イアンパヌの出産
さて、なんやかんやで妊娠から十ヶ月が達って、イアンパヌも臨月を迎えた。
人間が直立歩行することによって脳が大きくなることができるようになり、其れにより様々な道具を使いこなすことができるようになったわけだが、其れにより不便になったことも幾つか有ったんだな。
具体的には骨盤がそれまでの下肢骨の支持の役目のみならず、重い内臓の受け皿となったことで、起こるのだが、一つは大便が肛門付近の尻肉に付着してしまうことで、基本的に人間以外の動物で肛門が尻の肉の奥に隠れている生物はいないので、自分の体が大便で汚れるという悩みは基本人間だけのものらしい。
縄文時代ではそこら辺に生えている草や落ちている石、土器のかけらなどで其れを拭くわけだが……話がそれたな。
もう一つが出産で、人間は難産の確率が他の哺乳類に比べ非常に高い。
これは、子宮および産道が全内臓の重みを受け複雑に屈曲する隘路となってしまったうえに、胎児の側も頭部が他の動物にくらべ非常に大きくなったため、スムーズに産道を通過することが困難となってしまったわけだ。
で、今の俺は安産祈願のために 胞衣壺 (えなつぼ)を作っている。
胞衣とは出産の後に排出される人間の胎盤のことでを赤ん坊が無事生まれたら、胞衣壺に胞衣を入れて胞家の戸口に埋めて、多くの人に踏んでもらうことによって、子どもの健やかな成長を願うといものだ。
「よっと、こんなもんだよな」
土器はすでに乾燥工程まで終わったから、その土器を焼いて、胞衣壺を完成させたら、アパートからかっぱらってきたバスタオルやタオルのたぐいを洗濯板と石鹸で丁寧に洗って、干し竿で干すことで綺麗にする。
まあ、柔軟剤はないからタオルはゴワゴワだが在るだけずっとマシだよな。
さらに、生まれてきたどもたちの足形や手形を粘土に直接押し付けて残すための「土版(どばん)」を作る。
これはもしも、子供が幼い時になくなってしまっても生まれてきたことを記憶に残すためのものでも在る。
そうならないでほしいものでは在るんだがな。
しかし事実は残酷で、生まれた子供の約45%は15歳まで生き延びることができず、出産時の母体の死亡率も15%程度と決して低くはないのが実情だ。
この時代での母体の死亡原因は感染症の産褥死ではなく出血死だ。
子宮や産道が大きく傷ついてしまうと、内臓であるため出血を止めることができ無いので母親はそのまま衰弱して死んでしまう。
日本では平安時代などの穢の概念が広まったあとに女性の産褥死が増えたがその原因は、出産の血の穢れを貴族が忌み嫌いすぎて、寒かろうが暑かろうが妊婦を別棟に隔離し、悪霊払いの儀式だけ必死にやって医師も産婆もつけず、産んだ後も消毒どころか清拭すらせずほったらかして母子が感染症にどんどん罹ったせいだ、まあそりゃそうなるよな。
これは中世ヨーロッパにおける出産でも、ほぼ同じようなことが起こっているが、よくちゃんと育ったよな其れで。
原始時代では穢の概念はないので、そういった心配はないが。
あとは出産の様子を表した土偶を作って、其れを意図的に壊して地面へ埋める。
「神様。
どうかイアンパヌと俺の子供をまだ土に戻さないようにしてくれ」
いま祈ったように、生きている人間が死んで大地に戻されないようにといういわば身代わりなわけだ。
気休めであろうと迷信であろうと最後はこんな方法しかないのははがゆいがな。
縄文時代のような狩猟採集社会は弥生時代以降の農家よりも乳児死亡率は実は低い。
骨粗鬆症、虫歯、脚気、壊血症、ペラグラ、貧血などの栄養失調も少ない。
それでも新生児の3割はマラリアやインフルエンザ、風邪などの高熱による感染症で死んでしまう。
高熱は原始時代では恐ろしいものなのだな。
出産のための産屋は俺がここに来た時に何故か一緒に転移してしまったアパートの一階を使っている。
畳の上に布団を敷いて、押し入れにしまってあった座椅子で楽な姿勢を取れるようにイアンパヌはしている。
まあ他の集落よりは色々恵まれている方だと思うが……。
イアンパヌの出産には出産を経験している、集落の女性も立ち会っている。
「大丈夫かい、イアンパヌ?」
「う、うん、大丈夫、ぐううう」
「ほら、これをかんでおきなよ」
「はい、あぐ……」
産婆代わりの高齢の女性が渡したのは大麻の葉っぱだ。
これを噛むことでマウスピース代わりになって歯や舌を傷つけたりする可能性が低くなるし、大麻には痛みを和らげる、吐き気を抑える、筋肉の緊張をほぐすなどの効果もある。
精製したマリファナは無論危険だが、精製していなければ中毒性も殆ど無い。
