3-おまもり
しゃっしゃっ、鉛筆の音を立てながら、時々消しゴムも使いながら、デッサンをしていく。お題に選んだのは、自分で使っているペンケースだった。前に使っていたのがボロボロになってしまって、最近買い替えた、グレーで無地の布製の地味なそれ。お母さんには「ほんとにそれでいいの?」としつこく確認されたけど、私はこれが良かった。三宅先生が普段使っているものに、雰囲気が似ていたから。
でも、思ったより難しい。布の感じを出そうと頑張って線を重ねて、でもやりすぎるとよく分からなくなってしまう。それに、消して描いてを繰り返して、そうしているうちにだんだん紙が汚くなってきてしまうのだ。
難しいなあ、と思わず鉛筆の尖っていない方を頭に当てて考え込んだ。じっ、と自分の描いたペンケースを見る。……悪くはない、と思うけど。でも、これじゃない、ような。
「何か迷っているのかな?」
かけられた声にびくりと体が揺れたのは、その声の主が近づいてきていることに全く気付かなかったからだ。慌てて顔を上げれば、そこにはいつもの違和感を感じるそれじゃなくて、心底楽しそうに笑っている三宅先生が居た。
「あ、先生……えっと。……ちょっと、うまくできてるか、不安で」
予想外だったから、ちゃんと喋れなくて少しへこむ。なんで、こういう時にちゃんとできないんだろう、私。
「見せてもらってもいいかな?」
「あっ、はい。大丈夫です」
そんな私に気付いていないのか、先生は変わらず楽しそうな様子で私に声をかけた。自分の、一応完成済みのデッサンの紙を先生に渡す。そうすれば、先生は目線のあたりまでそれを持って行ってじっくり見始めた。……どうしよう、へたくそだなって思われたら。
「うん、よくできていると思うよ」
ぱっと、思わず俯いた顔が上がった。先生が紙を机に戻して、「このあたりとか、」と指しながら言う。
「布の質感を出そうとしてくれたんだよね?」
「は、はい! そうです」
良かった、分かってもらえたんだ! そう思うと、さっきまで沈んでいたのがウソみたいに気分が明るくなった。ちらり、先生が教室の時計を見る。つられて私も時計を見た。集中していて全然見ていなかったけれど、授業時間はまだ結構残っているらしい。
「……せっかくまだ時間があるんだから、もっといいものにしてみようか。ちょっと待っていてね」
そう言って、私が返事をするより早く教卓へ戻る三宅先生。けれど、先生は紙を持ってすぐに戻ってきた。私が今手元に置いているのと同じ、ケント紙。でも、私が使っているものよりは小さい。
「机、ちょっと借りるよ」
そう言って、先生はそのケント紙を私の机に置いた。よく見れば、先生の手元には鉛筆がある。
「手元を見ていてね、例えばだけど……」
先生が中腰になって、その手を動かし始めた。さらさらと、しゃっしゃっと、音を立ててケント紙に描かれていくのは、まさに私が描きたかった、ペンケースの布の部分だった。じっと、先生の描いていく、完成していくそれから目が離せない。
「こんな感じで描いていったら、もっと良いものになるんじゃないかな」
最後にそう締めくくって、先生は背筋を伸ばした。ぼんやりと先生の描いたものを眺めていると、先生が立ち去ろうとしていることに気付く。鉛筆だけ持って戻ろうとする先生を思わず引き留めた。
「あの、先生、これは……」
言いながら、先生が描いてくれた方の少し小さいケント紙を差し出す。三宅先生は一瞬不思議そうな顔をしてから私にこう言った。
「いや、それはお手本のために描いたから。鈴木さんが持っていて構わないよ」
「わ、かりました」
そう返事をして、別の生徒のところに向かう先生を見送る。それから、先生の描いてくれたお手本をじっと見た。
私では、思いつかなかったような方法を使って、三宅先生はこれを生み出した。その様を、目の前で見れたことが、たぶん、きっと、すごくうれしい。
……せっかくお手本描いてもらったんだから、頑張らないと。
改めて自分に言い聞かせて、鉛筆を握る。先生の描いてくれたお手本と比べると、自分の描いたペンケースはとても貧相に見えた。
「はい、ここまで。みなさん、完成しましたか?」
ぱっ、と切り替わるように意識が浮上した。集中し過ぎていたみたいだ。時計を見ると、授業が終わる五分前になっている。どうしよう、まだ完成してない。
「今日描き終わった人は先生の机に出していってください。もし描き終わってない人は、今週の金曜日の……夕方、五時までに。職員室に出しに来てくださいね」
ほっ、と安心して息を吐く。良かった、金曜日まで待ってもらえるんだ。
「それじゃあ、今日はここまで。号令お願いします」
先生の言葉を合図に、始まりと同じようにクラス委員の子が号令をかける。それが終わってから、一気に美術室は騒がしくなった。ああ、いやだな。いつもと同じようにそう思いながら、先生の机へ向かう。先生は、机に提出されたクラスの子たちのデッサンを楽しそうに見ていた。
「三宅先生」
声をかけて、やっと先生は気づいたみたいでこちらを見る。「おや、鈴木さん」と先生が私を呼んだ。
「次の授業の準備は何が必要か聞きに来ました」
「ああ、そうだね、ありがとう。次の授業は……」
そう言いながら、先生は紙から視線を上げる。どこでもない場所を少しの間見ていた先生は、けれどすぐに私と目線を合わせた。
「特別、準備が必要なものはないかな。ああでも、金曜日の朝の会で、提出がまだの人は忘れないように、って声をかけておいてくれると助かるよ」
「わかりました」
こくりと頷く。朝の会で喋らなきゃいけないのは少しハードルが高いけれど、美術の授業に関してだったらそれ以外よりは安心して喋れる。
「それじゃあ、また来週……じゃ、ないのか。鈴木さんは未提出だよね?」
指摘されたそれに、思わず固まる。それでもどうにか「そうです」と返した。
「あのあと、頑張ってより良いもにしようとしてくれたんだね。それで時間が足りなくなってしまうのは……まあ、こう言うとよくないだろうけれど、仕方ないことだと思うよ」
「そう、ですかね」
「少なくとも僕はね。そう思うよ。提出、楽しみにしてるから、頑張ってきてね」
楽しみにしてる。頑張って。
たったそれだけの言葉で、やっぱり沈んでいた心は上向きになった。
「……はい!」
そう返事をしてから、自分の席に戻って荷物をまとめる。教科書と、ペンケースと、描きかけのケント紙と、三宅先生のお手本。
それを抱えて、美術室の扉を開ける。扉を閉めるために振り返ったとき、先生が変わらず楽しそうにデッサンを眺めているのが見えた。その風景を、扉を閉めることで少しずつ閉ざしていく。最終的には、私の視界は美術室の扉だけになった。
改めて自分の荷物を抱えて、教室に戻る。相変わらず廊下はうるさくて、そして教室もきっとうるさい。
でも、私の手元に、三宅先生の描いたものがあると思えば、頑張れる気がした。
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