第22話

 ピンポーンと、家のチャイムが鳴る。

 白鳥詩織は嫌な予感を覚えた。モニターで訪問者を確認する。画面には響が映っていた。詩織は、すぐに無視することを決断した。

 今日は木曜日、小説教室の日。詩織は覚えていたが、あえて行かなかった。響に会えば押さえつけている衝動が暴れまわりそうだった。だから、行かなかった。

 小説を書きたい衝動。

 それは、日焼けのようにヒリヒリと肌にまとわりついてくる。気を紛らわせるために、勉学に励む。欲求を消すために、計算式を解く。勝手に物語を構成する思考を英単語を覚えることで紛らわせる。偉人の歴史は、キャラクター造形に役立ちそうだ、と思い至るが、単語を覚えることで思考に蓋をする。

 フラストレーションが溜まる。我慢の限界がくる。

 詩織はおもむろに立ち上がると、本棚へと向かう。本へと手を伸ばすが、途中で止める。煩悩を払い落とすように首を横に振ると、再び勉強机に戻る。

 そうこうしていると――

 ガタッとリビングから物音がした。詩織はなんだか不穏な気配を感じ取って、筆箱からカッターを手に持つ。万が一のための武器だ。

 自室のドアを静かに開け、廊下を探る。すっかり日が落ちて、暗い廊下。詩織の恐怖心を煽る。ゴクリと喉を鳴らす。

 よくよく耳を傾けてみると、リビングから話し声が聞こえてきた。声がぼんやりとしていて、内容まで聞こえないが、どうやら男女の会話のようだ。リビングに人がいるのは決定的だった。スマホで警察を呼ぶこともできたが、それはしなかった。聞き覚えのある声だったからだ。

 カッターを構えることをやめ、リビングの扉を開ける。不法侵入者、男女二名はギョッとした顔でこちらを見る。

「……何をしているんですか、先輩、彩音さん」

 響と彩音であった。

「よお、詩織。夜分にごめんな」

 響は片手をあげて、挨拶をする。

「勝手にお邪魔してるわよ」

 彩音はとくに悪びれていない調子で言う。

 どうやって入ったのだろうか。ここは14階。まさか、窓から入ったわけもあるまい。

「彩音の力で瞬間移動したんだ。ちょっと説明が難しいんだけど、彩音にはそういう能力があるんだ」

「は、はあ……」

 説明になっていないし、納得もできない。だが、とりあえず今は受け入れることにした。方法はどうでもよかった。今重要なのは――

「先輩は、なにしにここへ、来たのですか?」

 どうして、響が自分の元へ来たのか、だ。

「説得しに」

 覚悟を決めたような顔で、そんなことを言った。

 反吐が出る、という言葉の意味を、詩織はこの瞬間理解した。

「消えてください。先輩に説得されるような覚えはない」

「小説、続けろよ」

「私が何しようと、私の勝手でしょ。先輩には関係ない」

「だったら、俺が説得しようと、俺の勝手だ」

 素直に面倒な回答。引くつもりはないらしい。

「言いましたよね。私は神の思い描くままに動きたくない、と。主人公である先輩が、私に説得しに来たってことは、きっと、この説得は成功する。それが定番ですからね。だから、絶対先輩の言葉に屈するわけにはいかないのです」

「運命に抗うってやつか。でも、抗ったところで幸せになるわけじゃないだろ。書きたい小説を我慢して、詩織が損するだけじゃないか」

「少なくとも、操り人形という最大の損は避けれます」

「でも、未来は限定される。小説を書く、という選択肢が失う」

「小説を書いても、未来が明るいわけじゃないでしょう」

「後悔は減るかも」

「後悔なんてしないですよ。これまで小説に費やしてきた努力を、明るい未来のために、使っていきます」

「詩織の考える、明るい未来ってなんだよ」

「………………いい大学に入って、一流企業に就職して、結婚……とか」

 詩織に隙が生まれた。

 己が持つ幸せの形が貧困であることを、詩織は初めて知った。今しがた己の口から出た幸せはいわば定型句で、本当にそのような未来を望んではいない。

「詩織、この世界が物語だからって、俺らの人生が誰かのものになるなんてことはないんだ」

 響は詩織を説得するために考えてきた論理をとうとうと語りだした。

「シナリオがあって、俺らが動く。詩織はそういう考え方をしているけど、逆の可能性だってあるじゃないか」

「逆の可能性?」

「俺らが動いて、別の世界の作者が、その電波? 波動? みたいなものを読み取って、シナリオを書かされているという可能性だ」

 それは、一見おかしな論理だったけど、詩織には身に覚えがあった。

 アイデアが降ってくる。そういう瞬間がある。構想を練ろうと、頭を捻っているときよりも、移動中やボーっとしているときに、不意に来ることが多い。それは「思いついた」というより「降ってきた」の方が言葉として正しい感覚だ。

