3-彼も医者の端くれだと気付いたのは、不貞寝から目覚めた後だった。

 ふ、と意識が浮上したのは、恐らく肌寒さからだった。目が覚めてそのまま上半身を起こせば、片方の足がベッドから落ちてることに気づく。原因はこれか、とやや恨めしく思いながら布団の中に足を戻した。布団の中で、冷え切った方の足と温まっていた足が触れ合って、その冷たさに少し驚く。一体どれだけ布団の外の空気に晒されていんたんだろうとぼんやり考えたところで、それに連想されて今何時だろうと頭に浮かんだ。

 枕元に置いてあるはずのスマホを手探りで探れば、目的のものはすぐに見つかった。スマホの電源を軽く押せば、液晶が光る。その明かりに少し目を眇めながら時間を確認すれば、現在時刻は午前四時二三分だった。

 ふあぁふ、あくびが出る。でもどうしてか、布団に戻る気分にはなれなかった。ぼんやりと、闇に慣れ始めた目で室内を眺める。少しして、ふとたばこが吸いたいなという欲求が浮かんできた。

 まだ温まっていない足を再び布団の外に出して、地面につける。床に落ちていた部屋着を拾い集めながら、リビングに向かった。

 

 机の上に置きっぱなしだった煙草の箱から、一本取り出して、そのまま流れるように火をつけようとしたところでハッとする。いけない、部屋の中で吸うところだった。まだ寝ぼけてるのかしら、なんて思いながらタバコとライターだけを持ってベランダへ向かった。

 

 ガラス戸を開けて、続けてカラカラと音を立てて網戸を開ける。外からふわりと流れ込んでくる空気の温度は、想像していたよりも肌寒かった。それでも外に居るのが耐えられないほどの温度の低さではなかったから、そのまま置いてあるサンダルに履き替えてベランダに出る。持ってきたタバコを口に含んで、火をつける。煙をくゆらせつつ、ベランダの手すりに肘を置いてそこに体重をかけた。姿勢が安定したところで、煙をふうと吐き出す。夜明け前の空に煙が薄れていくのをぼんやり眺めていると、背後からカラカラと網戸の開く音がした。

 誰が来たかは、振り返る前から分かっている。だから、わざわざそちらを向くこともしなかった。続いて、気配の主が彼のために用意した二つ目のサンダルを履いて私の横に立つ。彼は││匠は、私とは逆に手すりに背中を預けて立っていた。すっかり昨日の夜と同じ格好で、どこか気怠げに立っている。それを横目で見ながら、再び煙を吸い込めば、匠がその困り眉を顰めるのが分かった。

 

 私がこうしてベランダに出ているとき、匠は高確率で隣に居る。その間、私と彼の間に特別会話があるわけでもない。匠は、今日のようにただぼんやりしているか、街並みを観察しているかのどちらかだ。でも、そうやって横に居る癖に私がこうしてタバコを吸っていると、匠は眉を顰めるのだ。

 彼と関係を持ち始めてから、早い段階で彼がタバコが得意ではないことには気が付いていた。だからこうして、彼が居る時はいつもより意識してベランダで吸っているというのに、匠はどうしてかこうして私の横に居ることが多い。最初は困惑したものの、いつからか、嫌なら部屋に居ればいいのに、ついてくる匠が悪いんだと割り切るようになった。

 

 ふう、と再び煙を吐けば、それはゆらりゆらりと空へ向かって立ち上っていく。そうして空気に溶けて見えなくなっていく。それを見届けて、再びタバコを口に運ぼうとした、その時だった。

 匠に名前を呼ばれて、思わずドキリと心臓が跳ねる。それをおくびにも出さず、敢えて緩慢な動作で彼の方を見る。眉間に皺を寄せたままの匠と、目が合った。

「なぁに?」

 自分の口から出たのは、思ったよりも柔らかい声だった。それに少し驚きつつも、匠から目を離さずに居ると、彼の手が私の手首に伸びた。柔らかく掴まれて、体が彼の方に寄る。その段階で、ああこれからキスされるんだと気付いていた。気付いていたのに、情事の前に考えていたことが頭を過ぎって胸が詰まる。匠の顔から、目が離せない。今こんなにも近くに居るのに、彼は私のものにはならない。そんな考えが頭の中を占拠する。それが苦しくて、逃げるように目を閉じた。

 直後、唇に柔らかいものが触れる。それが何かなんて分かっていた。形を確かめるように触れるだけだったそれが、回数を重ねて深いものへと変わっていく。

 

 ああ、触れるまではあんなにも苦しかったのに、今私の中にあるのは多幸感のみだ。

 

 そのまま体を匠に預けようとしたところで唇が離れていった。それを物足りなく思いながらも目を開けて彼を見れば、どうしてか満足げな顔をしている。すっかり眉間の皺の取れたその顔をぼんやり眺めていると、それとなく距離を取られて彼が灰皿に手を伸ばす。その手には、いつの間にか私の手から奪われ火を消されたタバコがあった。

 

「いくら残暑が厳しいからって、この時期もう夜は冷える。外で涼むのも程々にな」

 

 匠はそう言って、満足げな顔のままベランダから部屋の中に入っていった。身支度を終えていた彼は、リビングを通ってそのまま玄関の方へと向かっていく。玄関まで見送りに行こうか迷って、結局そのままベランダで彼を見送ることにした。すっかり癖になった、タバコを口元に運ぶ仕草をしてから、自分の手にもうタバコがないことを思い出す。少しだけ恨めし気に、灰皿に残ったまだ長いタバコを睨んだ。

 

 くるり、体の向きを変えて外を見る。空は、もう明るくなり始めていた。このまま見ていれば日の出が見れるかもしれないな、とぼんやり考える。考えながら、視線を下に落とした。眼下には、まだ人も車も少ない道が広がるばかりだ。

 こうして下を見ているのは、そうすれば匠がこのマンションの玄関から出てくるところが見えるかもしれないからだ。馬鹿みたいだ、と自分を嘲りながらも、視線を上げることはできない。

 待っている間、ぶるり、体が震える。それで、そういえば自分は今薄着なんだったと思い出す。でも、それでも、せめてもう一目彼を見てから部屋に戻りたかった。

 

「あ、」

 思わず小さく声が漏れ出た。マンションの入り口から、出てくる人影を見つけたからだ。それは、遠目でも分かる。匠だった。

 

 こっちを見てくれるだろうか。少しの期待と共に、彼と思しき人影を追う。それは、こちらを振り返ることなく曲がり角を曲がり視界から消えていった。

 

 ……私は、何を期待していたんだろう。

 

 ふるり、力なく頭を振る。分かっていたはずだ、そんなことあるわけないって。視線を下の道から空へ上げる。空には、ちょうど日が昇ったところだった。

 

 ああ、タバコが吸いたい。そう思って部屋に戻る。けれど、机の上に置きっぱなしにしていたはずのタバコはどうしてか見つからなかった。丁度、ストックも切らして買いに出ないとタバコを吸うことは出来ない。外に出る気分にもなれなくて、仕方なしにベッドに戻って布団をかぶった。すっかり温度を失ったそれらにも機嫌が下がる。

 

 せっかくなら、仕事が休みの今日は外に出て買い物にでも行こうと思っていた。けれど、もうそれさえも億劫に感じてしまう。たまの休みぐらい、一日寝潰してしまったって誰にも怒られやしない。そう結論付けて、存外早く襲ってきた眠気に抗うことなくそのまま眠りに落ちた。

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