第24話
小説が完成したら、彩音は消える。
それは死ではない。物語への旅立ちだ。
しかし、今生の別れであることには変わりない。
彩音とはこれまで4か月程度の期間を一緒に屋根の下で過ごしてきた。彼女との別れは、想像するだけでかなりキツい。
小説は完成させるし、途中でやめる気は微塵もない。だけども、やはり、彩音が消える事実に対して、心構えができていなかった。
そんな心持ちのせいか、そもそも筆が遅いだけなのか、彩音の物語がエピローグに突入するころには、すっかり季節は変わり果てて、11月中盤。新緑の葉は、乾いた紅葉へと変わり、地面へと朽ち落ちてしまった。並木通りの枝に葉は一枚も残っていない。
「起きろ!」
朝、彩音に布団をめくられる。温く心地よい感覚は一瞬にして冷気に変わり、学校へ行きたくないな、という気持ちが体を重くさせる。
「朝ごはんできてるから、早く降りてきなさいよ」
そう言い残すと、彩音は部屋から出て行った。
制服に着替えて、一階へ降りると、食卓には朝食が並んでいた。
焼いた鮭の切り身。豆腐の入ったみそ汁。白米。納豆。和食って感じの朝食だ。
それを見て、俺の感情にはなんの起伏も起きなかった。もはや、それらは当たりまえの光景だった。
「あとどんぐらいで小説は完成するの?」
あくびを噛み殺しながら、納豆をかき混ぜていると、彩音が嫌な質問をしてきた。
「まあ、あとちょいかな……」
「本当? 一ヵ月前もそう言ってたじゃない」
「小説を書くのは大変なんだよ」
終盤に突入して、かれこれ一ヵ月程度経っている。
「完成させちゃってよ。待ちくたびれた」
「簡単に言ってくれる……」
俺はため息を漏らしながら、かき混ぜた納豆をご飯の上にかけた。
完成したら、俺と彩音は今生の別れを迎える。彩音は知っているはずだ。詩織が別れを説明したとき、あの場に彩音もいた。なのに、急かしてくる。彩音にとって、俺との別れは、それほど重大ではないのかもしれない。
いつか訪れる、朝食が用意されない未来。
それを思うと、俺は憂鬱な気分になった。
「響、大丈夫かい?」
隣を見ると、晴樹は心配そうな顔をしていた。
「なんだか、疲れきった顔をしているよ」
朝、登校中に晴樹と一緒になった。彼は俺の顔を見るなり、声をかけてきた。
「流石、彼女がいる男は気遣いができるねぇ~~」
俺が茶化すと、晴樹は照れくさそうにはにかんだ。
晴樹と高橋は、夏休みに正式に付き合ったらしい。高橋の前では、緊張して喋れなかった晴樹が、思い切って告白したたのだとか。人間変わるものだ。
「彩音ちゃんのこと?」
晴樹は鋭かった。
「僕、考えていたんだよ。小説を完成させたら、彩音ちゃんはどうなるのか」
「……彩音は消える」
俺の答えに晴樹は絶句した。
「なんだって、それは本当かい?」
「いや、消えるとは違うか。物語へ旅立つ、と言った方が正しいか」
俺の訂正に晴樹は要領を得ない顔をする。
「……難しい話は、よくわからないけど、別れは寂しいね」
つまるところ、そういうことだ。
別れは、辛いし、寂しい。
放課後、図書室にノートPCを持ち込んで執筆に励む。
俺が書く物語は、ほふく前進のようにゆるやかなペースではあったけど、確実に「了」へと向かって突き進んでいた。
打鍵していた指が止まる。いなや、バックスペースキーを長押しして、書いた文章を一掃。
「迷っていますね」
対面に座る詩織がポツリと言った。相変わらず、文庫本を読んでいる。
「なかなか満足できる文章が書けなくてさ」
残るはエピローグ部分のみ。短くスパッとした終わり方を目指している。残りの文量はあまり多くない。書き上げようと思えばすぐにでも完了できる。
だが、どんな言葉も正解に思えなくて、悩んでいた。書いては消す、を繰り返している。
「文章に正解なんてないですよ先輩」
どこかで聞いたような言葉で、なんら参考にはならない助言であった。
「まあ、そりゃそうだろうけど、正解はなくとも、納得できる文章が書きたいんだよ」
書き終われば、彩音とはさよならだ。生半可なクオリティにはしたくない。目指すのは最高の結末だ。長編超大作映画を見たあとのエンドロール。そんな読後を体感できるようなエピローグを俺は目指していた。
「お気持ちは察します。ただ、上手い文章を書こうとしても、決して書けませんよ」
「そりゃ、そうだろうけど、ハッキリ言わなくても……」
「いえ、先輩に文章力がないという話ではなく、なんというか……、安易な言い方をすれば、肩の力を抜きましょう、という話です」
よくわからない。
「これは持論なのですが、文章は鏡です。筆者の魂が、文章に乗り移るのです。これはただの比喩ではありません。私には私の、先輩には先輩の文章があるのです。夏目漱石や太宰治には、先輩の文章は書けません。なぜなら魂は一つだからです」
「つまり、何が言いたいんだ」
具体的な方法を俺は知りたかった。
「上手くやろうとせず、気持ちそのままに文章を書けばいいのですよ。物事に完璧はありません。故に納得することは不可能です。仮に書き上げた文章に満足したとしたら、不備を見落としているだけです。じゃあ、どうすべきか。この世界に唯一無二の文章を書き上げるしかないと、私は考えます。誠意を尽くせば、魂は文章に乗り移ります。途中で間違っているように感じても、文字を打つ指が迷って止まりそうになっても、突き進んでください。書き上げなければ、作品は永遠に完成しません」
「…………それは難しそうだ」
俺は苦笑してしまう。
「先輩ならやれますよ。なにせ、この世界の主人公なのですから」
その日の夜、
彩音と一緒に映画を観たあと、自室でノートPCと向き合う。
詩織の言葉に俺は実直に従った。間違いだと感じても、突き進んだ。怖くても、迷いそうになっても、打鍵を続ける指を止めはしなかった。
そうして、物語は、最後の一行へとたどり着いた。
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