2-おまもり
私の教室は、美術室と同じ階にあって、だから移動はそこまで面倒くさくない。それでも、昼休みの終わるころの、この人が多くてうるさい廊下を移動することはいつまでたっても好きになれなかった。
「次の国語がさー」
「鈴木マジうざい」
「部活今日いくー?」
「宿題終わってないんだよねえ」
別に聞きたくもない、聞こうともしてないのに、勝手に耳に入ってくるそれらは正直雑音でしかない。なのに意味を理解してしまうから、ただただこの音たちが嫌いだった。
学校でもイヤホンとか、使えたらいいのに。そんなことを、もう何度考えたかわからない。でも先生の誰かに相談してみようとか、そんなことを考えたことはなかった。だって、もし仮に話したとして、いいよって言ってもらえるわけがないし、もしいいよって言ってもらえたとして、悪目立ちするのが分かりきってるから。
だから、これは我慢するしかないんだ。いつもと同じ結論にたどり着いて、思わずため息が出た。
どうにか教室にたどり着いて、自分の机に向かう。机の中にしまっていた美術の教科書とペンケースを出して、すぐ美術室に戻ろうとした時だった。この教室で、いやこの学校で、一番嫌いな音が耳を刺したのは。
ぎゃははは、なんて、下品な笑い声。それが誰のものかなんて、振り向かなくても分かる。いわゆるカーストの上位に居る、男子の山下くんのものだ。馬鹿笑い、なんて言葉はきっとこういうものを言うためにあるんだろうと思うようなそれに、思わずびくりと体が揺れる自分も、最高に嫌いだった。
そろり、ばれないように音の方をうかがう。そこに居たのは、案の定山下くんと、その取り巻きの子たちだった。何が面白いんだかわからない話題で、彼らは笑い続けている。それを視界に入れたことで、よりいっそう嫌な気分になった。
さっさと美術室行こう。そう思って、止まってしまった足を動かして教室から出る。大丈夫、美術室なら、安心できるから。おまじないのように心の中で呟いた。
早歩きで美術室に向かって、自分の席に着く。まだ人の少ない、授業も始まっていない美術室ではやることがなくて、ぼんやり教科書をぱらぱら捲ったり外を眺めたりした。
そんなことをしていると、少しずつ人が集まってくる。だんだん人口密度が上がる教室に、最後に入ってきたのは山下くんだった。
「これで、全員揃ったかな。それじゃあ、今日の授業を始めましょう」
先生がそう言ったのを確認してから、クラス委員の子が号令をかける。起立、礼、着席。すっかり慣れてしまって形だけになったそれも、三宅先生の授業でだけは意識してきちんとするようにしていた。
そして、それは私だけじゃない。きっと、理由は違うだろうけど。
「今日は、デッサンをしてもらいます。美術室内にあるもの、もちろん友達でもいいし、自分の使っているペンケースでもいいです。もし書きたいものが見つからない、って人は先生のところに来てくれれば、果物の模型を持ってきたのでそれを貸します」
三宅先生が、すらすらと授業の説明をする。
「これからデッサン用の紙と鉛筆を配ります。前から回していってください」
三宅先生が配ったのは、普段触れる紙とは違うケント紙。それが前の席から回されて、私の分をとってからまた後ろに回す。
「それじゃあ、始めてください。先生はときどき、教室を回るので、もし何かあれば声をかけてくださいね」
私のクラスの授業で、こんな風にスムーズに授業が進むのは、三宅先生の美術の授業だけだった。
どんな先生でも、どんな授業でもうるさい山下くんは、けれど美術室でだけは……ううん、三宅先生の前でだけは静かになる。それは、二年の梅雨明け、私がまだいやいや美術係をやっていた頃に起きた、ある出来事がきっかけだった。
三宅先生はちょっと変わった先生で、授業のたびに生徒を一人選んでその生徒をデッサンしている。デッサンのモデルになる生徒には、授業前の休み時間にわざわざ先生が声をかけに来る。例えば私なら、「どうも、鈴木さん。今日は鈴木さんを描く事にしたよ」とまず声をかけて、それからこう続ける。「既に聞いているかもしれないけど、今日の授業態度で君の一年の評価を五割決めることにしているんだ。今までのいい態度も悪い態度も全部無かったことにして評価するから、今日は頑張って授業を受けるんだよ。よろしくね」って。
そんな、ちょっと不安になるような評価方法をしている三宅先生が、最初は苦手だった。しかも、先生の描く絵には必ず黒目が描かれていなくて、それが不気味でもあった。それだけじゃなくて、その描かれた絵を破くと自分の体も引き裂かれる、とか黒目を描かれた人は人格を乗っ取られる、とかそんな噂まであったから余計に。
ともかく、そんな三宅先生の噂のうち、生徒をデッサンしている、というのが本当だとわかったのはすぐのことだった。だって、美術の授業の前に三宅先生がわざわざ教室まで来て、いつもの言葉を言う場面を何度も見たことがあったから。
それで、梅雨明けの、いやな暑さがじわじわ近づいてきている真っ最中だったあの日、山下くんはモデルに選ばれた。
美術の授業でも変わらず態度が悪かった山下くんは、その日だけは静かに授業を受けた。それで、問題の出来事が起きたのは授業が終わった後だった。
先生は、山下くんに茶封筒を渡した。その時点で、私はおかしいなと思っていた。だって、三宅先生はいつもスケッチブックに描いたものを直接モデルに見せていたから。先生が山下くんに何と言ってそれを渡したかは分からなかったけれど、山下くんは気にせず受け取っていたから、きっと変なことは言わなかったんだと思う。
それで、その日の放課後。教室へ忘れ物を取りに行った私は、偶然山下くんが取り巻きと一緒に茶封筒を開けているところを見た。今山下くんたちのいる教室には入りたくないな、忘れ物は諦めようかな。そう迷って教室前で立ち尽くしていたのだ。その時だった。
茶封筒を開けた山下くんは、普段の態度からは想像もできないことだけど、悲鳴を上げた。取り巻きの男子たちも驚いたような反応をしていたのも覚えている。放り投げる床にばらまかれる白っぽい薄い紙。トレーシングペーパーだっけ、あれ。そう思ったのと同時ぐらいに、そこに描いてあるものに目が行った。
そこに描いてあったのは、間違いなく山下くんだった。でも、おかしかった。ばらばらで、ぐちゃぐちゃで、でも山下くんだって分かって。
それを見た私は、ここにいることがばれたらまた山下くんに何かされる、と思って慌てて帰った。
原因は分からないけれど、その日はずっと、なんだかどきどきして落ち着かなかった。
そして、それ以降山下くんは三宅先生の前でだけは大人しくなるようになったのだ。だから、私にとって美術室と三宅先生の近くは安心できる場所になった。
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