今はバリキャリの彼女だって、かつては思春期だったのだ

 数字が頭の中を巡る。足して、割って、計算を書いて。少しずつ答えに近づいて行く。もう少しで答えが出る、そんなタイミングだった。


「夏生ちゃん?」


 私の名を呼ぶ声が、思考を裂いて頭に入ってくる。その声には覚えがあった。机から顔を上げる。教室の入口に立っていたのは、予想通り姫宮匠だった。


「匠。どうしたの?」

「いや?まだ居るかなって思って教室覗いただけ。勉強中?」


 言いながら、彼は教室に入ってきて私の方へ近づいてくる。


「そう。明日、小テストがあるから、その範囲だけでも学校でやっちゃおうと思って」

「流石優等生。真面目じゃん?」

「普通よ」


 実際、進学校であるこの学校では、この程度のことをするのは普通である。

 会話を続けながら、彼は私の座る机の前の席に座った。椅子を正規の向きから90度傾けて、私の方に向かって座る。


「それに、アンタだって成績は悪くはないじゃない」

「悪くないってだけ。それに、ご存知の通り教師からの覚えは悪いし?」

「そりゃあ素行不良だからでしょ」


 そう、彼は素行不良で有名だった。主に、恋愛関係において。女生徒と付き合っては別れ、付き合っては別れを繰り返していたのだ。しかも、話を聞くところによると同時に複数人と付き合っていたりもしたらしい。本当に酷い。


「それに、今はそうでもないじゃない?」

「物好きな誰かのおかげでね」

「そりゃあどうも」


 皮肉に笑って返してやれば、匠はくつくつと笑った。



 私と彼は付き合っている。所謂恋人同士というやつで、携帯電話の番号やメアドも交換した。昼休みには一緒にお昼を食べるし、予定が合えば一緒に帰る。そんな、一般的な恋愛をしていた。……ただ、そのきっかけは、一般的なものでは無かった。


 私は、彼の手綱を握ろうとして、彼に交際を申し込んだのだった。



 正直に言えば、私は彼が嫌いだった。

 私は優等生だ。だから……というよりは、意識してそうしているからそうなのであるけれど、先生とも親しい。そのため、先生と愚痴交じりの雑談なんかもしていたりした。その中で、「姫宮匠」の名前は何度も聞いたことがあった。主に、悪い話で。


──姫宮匠、って知ってる?彼がさあ、すごい、なんていうか……女たらし、みたいな感じでさあ。彼と付き合って泣いた子が、たくさん居るんだよねえ。

──それだけならいいんだけどさぁ。やっぱり、恋愛に現を抜かすとさぁ、成績が落ちて行くわけよ。

──最近、彼と付き合った子が居るんだけどね。その子も、どんどん成績が落ちて行くの。ほんと、勘弁してほしいんだよねえ。


 教師にしては軽率なかの先生は、そんな風に彼を語っていて、私も「へぇそんな生徒が居るのか」なんて風には思っていた。少し前に、私の友人が彼の被害に合うまでは。


 彼女は、すごくいい子だった。私と同じで大人しめの子で、でもすごく夢見がちで、そんなところがかわいい女の子。入学したばかりの頃、席が近くで話すようになって気付けば学校で一番仲の良い子になっていた。

 彼女はいつも、「たくさん勉強して、有名な大学に入って、そこで夢のキャンパスライフを送るんだ」と楽しそうに語っていた。私は、そんな彼女を見るのが好きだった。

 だけど、彼女はある時を境に変わった。


──あのね、最近、気になってる人が居て~!


 私が気付いた時には、もう遅かったんだと思う。そう語る彼女は、夢を語る時よりも一層楽しそうで、きらきらと輝いた瞳をしていた。

 そうして、数か月。彼女は、勉強よりも「気になっている人」を優先するようになり、その「気になって居る人」はいつしか「彼氏」になった。そして、二か月程前、彼女は私の元へ来て泣いた。


──姫宮くん、私以外にも、付き合ってる子が居たの。私、それ、知らなくて……聞いたら、「だから何?」って、言って……。


 そう言って泣く彼女は、どうしようもなく沈んでいて、そして今でも沈んでいる。「別のことをしていると気が紛れるから」と言って勉強をまたするようになったけど、そうすればするだけ今まで落ちてきた成績を目の当たりにしてまた沈む。そんなことを彼女は繰り返して、そうしてまた泣くのだ。


 私は、彼女を見て、先生の言う「泣いた子」を初めて目の前で見て、思ったのだ。


 そんなクソ野郎、死んでしまえ、と。


 ……ただ、実際にそんなことが叶うわけもない。だから、現実的な方法を考えた。


 私が彼と付き合って、彼の時間を奪えばいい。そうすれば、その分「泣いた子」は減る。


 そう思って、私は彼に交際を申し込んだ。先生方はそれをどこからか聞いて驚いていたし、なんなら失望したような目で見られもしたけど、それでも良かった。

 ただ、あの子のような子を少しでも減らしたかった。


──付き合ってください。


 そう言った私に対して、彼は驚いたように目を瞬かせて、そして言った。


──いーよ。じゃ、さっそく今日から一緒に帰ろっか。


 あの日からだいたい一ヶ月。私と彼──匠は、恋人同士として時間を過ごしている。



「そういやさー」


 ふ、と匠の声で意識が戻ってくる。いけない、考え込み過ぎてしまった。私の悪い癖だ。軽く頭を振ってから、「なに?」と聞き返す。


「科学の先生、いるじゃん?うちのクラスと夏生ちゃんのクラスの科学担当してる」

「ああ、佐藤先生ね」

「そーそー」


 聞きながら、意識を数学の問題に戻す。ノートの自分で書いた文字を追って、さっきまでの自分の思考を手繰り寄せた。ああ、そうだ。もう少しで答えが出るところだったんだった。

