1-彼も医者の端くれだと気付いたのは、不貞寝から目覚めた後だった。
ガチャリ、家の扉が開く音が耳に入った。誰が開けたのかは分かり切っている。それでも出迎えはしておこうと思って、コンロと魚焼きグリルの火を止める。玄関へと続く扉を開ければ、ちょうど彼──姫宮匠が目の前に立っていた。驚いているのか少し目を丸くしている彼にくすりと笑って、「いらっしゃい」と声を掛ける。
「思ったより早かったね。夕飯今作ってるところだから、ちょっと待ってて」
言いつつ念のためリビングを指して言う。そうすれば、彼は素直に「分かった」と頷いてからリビングに向かった。それを見届けないままキッチンへ戻って、再びコンロとグリルの火をつける。秋刀魚の焼き加減を確認しようと屈んだところで、リビングから声がかかった。
「なんかやっといたほうがいいこととか、ある?」
匠からのその提案に少し考える。洗濯は朝洗濯機を回したし、干した洗濯物もついさっき取り込んだばかりだ。お風呂ももう洗ったし、掃除も昼間に一通り済ませたから、特にやってもらいたいこともない。
「大丈夫ー」
そう返してから、料理に戻る。気を取り直して秋刀魚を確認すれば、良い焼き加減になっているのが見て取れた。
味噌汁は既に出来上がっているし、ご飯も炊けている。大根おろしも冷蔵庫の中にあるから、あとはそれぞれ皿に盛るだけだ。食器をそれぞれ二つずつ取り出して、食事をよそっていく。
「匠ー、できたから持って行って」
途中そう呼びかければ、返事はすぐに返ってきた。間もなく匠がキッチンに表れる。
「これもう持ってっていいやつだよね?」
「うん、お願い」
短い会話の後、料理を持って匠がリビングに向かっていく。その背中を眺めながら、ふと「まるで夫婦みたいだな」と思った。直後、自分でその考えに苦笑する。
彼が誰かのものになることなんて無いと、分かり切っているだろうに。
浮かんだ考えを振り切るように頭を振って、料理を盛り付ける作業に戻った。
完成していった料理が次々運ばれていく。その片手間に出来る分だけ洗い物をして、料理がすべて運ばれる頃を見計らって魚焼きグリルを取り外してシンクに浸けた。残りは食後に片づければいい。
リビングに向かう前にお風呂場へ向かって、ピッとスイッチを入れる。栓がきちんと閉まっていること、お湯が出てきたことを確認してからリビングに向かえば、匠は既に席に着いていた。まるで子供の様に、様々な角度から食事を眺めている。待ちきれない様子だ。それに小さく笑う。
「お待たせ」
言いながらエプロンを外して、一旦椅子の背もたれにかけておく。それから私も席に着いた。
「じゃ、食べよっか」
「ああ」
二人で手を合わせて、「いただきます」を言う。それがなんだかとても幸せなことに思えて、口元が緩みそうになるのを抑えた。
「ん、美味いな」
さっそく秋刀魚に手を付けた匠が言う。ずず、啜った味噌汁を飲み込んでから「そうね」と返した。
「いいもの送ってくれたみたい。一人暮らしじゃあ持て余すのが難点だけどね」
「確かに秋刀魚はなあ。冷凍したってせいぜい一カ月だしな」
「そうなのよねえ」
そう同意を返してから、自分でも秋刀魚に手を付ける。身をほぐしながら、続けて口を開く。
「でも匠が来てくれて助かったわ」
「ん? ああ……ま、おかげでこっちは美味い飯にありつけたわけだし」
「そう。まあ、お互い助かってるってわけね」
「そういうことだな」
それ以降は、会話らしい会話もなくお互い黙々と食べ進めた。もともと、食事中私と彼の間に会話は多くは無いのだ。ずっとつけっぱなしになっているTVの音が程よい雑音として流れるのみだ。
先に食べ終えたのは匠のほうだった。少しして私も食べ終えて、特に示し合せるわけでもなく「ごちそうさまでした」を言う。椅子から立ち上がって、再びエプロンをつける。食器を下げに行った匠に続いてキッチンへ向かう。
「片づけ、俺も手伝おうか?」
「いいよ、お風呂もう沸いてるから先入ってきたら?」
シンクに食器を置きながら言う匠にそう返して、洗い物で濡れないように袖を捲る。スポンジを取ろうとした手首が、匠によってやわく握られた。
「あー……それなら余計、俺がやるよ」
