第20話
今年の夏休みは、ひどく長く感じた。
一回目の小説教室以降、俺は「どうすべきなのだろう」と己に問い続けた。無論それは詩織に対してだ。正解のない問いは、考えれば考えるほど、ドツボにハマる。
思考は存在しない答えをさまよい求め、目的地がないゆえに、いつしか迷う。明確な答えがないから、同じようなところを延々とループする。それは「考える」ではなく「悩む」になり、結局答えは出てこず、残るのは暗い気持ちと疲労だけだ。
あれ以降、彩音との関係もギクシャクしていた。彩音は俺を諦めているような気配があった。
だが、仲違いしていても、同じ家に過ごしている以上、強制的に顔を合わせなきゃいけない。
「ごはんできたよ」
「ああ」
そんな最低限の会話が、俺ら二人の関係を途切れる寸前で保たせてくれていた。
彩音ともそうであれば、詩織ともそうだった。
二回目の小説教室は、一回目よりも行きたくはなかった。週末明けの学校へ行きたくない気持ちを鍋で100時間煮詰めて、塩と胡椒、洗剤を混ぜ合わせたような……あまりうまい比喩表現を思いつけないが、とにかく行きたくなかった。
彩音は留守番だ。そもそも俺らの間に距離ができすぎて、二人で出かけるなんて、できなかった。俺一人で図書室へ向かうと、詩織に変化があった。
いつもなら詩織は文庫本を読んでいる。だが、机に広がっていたのは、勉強ノートと教科書だった。「どうしたんだよそれ」と言及すると、詩織は、こう答えた。
「もう小説は書きません。学生の本文は勉学。それだけのことです」
俺はなんだか悲しい気分になった。
「心配しないでください。今まで通り、小説の書き方は、教えますよ」
別にそんなことを心配しちゃいない。小説を書くより、勉強をするほうが健全な道だ。それはわかっている。じゃあ、この心に広がる苦い気持ちはなんだろう。詩織が文庫本を読まず、勉強している姿を見ると、嫌な気持ちになった。
やはり俺は、心の根の部分で、詩織に小説を書いてほしい、と願っている。
でも、詩織の未来に干渉するのは、駄目な気がした。自分の言葉がきっかけで、再び小説家を志したとして、それで失敗したら……。取り返しがつかない。
それに詩織は、俺が思うほど、小説が好きじゃないのかもしれない。
俺が思っていた白鳥詩織は、小説至上主義。小説を書かない人生を歩むなら、すぐに自殺してしまうような、ぶっ飛んだ人物を想像していた。
実際の白鳥詩織は、成功の見込みがなければ、簡単に小説を諦めるリアリストだった。
だったら、別に小説じゃなくても――。
「順調ですか?」
ふと、声が降ってくる。顔を上げると、詩織が真顔で俺を見ていた。
「手が止まっているようですが」
言われて俺は手元を見る。ノートパソコンを叩かなければならない手は、中途半端なパーの状態で固まっている。思考のタスクは悩みに過半数を奪われており、執筆どころじゃない。
言うべきか一瞬迷ってから「小説、本当にやめるのか?」と言ってしまった。口が勝手に動いた。失敗した、と思ったが、口火を切ってしまったからには、後戻りはできない。もう正直に喋ることしにした。
「迷惑な話だろうけど、俺は、詩織に小説をやめてほしくない、と思っている。もう、小説は好きじゃないのか? それとも、もともと小説は好きじゃなかったのか?」
いつの日か「めちゃめちゃ書きます」と言った詩織を思い出す。冷淡ではあるものの、強く芯のある声。ギラギラした目。あの情熱は消えてしまったのだろうか。
「先輩が悪いわけではありませんが、先輩に言われると、腹が立ちますね」
彼女から放たれる気配は、まぎれもなく敵意だった。
「私が小説を好きなのも、めちゃめちゃ小説を書いてきたのも、神が決めた設定にそう書かれているからです。小説を書きたいですよ。私はそういう設定なのですから。でも、もう、神の思惑通りに動きたくない。欲求に流されてしまえば、憎き神の操り人形に成り下がる。それだけは絶対に嫌なのです」
「でも、詩織は小説が好きなんだろ?」
「そういう設定ですから」
「それでも、詩織が小説を好きなのは、変わりないじゃないか。それに操り人形じゃない。詩織にはちゃんとした自我があるだろ」
「だからこそ、神に反抗しています」
「自分の気持ちにも反抗していないか?」
詩織の眉がピクリと跳ねる。
「……小説上の登場人物って、そんな簡単に扱えるものじゃないだろ。思い通りに動かそうとしても、勝手に行動したり、思いがけない言葉を発したり、キャラクターは、ただの操り人形じゃない」
頭に浮かぶのは彩音の顔。彼女がまさにそうだ。じゃじゃ馬。
一時期思い通りに動かそうと、自分の都合のよい設定を重ねた時があったけど、その時の彼女には人間味はなかった。詩織には人間味を感じる。
「詩織は、この現実を生きている。神が嫌いなら、神なんか無視して、自分のやりたいように生きるべきだ。じゃないと、損する」
夏休みに入ってからの悩み。「どうすべきなのだろう」の答えは、この問答の中でハッキリした。詩織は「小説を好き」と言った。「小説を書きたい」とも言った。だったら、続けるべきだ。せっかく好きなものがあるのに、それを追わない人生なんて、勿体ない。
詩織は下唇を噛み、俺を睨む。
これまでの小説教室で、詩織とはそれなりに親しくなったと思う。いや、親しいとはちょっと違う。最初にあった警戒心が消えていった、と言った方が正しいかもしれない。餌を上げようとしても、よりつかなかった黒猫が、粘り強く接することで、寄り付いてくるようになった。そんな感じの関係性だ。そうやって、彼女の警戒心が薄まっていく過程が、正直楽しかった。
だからこそ悲しい。
親の仇でも見る双眸が、ただただ悲しい。
「帰ります」
詩織はスクッと立ち上がると、風のような勢いで図書室から出て行った。
追いかけてもよかったが、再び敵意を向けられるのが嫌だった。俺の足は動かなかった。
夜、俺と彩音はソファにて、横並びに座っている。寝る前に映画を一本見る習慣は、仲がギクシャクした今でも続いていた。今日はアニメ映画を観た。女子高生の主人公は、夏休みに不思議な体験を経て、一つ成長する。そんな映画。
本編が終わり、エンドロールが流れる。クレジットが流れる画面の片隅に、ワイプが出てくる。そこに本編のその後の映像が流れだした。物語の続き。
それを見て、俺は、ふと当たり前のことに気付いた。物語が終わっても、キャラクターの人生は続くのだ。本編が終われば、作者からも視聴者からも解放された、自分だけの人生が待っている。
ならば、なおささら詩織の行動は駄目だ。
作者は人生の一部には関与してくるけど、全てじゃない。人生はこれからだ。平均寿命は80歳らしいから、俺らの余生はまだ60年以上ある。それなのに、神への反抗に比重を置いて、自分の欲求に蓋をして、未来の選択を限定するのは、良くない。
詩織の考えを改めさせる必要がある。
説得が必要だ。
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