 そういえば、佐藤先生ってちょっと前まで良く私が愚痴を聞いてたあの先生だよな。手を動かしながら思う。


「あの先生がさぁ、最近すげえ俺のこと睨んでるくるの。なんでだと思う?俺なんもしてないんだけどなぁ」


 それを聞いて、思わず笑ってしまった。


「えっ、なに?なんで笑ったの今」


 その問いに、半笑いになりながら答える。


「いや、少し前までその先生とよく雑談してたから。そのせいじゃないかなぁ」

「へーえ?仲良かったの?」


 やや不貞腐れたように、匠が聞いてくる。でも、それはポーズだと分かっていた。


「いや、内申点欲しくて付き合ってただけ」


それでも、できるだけ機嫌を損ねないような答えを返す。それは正解だったようで、「ははっ、流石優等生じゃん」なんて匠が笑う。それに笑い返してから、また視線をノートに戻した。さらさらと手を動かして、頭の中では既に求めることが出来ていた数字を書く。最後に、しゃっと音を立てて横棒を引いて、そこが答えですよと示した。


「あとどれぐらいで終わんの?それ」

「んー……」


 聞かれたそれに応えるべく、ぱらぱらと教科書を捲る。小テストの範囲を示す付箋が出てくるまで捲って、さっきまで開いていたページから合わせて摘む。


「これくらい」


 そう言って見せれば、匠は「げっ」と言って分かりやすく顔を顰めた。


「それ全部?」

「いやまあ、全部と言えば全部だけど……一通り問題解くだけだから、実際はもっと少ないよ」

「へーえ」


 聞いた割に興味が無さそうに言う匠から、再び視線をノートに戻す。次いで、教科書のページを捲って次の問題へ視線を滑らせる。ノートに問題番号を書いて、さて問題を解こうか、としたところでノートの上に黒い塊が乗った。やや驚いて、一瞬それを凝視してから気付く。これ、匠の頭だ。


「ちょっと、邪魔。頭どけて」


 そう言い放てば、「やだー」とやけに子供っぽい声色で返ってくる。それに一つため息を零した。


「子供じゃないんだから」

「俺達まだ子供じゃん」

「そうじゃなくて。分かるでしょ?」


 諭すように、意識して柔らかい声色で言う。そうでないと、声が鋭くなってしまう気がしたから。普段から勉強してるから大丈夫だとは思うけど、それでも明日の小テストはできれば満点を取りたいのだ。

 ずり、彼の伏せられた頭が向きを変えてこちらに顔が向く。それに合わせて彼の髪がさらりと机に落ちた。


「だって、夏生ちゃん構ってくれないから」

「しょうがないでしょ、明日小テストだって言ったじゃない」


 言って、頭を無理やり退けようとしたけど、思った以上に重くて動かなかった。そう言えば、頭ってすごい重いんだっけ、なんてどうでもいい知識がふと脳裏をちらつく。

 どうしようもなくて、その頭を撫でる様に手を動かした。さらりとした髪は、手で触れるとその通りにくしゃりと歪む。

 そうすれば、匠が小さく笑うのが髪の隙間から分かった。


「何?」

「別に~?」


 首を傾げてそう問いかければ、ややにやついた声色で返ってくる。それにまた一つため息を返して、「いいから頭どけて」と言いながらぐいぐいと頭を押した。

 少しすれば、飽きたのか、それとも別の何かを思いついたのか、匠が頭をノートからどけた。私の苦労はなんだったのか。思いながら、問題を解くべく改めてペンを持つ。

 教科書を読みこんで、問題を頭の中で移しながらノートに問題を書いていく。問題を書き終えたら、次はそれを解くだけだ。よし、と意気込んだところで、ぽんと頭に何かが乗った。一瞬、何が起きたのか分からなくてきょとんとする。

 視線をノートから上げれば、私の前に座る匠が、私の方へ向けて手を伸ばしていた。それで、ああ今撫でられているのか、とやっと状況を理解する。


「なに?どうしたの?」

「いやあ、夏生ちゃんは頑張ってるなあって思って」


 そう問いかければ、彼は何人も女の子を泣かしているとは思えないような顔で笑って言った。それに、一瞬絆されそうになる。……いけない、私まで二の舞になるわけにはいけないんだから。


「別に。将来楽したいだけよ」


 意図して視線を逸らして、そうすべなく返す。


「それでもさ、そのために今頑張れるってすごいことだと思うよ、俺は」


 なのに、匠からの言葉は妙に暖かくて、なんだか思わず泣きそうになった。それをどうにか飲み込んで、どうにか頷く。


「……ありがと」


 そう呟くように言えば、匠は「別に~?俺、お礼言われるようなことしてねぇよ」なんて軽く返した。

 そっと、視線を匠からノートへ移す。勉強に集中するふりをして、無理やり手を動かした。


 ああ、だめだって分かってるのになぁ。どうして、この人の傍に、もっと居たいなんて思ってしまうんだろう。


 だめだって、分かってるのになぁ。


 自分に言い聞かせながら、頭と手を動かす。今勉強に集中しようとするのは、一種の現実逃避だと分かっていた。


 ……だめだって、分かってるのになぁ。


 自分の中で芽を出そうとしている感情に、こんなもの知らないと蓋をした。

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