ゆめうつつ

 その日、私はタクシーに乗った。いつも通り、なんでもないタクシーに乗った。……はずだった。

 

 会社の飲み会。と言っても、セクハラや面倒なだけのよくわからないルールが蔓延るクソみたいなそれではなく、部署内の仲のいい人たちだけを集めた気楽なものだ。ずっと抱えていた案件が終わったことに対するお疲れ様会でもあった。

 つまり何が言いたいかというと、その日私は気持ちよく飲んで、気持ちよく酔っていたのだ。それで、電車で帰る気にもなれなかったからタクシーに乗った。駅前で待機してた、特に何かおかしかったわけでもない、普通のタクシー。それに乗り込んだのだ。

 

「どちらまで?」

 

 運転席から振り返って聞いてきたのは、丸眼鏡に髭を生やした男だった。タクシー運転手にしては若めで、タクシー運転手にしては顔のいい男だった。勿体ないな、と思ったのを覚えている。家の住所を伝えて、あとは適当に時間を潰そうと思ってスマホを取り出して、適当にSNSを眺めていた。

 

 様子がおかしいな、と思ったのはしばらくしてからだ。タクシーに乗った駅から私の家までは、そう遠くもない。信号に捕まりまくったってせいぜい一〇分だ。ちらり、窓の外を見る。通り過ぎるビル街の中に、全国店舗数一位のコンビニの看板が見えた。

 自分が今どこにいるのか、夜の街では分かりにくい。車内からならなおさらだ。コンビニだって、あちこちにあるから目印にはなり得ない。

 

「……あの、今どの辺ですか?」

 

 運転手がやばいやつだったらどうしよう、というような発想もなしに素直に聞いたのは、きっと酒が入っていたからだ。それが私にとってよいことだったのかわるいことだったのかは、今もわからないけれど。

 

「そうですねえ……もうすぐ着きますよ」

 

 少しの間を置いて返されたそれに、思わず眉根が寄った。不満を隠すこともなく「もうすぐって……」と返す。

 

「もうすぐです。もしお暇なら、眠ってしまっても大丈夫ですよ。着いたら起こしますんで」

 

 そう言われて、素直に眠る客がどれくらいいるのだろうか。だんだん酔いが醒めてきていた私は、頭の中で考えていた。もしかして、面倒な運転手のタクシーに乗ってしまったのだろうか。わざと遠回りして、お金を余計に取るつもりなんじゃ。こういう時って、どこを頼ればいいんだろう。そもそも、ちゃんと家まで帰してもらえるのかな。っていうか、家の住所伝えたの、失敗だったかも。

 ああもう、せっかく気持ちよく酔えてたのに。思わずため息をついたのだって、しかたのないことだ。

 そうして、意味もなく再び窓の外を見ようとした、その時だった。

 

 きぃ、耳障りな音が鳴る。視界に写りかけていた窓の外の景色が、コンビニの街頭が揺れる。前に飛びそうになった体がシートベルトに押さえつけられる。「うわっ!?」と反射的に悲鳴が出た。

 

「ちょ……っと!! なんなんですか急に!?」

 

 崩れた姿勢をもとに戻して声を上げる。今さっき急ブレーキをかけたであろう運転手は、涼しい顔をしていた。焦りが全く見えないその表情に、また少しいらっとする。

 

「いやあ、すいませんね。ちょっと、猫が横切って」

「猫?」

 

 思わず繰り返した。だって。

 

「この辺で猫なんて、見たことないですけど」

「夜中は時々歩いてるんですよ。こないだも、同僚がうっかり轢いちゃったってへこんでましたね」

「へえ……」

 

 胡乱げな私を気にも留めず、運転手はまた車を発進させた。

 正直に言えば、この時点で運転手に対する不信感はマックスだった。今ここで警察に通報すべきかも、なんて大真面目に考えていたのだ。冷静な今なら、それでもし運転手がやばいやつなら車内でどうにかされてもおかしくないという考えも出てくるけれど、当時はそんなこと思いもせず真剣に迷っていた。だからやっぱり、当時の私はまだ酔っていたのだろう。

 でも、通報するなら場所が分からないとだめだよね、と当時の私は考えた。だから、窓の外を見たのだ。手元にスマホがあったんだから、それを見れば良かったのに。……いや、どっちにしても良くなかったのかも。あの日、あの時、タクシーに乗った時点で、私は「詰み」というやつだったのかもしれない。

 だって、窓の外に流れていたビル街に、またコンビニがあったから。さっきと同じチェーン店だ、そう思ったまでは良かったのだ。気にしなきゃよかったのに、私は気づいてしまった。

 

 これ、さっき見たのと同じ店舗だ、って。

 

 気づいてから、どっと心拍数が上がる。体温が上がる。まるで強い酒をいっきに呑んでしまった時のように。

 気のせいかもしれない、だって、あのコンビニどこにでもあるし。言い聞かせる自分と同じくらい、証拠を増やしていく自分が居る。コンビニの看板が同じ場所だった、外にあるゴミ箱が同じだった、出ているのぼりが同じだった。そもそも、通り過ぎたビルが同じだった。

 

 きっと私の様子が分かりやすくおかしかったからだろう。運転手が「どうかしましたか?」と声をかけてくる。それに思わず悲鳴が上がった。だって、私がおかしいのか、タクシーがおかしいのか、街がおかしいのか分からなかったから。

 そんな私を見てか、運転手が考え込むような色で「あー……」と言った。それでもタクシーは止まらない。窓の外を見ようという気持ちは、もうすっかり消えてしまっていた。

 