皆石鹸で手を洗って居るから産褥についても多分大丈夫だと思う。
和室の間の障子を外し、鴨居に太い縄をくくりつけてこれにしがみつけるようにして、その下にブルーシートとバスタオルをしいておく。
出産に産婦がいきんで出て来るのは子供だけとは限らないらしいからな。
陣痛の痛みが10分間隔になったら、イアンパヌは起きあがって縄にしがみつきいきむ。
破水したら、やがて子供が出てくるはずなんだが……。
俺が手に持っているのは折り曲げたクジラの髭。
最悪の場合赤ん坊の首にこれを引っ掛けて引っ張り出すしか無いか?。
だが俺の心配は杞憂に終わった。
「おぎゃあぁぁ! おぎゃああぁぁ!!」
イアンパヌのお腹から出てきた血まみれでシワシワで小さい新たな命。
無事に出てきてくれてありがとうな。
「イアンパヌも大丈夫か?」
「う、うん、大丈夫だと思う」
「じゃあ俺はお湯を沸かしてくるな」
「うん、わかった」
俺は一階の風呂に土器で何度もくんできた水で浴槽に少し水をため塩を加えて、風呂釜を取り外して加熱用のパイプだけになってる場所に木炭を持ってきて、風呂を沸かし始めた。
温水器などを用いるのではない古いタイプの風呂釜を使った風呂だったのはかえって助かったな。
それと一緒に綺麗な水の入った大きな土器も用意してこっちにも塩を加えた。
こっちは産水で、塩をくわえるのは浸透圧の関係で皮膚に水が吸い取られすぎないようにするためだ。
一方、赤ん坊を取り上げた産婆役の女性が赤ん坊とイアンパヌの陰部の血を拭き取って、赤ん坊を床においた。
すぐに産湯で赤ん坊を洗ってしまうのは色々と危険らしいからな。
産後は1時間30分以上、親子は臍の緒をつけたままで母親は赤ちゃんのすぐ側にいる状態で、赤ちゃんをは裸のままで床の上に放置しておく。
寒い季節なら無理だったろうが今は暑くも寒くもないので助かった。
母親の胎内の中にいた赤ちゃんにとって、体外は、そのままでは生存できない。
重力の影響もあるし、胎内では低酸素で暮らしていたのに、外界では肺呼吸をしなければならないので、そのために自分の脾臓や心臓を胎内仕様から体外仕様へ適応させなければならない、だからその間はへそのおをつけたままでしばらく過ごすわけだ。
こうすることで無理に肺呼吸の負担を加えさせずに赤ちゃんの脾臓を成熟させ、心臓の卵円孔が塞がれて呼吸や血流が正常に行えるようになる。
さて、時間が立って産湯に赤ちゃんを浸す、産湯は38℃以下じゃないとやけどするらしいが、正確な温度はわからないので適当に間隔をおいて指でお湯の温度を確認する。
「うん、こんなものかな?」
俺にとっては明らかにぬるいが要は人肌と同じ温度であればいいのだから。
血をふき取って床に置かれていた赤ん坊の肌も乾いてきたようだ。
へその緒をナイフで切って、赤ん坊を産湯で洗う。
「ひゃひゃひゃ」
産湯が気持ちいいのか笑っている。
この時石鹸は使わない、まだ常在菌が少ない赤ん坊に皮膚に石鹸を使うと皮膚組織を壊してしまうからな。
産湯で赤ちゃんを洗って、赤ん坊が十分に温まったら、今度は産水に浸ける。
産水は20℃ぐらい普通の水だ。
「ああー」
冷たくて嫌なのか?
でもなんか楽しそうでも在るがこれは反復浴と呼ばれる手法と同じで、産湯と産水を交互に使って、赤ちゃんを洗っていくと、赤ちゃんの自律神経が正常に作動して体の各器官を活性化し、しかも、この温冷水浴によって赤ちゃんの肌が刺激によって鍛えられ、血管が拡張と収縮を繰り返すことで全身の血行も良くなる。
産湯だけでは、片手落ちなんだよな。
さらにこれにより副腎が鍛えられ、細菌が一杯いる外界に適応するために副腎から副腎皮質ホルモンをちゃんと分泌させられるようにもなる。
お湯よりも、寧ろ、冷たい水の方が、肌を鍛えてくれる。
ただ、冷たい水では赤ん坊の小さな体を体を冷やしてしまうので、お湯とお水を交互にやっていった方がいい。
こうして赤ちゃんに温冷水浴を施して、赤ちゃんをバスタオルで拭いたら、麻でできた産着を着せる。
そして赤ちゃんはイアンパヌとともに睡眠に入っていった。
「イアンパヌもお疲れ様」
俺はイアンパヌの髪をなでながら母子ともに健康に出産が終わったことを神に感謝した。
そして俺は後産で排出された胎盤を胞衣壺に入れて、今住んで居る竪穴式住居の入り口近くの地面を掘って埋めた。
子供が起きたら粘土板に手形と足形も押しておこう。
今日は記念日なのだから。
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