 別の世界から、その波長を自分が受け止めた、というのは、その降ってくる感覚を知っている詩織にとって、あながち馬鹿にできない仮説だった。

 小説を書いていて、書かされているな、と感じるときも、ままある。

 そういう経験があるから、響の論理を詩織は自然と納得できた。

「この世界は物語で、俺が主人公で、詩織が脇役だったとしても、俺らの人生は個々にあって、不変的に自分のものだ。物語で言えば、たぶん今が山場だ。起承転結の転。この展開が終わって、もう少ししたら、結末を向かえる。長い人生から見りゃ、物語の期間なんて、一瞬の出来事だ。そんな一瞬の出来事のために、見えない神なんかのために、詩織の人生を限定させる必要はない」

 響の言葉はナイフのように鋭利で、詩織の心に深く刺さった。強い説得力に、詩織は屈しそうになる。だが、どうしてだろうか、反抗せねば、という気持ちが心の根底にある。

 響の言葉を認めてはならない。

 詩織は何か言い返さなければ、と思ったが、言葉が口から出てこない。頭は混乱するばかりで、いつのまにか目からは涙が溢れてきた。

「わ、私は、物語の中のキャラクターで、す、小説を好きなのも、設定で、く、あ、それを考えたのは、作者である神様で…………神様は、お父さんとお母さんを殺していて……」

 響の言葉を否定できない理由。それは響の言葉を肯定してしまえば、両親の死をどう受け止めていいのかわからなくなるからだ。

 両親の死は偶然、運が悪かっただけ。

 そう思うよりも、

 両親を殺したのは、神だ。

 と思う方が幾分か楽になるからだ。明確な怒りの矛先があったほうがいい。

「許せないのです。両親を殺した神が、憎くて、憎くて、仕方がない。私が小説を書く行為は、設定どおりに動くこと。……神の思い通りには動きたくはない」

 詩織の膝は崩れ、子供のように泣きじゃくりはじめた。

 もう、混乱の極みだった。何が正解で、何が不正解なのか、わからなかった。

「……そうか」響はそう答えるので精いっぱいだった。

 薄々詩織の両親がいないことには気づいていた。先ほどの言葉でそれが明確になった。

 もう、響が踏み込める領域ではなかった。

「勝手な俺の願望だけど、俺は、詩織に小説を続けてほしい、と思ってる」

 そう言い残すと、響と彩音は、リビングから消えた。

 目の前で消えた二人。それに驚くことなく、詩織は延々と泣き続けた。

 もしかしたら、久々に泣いたかもしれない。思えば、両親が死んでから、泣いてなかった。


 涙が枯れたころ、流石に混乱はなくなり、思考する余裕がでてきた。

 おもいっきり泣いたせいか、冬の夜空みたいに、頭は澄んでいる。

 響の言葉を頭の中で繰り返してみる。

――物語が終わっても、人生は続く。

 それは正しい言葉のように思えた。

 それに、神に対抗して、自分のやりたいことをやらない、という行為は、一見。我を通しているようで、実は違うのではないか、と思えてきた。

 結局のところ、神の思惑通りに動かない、という時点で、神に影響されている。一番神に影響されない生き方は、神を無視して、己の衝動赴くままに動くことなのだ。

 つまり、この世界が物語だろうが、神が操っていようが、考えるだけ無駄なのだ。

 両親は死んだ。偶然で死んだ。

 そこに神の操る糸が関与していたとしても、死んだ過去は揺るぎない。

 過去は変えれないが、未来は変えられる。

 よく聞く定型句だが、詩織はその通りだな、と思った。

 過去に引っ張られて、駄目な方向へ向くのなら、ある程度は、過去を切り捨てる必要があるのかもしれない。

「ふふ……」

 なんだか、笑えてきた。

 理論を並べて、難しく考えているけど、自分はただ単純に小説を書きたいだけ、なのだ。思考も論理もその方向へと持っていこうとしている。

 遠回りをしたけど、答えは最初から決まっていた。

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