第23話

 夏休み入って、四回目の小説教室。その日がやってきた。

「詩織ちゃん、来ているといいね」

 玄関で見送る彩音が、俺に向かってそんなことを言った。

「いないだろ。あの感じじゃ」

 一週間前、詩織を説得したときの光景を思い出す。

 俺らはあの日、泣きじゃくる詩織を置いて、退散した。説得は無理だと判断した。

「そう思うなら、わざわざ学校へ行かなくてもいいじゃない」

「そりゃ……そうだけど、薄かろうが希望を信じてみたいだろ」

「来るよ。詩織ちゃんは絶対に来る」

 彩音はそんな無根拠なことを言って「いってらっしゃい」と手を振った。


 図書室へ着くころには、道中、殺人的な暑さに晒されたおかげで、疲弊していた。相変わらずクーラーの効いた図書室は天国のようで、中に入ると救われた気分になった。

 はたして、詩織はいるのだろうか。彩音には「いないだろ」と言ったのに、いつの間に自分は期待していた。

 普通に考えて、詩織はいない。きっと、今もマンションの一室にいるはずだ。

 もし、いなかったときにそなえて、そんな予防線を張る。

 だが、その必要はなかった。

 奥へ進むと、テーブル席に詩織はいた。

 文庫本を読んでいた。

 心の片隅で期待していた光景が、目の前にあったのにもかかわらず、喜びよりも混乱が上回っていた。どうして、彼女はここにいるのだろう。そんな疑問が頭を満たした。

 唖然として、立ち尽くしていると、詩織の視線が上がった。

 相変わらず無表情であったけど、それは偽物で、本心を隠すための無表情であることに、俺は気づいた。これまでの関係性を証明するような気づきであった。

「お久しぶりです」

「あ、ああ。一週間ぶりだな。あの時は悪かったな。いきなり訪問して」

「いえ」

 なんだか気恥ずかしい。照れてしまう。

「小説、続けるのか?」

 半ば反射的に俺は聞いていた。

 詩織は「別に先輩の言葉に左右されたわけではないのですが」と前置きをしてから、こういった。

「これからも、小説をめちゃめちゃ書いていきます」

 グワッと、詩織の姿を一瞬だけ大きくなった。既視感がある。

 初めて書店であったあの日の光景と重なったのだ。

 約三か月前の出来事なのに、ものすごく昔の出来事に思えてくる。

 あの時と同等の熱気を彼女から感じ取ることができて、俺はなんだか嬉しくなって、笑った。

 そんな会話のあと、第四回小説教室は開催された。だが、教室とは名ばかりで、この日、詩織から何も教わらなかった。俺は持参したノートPCに文章を打ち込み、詩織はひたすら本を読み続けた。

 集中が途切れて、ふと顔を上げると、相変わらず詩織は本を読んでいた。その姿を見ると、なんだかもう少しだけ頑張ろう、とやる気が込み上げてきた。

 居心地が悪いとか、良いとか、そういう類の話じゃないけど、小説という共通点を持つ二人が、同じ時間と空間を共有することで、互いのためになっているような気がした。


 日が傾いて、ある程度暑さがマシになった夕暮れ時。俺と詩織は並んで帰路を辿る。……のだが、まるで会話がない。気まずい。詩織はスンとした表情で前を向いて歩いているけど、俺はどうにも、蝉の鳴き声が支配する沈黙がキツくて俯いていた。

図書室での沈黙は苦にならなかったのに、今はキツい。

 これまで詩織と幾度も会話を交わしたはずなのに、どんな話題で会話したのか、思い出せないでいた。詩織から話題を振るなんてことは、ありえない。俺が話しかけない限り、この沈黙は続くだろう。なにか話題はないかだろうか。考えろ、俺。

「先輩、一つ、お話したいことがあります」

「え、あ、おう」

 ありえない、が起こって、俺は狼狽えてしまう。

「あまり明るいお話ではないのですが、でも、先輩には話しておきたい事柄でして」

「なんか怖ぇ前振りだな」

「彩音さんとの別れの話です」

 本当に明るい話ではなかった。

「俺が作品を書けば、彩音は消える。それだけのことだろ」

 俺はどこか強がったような気持ちで、早々にこの話を終えるために、結論だけを言った。詩織は「確かにその通りですが……」と話題を継続させた。

「どの段階で消えてしまうのか、を先輩には知っておいてほしいのです。別れるタイミングがあやふやでは、さよならも言えないでしょう」

「…………」

 確かにその通りであった。別れるタイミングは知っておきたい。

「あ、彩音は、いつ消えるんだ」

 声が震えた。もしかしたら、今やっと初めて、彩音が消える事実を受け入れたのかもしれない。

「小説の完成。完成原稿の文末に『了』と書いた瞬間です。私の時がそうでした」

 詩織が遠い目をする。その時の情景を思い出しているのだろう。

「消えてしまえば、それはすなわち今生の別れとなります」

「ああ、知っているよ」

 俺はぶっきらぼうに答えた。詩織の忠告は、彼女なりの優しさではあったのだろうが、その優しさに気づけなかった。どこかうんざりしたような気分で彼女の言葉を耳に入れていた。

 うるせぇ。

 いちいち説明するな。

 わかっているさ、そんなこと。

 そのような気持ちが心をざわつかせた。

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