「お客さん、ちょっとだけ目閉じてもらってていいですか?」

「……え?」

 

 唐突な提案に驚いたのを覚えている。そして、次に浮かんだのは不信感だ。

 

「なんで、そんなこと」

「なんで、って言われると難しいんですけどねえ……それで、どうにかなるはずなんで」

 

 答えになってない答えにより不信感が増す。恐怖に染まっていた感情は、五割程度が苛立ちと不信感に塗り替わっていた。

 

「できそうですか?」

 

 そして、その問いで感情が爆発した。

 

「なんなんですか!? はっきりしないことばっかり言って、ずっと走ってるのおかしいじゃない!!」

 

 ぎゅっとこぶしを握って、座ったまま前の運転席に向かって怒鳴る。慣れないことをしたせいで、息が上がる。運転席は黙っていた。

 

「黙ってないで何とか言いなさいよ!!」

 

 運転主はまだ黙っていた。それで、私は。きっと、おかしくなっていたんだと思う。私は、私は。

 気づいたら、筆箱から先の細いシャーペンを取り出していた。それをぎゅうと握って、運転席の方に身を乗り出して、シャーペンを持つ手を振り上げて。

 

「なんなのよ、アンタ!!」

 

 形容しがたい感覚と共に、それが運転手の肩に刺さった。

 

「いっ……」

 

 低い、絞り出すような声を運転手が上げる。その声に、手に残る感覚に、どうしてか私の方が怯んでいた。

 肩にシャーペンを刺したまま、運転手は車を動かし続けている。かと思えば、そのスピードが少しずつ落ちていった。少しして、車が道路脇に停められる。続けて、運転手がタクシーから降りた。私は、それをただただ眺めていた。

 がちゃり、タクシーの後部座席のドアが開けられる。ひっ、と短い悲鳴が出た。

 

「お客さん、落ち着いて」

 

 しゃがんでいるせいで、私より低い位置にある視線から黒い目が私を見ている。日本人にはいくらでもいるその色が、今は恐ろしくて仕方がなかった。

 

「あー……もう無理かな、これ」

 

 ぽつり、ひとりごとのように運転手が呟く。喉の奥が恐怖で鳴った。むりって、なに。私の怯えた視線を遮るように、運転手の白い手袋を付けた手が伸びてくる。うしろにずりずりと逃げようとして、でもシートベルトがあって下がれなかった。それにまた恐怖が沸いて、頭の中がぐるぐるとまわる。

 

「すいませんね、ちょっと眠っててください」

 

 その言葉と共に私の両眼を運転手が覆った。白い手袋が、距離が近くなるにつれて暗くなっていく。すっかり暗くなったところで、私の意識は途絶えた。

 

 

「――お客さん、お客さん。つきましたよ」

 

 意識が浮上する。寝起き特有の霞がかった思考のまま、財布を取り出して清算を済ませる。タクシーから降りて、エントランスを通り過ぎて自分の部屋に向かうためのエレベーターの中で、やっと目が覚めてきた私は、さっきまでの出来事がまるでフラッシュバックのように頭をめぐっていた。複数回通り過ぎた同じコンビニ、運転手の白い手袋、私が運転手の肩に突き刺したシャーペン。

 どうしよう、なんてことをしてしまったんだろう、でもあれって現実? だって、今こうして家に帰ってきてるし。

 

 ぽん、いきなり鳴った音にびくりと体が震える。すっかり聞き慣れたエレベーターの到着音だ。なのになんでこんなに怯えているんだろう。怯える気持ちと、そんな自分を馬鹿にする気持ちが混ざってごちゃごちゃになる。でもそれよりなにより、早く自分の部屋に帰りたくて足早にエレベーターを出た。部屋の玄関扉に鍵を差して回す。ガチャリとなる音がいやに大きく響いた。

 そそくさと部屋の中に入る。靴を脱いで、廊下を通り過ぎて、寝室に着いたところで緊張の糸が途切れたらしい。へなりと床にへたり込んだ。

 

 きっと夢だよね。だって、あんなこと、起きるはずないし。私が、あんなこと、するわけないし。

 

 ぎゅう、と自分の体を抱きしめる。「現実じゃない」と、言い聞かせるために口にすればなんだか思っていたよりずっと大きく聞こえてそれにまた肩が震えた。深夜の一人の部屋だろうか。

 

 なんだか今日はもうシャワーを浴びる気にもなれない。さっさと寝てしまおう。化粧だけシートで落として、それから……。そう考えて立ち上がったとき、足元に転がっていたバッグを蹴ってしまった。

 

「うわ、やっちゃった」

 

 言いながらバッグの中身をもとに戻す。一番上に入っていたであろうタクシーの領収書が床に転がっていた。それを何の気なしに見て、そして安堵の息を吐いた。

 そこには、いつも通りの金額が表示されていた。ということは、私はいつも通りあの駅からこのマンションの前まで乗ってきたんだ。良かった、私が寝ている間に見ていた夢だったんだ! 一気に上昇した気分のまま、バッグの中身を片付けていく。

 ふと、手が留まった。最後に手に取ったのは、先の細いシャーペン。だって、タクシーのお金はいつも通りだったし。言い聞かせながら、ペンケースに戻す。ペンケースのチャックは空いていた。そう、きっと、開けっ放しでバッグに入れてしまって、だから中身が出てきただけ。

 言い聞かせながらバッグをいつもの場所に戻す。洗面所へ向かって化粧をシートで落として寝巻に着替えて、そのままベッドに直行した。

 

 その日の夜は、夢は見なかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る