迷惑するタイプの客ということだ。


「ダメって、どうして?」


「甘い匂いがするから」彼女は照れくさそうに言い、長い舌で自分の唇を舐め回した。彼女の瞳が私の瞳を捉えて、私は動けなくなった。意識すれば動けただろうが、得体の知れない力に惹き付けられているのだ。そう、私は動きたくなくなったのである。私の心臓の鼓動がおかしくなり始めたが、私はそれを気にも留めなかった。


「逃げて下さい――!」店員の声が聞こえた。私は無視して彼女の顔に惹き付けられていく。彼女の鼻の頭は天井のライトを反射して美しかった。私は彼女からも、甘い匂いがすることに気がついていた。嗅いだことのある匂いだった。フェロモンという奴か。しかしフェロモンであれだけの、それこそ香水以上のかぐわしさを出せるのは尋常な話ではない。 ドン、という音がした。店員が清掃用のモップで羽衣女を小突いたのである。私は我に返る。すると羽衣女の形相が変わった。変わったと言うより、もしかしたら最初からそんな顔をしていたのかもしれなかったが、最初の顔はよく覚えていない。


「痛い!! どうしてそんなことするの? 私がなにをしたって言うのよ!」

「うるさい、また、またお前は客をあの世に送るつもりか? これで四度目だ。さぁ大人しくしろ」


「やだもん!!」彼女の絶叫とともに、本棚が私たちに向かって倒れてくる。ガタン、途中でうまく支え合ったものの、私は屈まなければ行けなかった。


「彼女は、彼女は何者なんですか?」

「古本屋に住んでいた娘の霊ですよ。もっとも、古本屋の子どもという意味じゃなくて、女の子どもの姿をしているという意味での〝娘〟です。彼女自体は何者かによって作られたと言われてますが、肝心の彼女はその目的を知らずに今日まで残ってしまったみたいです。かなり古くから霊であるみたいで……」


 私は背筋が震えた。さっきこいつの手に触れたぞ、おい。


「人のこと勝手に喋らないでよ!」彼女が店員の顔を引っ掴んで、本棚に叩き付けてしまった。ぐしゃっという音がした。漫画本のタイトルの数々に、血がべっとりと広がった。


「あっ、あっ、やっちゃった。私殺しちゃった。どうしよう、どうしよう。これだけはお師匠にはダメだって言われてたのに、あっ、あっ」


 私は尻餅を付いて、泣きわめく彼女を見ていた。「追い出される、追い出される」と彼女は言っていたが、追い出されるとか以前に殺してしまったことに対する罪悪感が微塵も感じられないことが一番怖かった。


 本棚のトンネルをくぐり抜けるようにして、もう一人の店員がやって来た。店長だった。四十代後半、眼鏡を掛けている。


「一華ちゃん、それはタブーだよ。人殺しはダメだって」

「だってその人が……うぇーん!!」


「ご迷惑をおかけしました」店長は私に対して謝ってくれるが、謝ってくれるのならその子をどこかにやって欲しかった。


「……この子は、なんなんですか? なんでこんなところにいるんですか?」私は半狂乱になって訊ねた。


「この子はふだん、個室の一つを貸し与えられて、エサとなる古本を与えられて生活しているんです。甘いものが好きなんです。ほら、古くなった本って甘い匂いがするでしょう? 彼女は味覚よりも嗅覚を優先するみたいで、いい匂いがするものはおいしいと感じるんですよ」


 私は何か重要な勘違いをしていたのではないか、と思った。私がそこの羽衣女と会話していたとき、店員が何やらざわついていたが、あれは迷惑客を見る目ではなく、迷惑を掛けそうになる子どもを見る目ではなかったか。


「人を殺しちゃいけないよって前々から躾けられていたんですけど、ついつい手が出てしまうこともあるんです」

「あなたはなんで、そんなにも平然としていられるんですか? 人が死んでいるのに?」


 メガネの店長は歯を煌めかせて笑った。


「これがバイトだったらたいへんですけど、社員なので。彼が転勤になったときも、この子についてはちゃんと説明してあったし、あまり怒らせてはならないと言いつけてはいたんですけどね。危険因子を考慮しなかった彼の不手際でもあるんですよ」


「どうして彼女を野放しにしておくような真似をするんですか。危険な幽霊だというのに」 店長は胸を反らせて、鼻を鳴らした。私はもう早くこの店から出て行きたかった。


「あなた知らなかったんですか? ここの店の出入り口のところにも彼女の絵が描いてあるポスターが貼ってあるし、ホームページにも彼女の写真が載ってます」

「つまりなにが言いたいんだ、あなたは」

「つまり彼女は客を集めるために、あえてここで暮らしてもらってるんですよ。うちの会社と契約を結んで。……あぁそうだ、お願いですから、うちの店員が彼女に殺されたなんてことを言いふらさないで下さいね?」


 私は唾を飲み込んだ。


「あんたは、いや、あんたらは殺人を犯すような奴と一緒に働いているというのか? ――正気の沙汰じゃない!」


 店長は口を曲げた。


「商売というのはね、正気とか狂気とかは関係ないんですよ。需要さえあれば成り立ちます。というか、私たちのやってることを動物園とか水族館だってやっているじゃないですか? 人間の形をしているから、彼女は動物とは違うと言うんですか? 契約を結んでいるから違うと言うんですか? 正真正銘、ただの事故です」


 私はまともなことを言い返せる自信がなくなったような気がした。事故だから? 本当にそんな理由で片付けていいのか?


「警察に言いつけるぞ」私はせいぜい強気に出た。


「どうぞご自由に。しかし幽霊を信じてくれる警察がいるんでしょうかね?」

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