「え?」
「最近忙しかったんだろ? 風呂ぐらいゆっくり入って来いって」
言いつつくるりと体の向きを変えられて、浴室の方へ向かって背中を押される。
「……じゃあ、お願いしようかな」
少し迷って、匠の言う通りにキッチンから出る。客人にそこまでさせるのは気が引けたけど、まあ匠だしいいかと結論付けてお風呂場へ向かった。
足から順にお湯に浸かって、少しずつ体をお湯へ沈めていく。肩まで浸かったところで、ほうと息を吐いた。
お湯の中にあった手を持ち上げれば、ちゃぷりと鳴る。せっかくだしと入れた柚子の香りの入浴剤によって、お湯が黄緑色に染まっていた。手で顔を覆って、暗くなった視界の中でぼんやり考える。
こうして、匠が我が家に来るのは何度目だろう。既に数えるのを辞めてしまう程度には、彼との関係は長く続いている。ワンナイトで終わると思っていたのに、気づいたら連絡先を交換していて、彼は何かにつけて私のところに来るようになった。
最初は名前しか知らなかった男なのに、関わっていく間に彼が私より二つ年下であることや、大きな声では言えないような仕事についていることを知った。そうして、不毛だと分かっているのに私は彼に惹かれていった。
居酒屋で一人寂しく飲んでいた私に声を掛けてきた男を見たあの時には、胡散臭い男だなと思っていたはずなのにな。
下着は少し張り切って、普段はあまり着ない可愛げのある小花柄のものを選んだ。いつもより念入りに体を洗って、処理をして、彼に抱かれるための準備をする。
浮かんだ笑みは、きっと自嘲交じりだ。
顔を覆っていた手をお湯の中に落とす。水音が浴室内に響く陰で、ばかだなあと音にならない声で呟いた。
「お待たせ、上がったよ」
お風呂から上がると、匠はリビングでTVを見ていた。私の声に「おかえり」と返した匠が、ソファから立ち上がってぐうと伸びをする。
「そしたら、俺も風呂入ってくるわ。タオルとか、いつもんとこ?」
「うん、そう。……あっ、入浴剤入れてるから。ゆずのやつ」
「へえ、いいじゃん。じゃあ俺もたまにはゆっくりさせてもらおうかな」
言いつつお風呂場へ向かう匠を見送ってから、キッチンに向かう。匠のことだから大丈夫だろうけど、念のためと確認すればキッチンは綺麗に片付いていた。それに安堵してから、寝室に向かった。
洗面所から持ってきたドライヤーをコンセントに差す。ぶおお、という音と共に生み出される温風で髪を乾かしていく間、頭に浮かぶのは取り留めの無いことばかりだ。
少し前に就いた係長という地位は、やりがいもあるし嫌なわけではないけれど、当然私の背負う責任も大きくなる。それを放り出してしまいたくなることがあるのは、私が未熟だからなんだろうか。
何かと問題が多かった新入社員の子達も、だいぶ戦力になってきた。どうかこのまま育って、うちの会社に残ってくれるといいんだけど。
でも、仕事で成功しても、両親はあまり良い顔をしてくれない。それよりも、早く身を固めて欲しいんだろう。でも、仕事を辞めて家庭に入るなんて、私にはきっとできっこないとわかり切っている。そもそも、どうこうなる相手が居ないし。……なんて、じゃあ今私の家で風呂に入っているあの男はなんなんだって話なんだけど。匠は誰かのものになるような男じゃないって、彼との付き合いの早い段階で気づいていたのに。でも、彼との今の関係に不満があるわけじゃない。私には、このぐらいの距離感で十分なんだから。そう自分に言い聞かせたのは、果たして何度目だろう。
ふと気づけば、指に通る髪はすっかり乾いていた。ドライヤーのスイッチを切る。鏡を見ながら髪を手櫛で整えて、ドライヤーのコードを片づける。なんだか、今日は余計なことばかり考えてしまうなと思った。
ああ、タバコが吸いたい。そう思ってタバコを取ろうと引き出しに手を伸ばしたところで、風呂場の方から音がした。匠がお風呂から上がったらしい。手が止まる。
風呂上がりだし、いくら残暑の酷い九月とは言え湯冷めしてしまっては良くないから。そういくつか理由を並べて自分を納得させようとしたけど、結局引き出しの中からタバコを取り出していた。
ちょうどそのタイミングで、がちゃりと寝室の扉が開かれる。顔をのぞかせたのは濡れた髪の匠だった。
