1-おまもり
月曜日の五時間目。給食を食べた後の、お昼休みのさらに後。みんなが眠い眠いと言いながら教室移動をする、クラス内ではあまり人気が高くないその授業が、私は嫌いじゃなかった。
こんこん、ノックを二回。部屋の中からの返事を待ってから扉を開けて、けどまだ中には入らないギリギリの場所に立って口を開く。
「失礼します。二年三組の鈴木絵里です。三宅先生はいらっしゃいますか?」
最初はすらすら言えずに困ったそれは、この半年ですっかり口に馴染んでいた。
「はい、どうぞ」
時間帯によってはすごく静かな職員室も、お昼休みはどうしても少しうるさくなる。だからその声を聞き取るには、毎回少しだけ耳をすませる必要があることも、この半年で学んだことだ。
そんな返事を無事聞き取ったら、やっと職員室の中に入れる。三宅先生の机は、先生達の机が並ぶごちゃごちゃした細い道を抜けた奥だった。
「こんにちは、先生」
声をかけるのと同じぐらいのタイミングで、先生がマグカップを机に置く。ガラスで無地の、なんでもないそれの中身はもう空だった。でもきっと、さっきまではブラックコーヒーが入っていたはずだ。
「こんにちは。次の授業の準備をしに来てくれたのかな」
そう言いながらこちらに向けた顔は、すっかり見慣れた、ちょっと違和感を感じる笑顔だ。いつだったか、クラスの子が「三宅先生の笑顔って、目が笑ってないよね」と言われた時は、納得もしたけど、なんだかそれと同じくらいいやなきもちになったことも覚えている。
「はい。先週の授業の時、今日は必要なものがあるって言ってたから」
「よく覚えていてくれたね、ありがとう。助かるよ」
そう言いながら、先生は椅子から立ち上がった。同じくらいだった目線が一気に離れる。先生のふわふわの髪が揺れるのが妙に気になった。
「そしたら、今日使うものを取ってくるから。ここで少し待っていて」
「分かりました」
こくりと頷いて、先生の背中を見る。美術の時間に使うものは、美術準備室に置いてあることも多いけれど、職員室の隅に置いてあることもある。前に気になって聞いたら、美術準備室のものは学校のもので、職員室の隅にあるものは三宅先生が自分で用意したものだって教えてもらった。きっと私以外に、それを知っている子はいない。それがなんだか嬉しくて、ユウエツカン、って言うんだっけ。きっとそんなものを感じている。
職員室の隅の、本当に小さなスペースに置いてある縦に長い棚。そこから三宅先生は、何か、筆箱みたいなもの何個かと、きっと本物じゃないけど、りんごとか洋ナシとかを何個か取り出して戻ってきた。それを今度は、いつも先生がものを運ぶときに使っている無地のトートバッグに入れていく。そうしてそれが、私に渡された。
「じゃあ、これ一緒にもっていってもらっていいかな。僕は、こっちの教科書とか運ぶから」
「分かりました」
またこくりと頷いて、先生の後ろを歩いて職員室を出た。
職員室から美術室まで移動するこの時間、何かをしゃべることはあんまりない。時々頑張って話しかけてみることもある。けど、あんまりしゃべりすぎるとウザイって思われちゃうかも、って思うとたくさん話しかけることはできなかった。
だから、いつもこの時間、私は先生の後ろ姿を眺めながら歩いている。三宅先生は歩くのがのんびりだから、最初はすこし困ったけれど、でも今はそれがありがたかった。
クラスの男の子たちとは全然違う、お父さんともちょっと違う、広くてしっかりした背中。
ふわふわと毛先が揺れる髪。天然なのか、それとも自分でセットしているのかは分からないけど。
それから、私の目線よりも少し下のあたりでは、先生がいつもつけているエプロンの紐がきれいに結ばれている。
そんな、いつも変わらない先生の後ろ姿を見ることが、私のお気に入りだった。
階段を上った先、すぐの場所に美術室はある。今日は先生は両手がふさがっていて扉を開けることができないから、私が先回りして扉を開けた。そうすれば、ほら。
「ありがとう、鈴木さん」
先生はこうして、いつもの違和感を感じる笑顔でありがとうって言ってくれる。だから、私はこの機会を逃さないよう、いつも気を付けていた。
でも、毎回「どういたしまして」が言えない。先生に言うのって、なんだか変じゃない? とか考えてしまうと、もう何も言えなくなってしまうのだ。これは、半年かけてもどうするのが正解かまだ分かってない。しょうがなくて、毎回中途半端に頭を下げている。でも、これで先生が不機嫌になったことはないから、きっとこれでも大丈夫、なはず。そう信じて、私は一度自分の教室に戻るのだ。だって、自分の教科書とかペンケースを取りにいかないといけないから。
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