「ああこっち居たのか。リビングに居ないからどこ行ったのかと思ってちょっと探しちゃったわ」
「ん、ごめん。鏡こっちにしか置いてないからさ」
「なるほどな」
言いつつ匠がこちらに近寄ってくる。さっき片付けたドライヤーを渡して鏡の前を譲って、タバコを持って立ち上がった。
「あれ、どうかした?」
「ちょっと一服。髪乾かし終わる頃には戻るから」
「あー、そう。分かった」
返事を聞き終わるより前に部屋を出て、灰皿とライターを持ってベランダに出る。タバコの箱から一本出して、火をつけて煙を吸い込んだ。この一連の行動が染み付いたのはいつ頃だっただろうか。仕事を始めてからなのは間違いないのだけれど。そんなことを考えながら、肺の中にあった煙を吐き出す。煙が夜の暗い空に広がっていくのを見届けてから、タバコの灰を灰皿に落とした。
タバコの煙をくゆらせて、ぼんやり夜の街を眺める。意識せぬままに再びタバコを口元に持って行った。
タバコを吸っている間は、余計なことを考えずに済む。頭が澄んでいくような、逆に濁っていくような。煙を吸って、吐いて。
気付けば、タバコはすっかり短くなっていた。いけない、のんびり吸いすぎてしまった。灰皿にタバコを押し付けて消して、リビングに戻る。灰皿とタバコ、ライターをリビングの机の上に置いて、寝室の扉を開ける。
ちょうど、目の前に匠が立っていた。驚いて一瞬固まる。
「お、戻った。ちょうど今、呼びに行こうとしてたとこだったから」
「ごめんね、ちょっとのんびりしすぎちゃった」
言いつつ二人でベッドへ向かう。ぽすんと腰掛けた私に対して、匠はベッドに上半身を倒した。
「匠?」
言いながら匠の方に体を向ける。気怠げに私を見上げた匠は、ゆっくりと私に手を伸ばした。彼の指先が私の指先に触れる。そのままつう、と手の甲から手首に沿ってなぞられて、それが少しくすぐったい。
「なに? どうし、わ」
言い切るより前に、手首を引かれてバランスを崩した。そのまま匠の上に倒れ込む。
「ちょっともう、いきなりなにするの?」
笑い交じりに文句を言おうとして匠の方を見ると、想像よりも近い距離に匠の顔があって少し怖気づいた。そんな私を見た匠が、少し口角を上げる。それが少し悔しくて、でも嫌では無かった。
「いや? せっかくだからあっためてあげようと思って」
「え?」
言われたそれがなんのことだか一瞬分からなかった。
「手、冷えてたから。体ちょっと冷やしたんじゃねぇの?」
説明するように続けられて、それでやっとさっきの私の問いに対する答えだったのだと気付く。
「そんなことないと思うけど……」
「あー、自覚無い感じ? ほら」
言いつつ私の手に匠の手が触れた。するりと指の間に匠の指が入り込んで、恋人繋ぎのような形になる。
「やっぱり、ちょっと冷てぇよ」
「えー、匠の手があったかいだけじゃない?」
笑いながら握り返してみれば、匠側からも柔く握り返される。たったそれだけなのに、それだけが少し嬉しかった。思わず口元が緩む。気づけば匠の反対側の手は私の腰のあたりに添えられていて、その手はいつもより温かく感じる。それが私の体が冷えているからなのか、匠が温かいからなのかは分からないけれど。
ぐい、と握られたままの手が引かれる。つられて顔が匠の方に寄って、そのまま口づけられた。驚きゆえに少し目を見開いて、それからそっと目を閉じる。触れるだけのそれは思ったより早くに離れて、少し名残惜しく思いながら目を開けた。すると、少し意地の悪い顔をした匠の顔が目に入る。
「なに? 物足りなかった?」
図星を突かれて、思わず黙り込んでしまった。それでも距離の近さから匠から目を逸らすことが出来ない。少しだけ視線を彷徨わせてから、再び匠に視線を戻す。彼は変わらず、意地の悪い顔でこちらを見ていた。それがなんだか悔しくて、思い切って自分から口づけた。匠と同じく触れるだけのそれを短く済ませて、匠の目を見て言う。
「うん。だから、もっと頂戴?」
少しの照れが滲んだのは、及第点ということにしておいて欲しい。
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