第19話

 夏休みの期間、小説教室は毎週木曜日に図書室で開催されることになった。夏休みは約一ヵ月。つまり、詩織と図書室で集まる回数は四回ってことになる。

 正直、詩織に会うのは嫌だった。どういった顔で接すればいいのか、わからなかった。

 理由は、俺が主人公って事実に関係がある。

 俺が主人公であれば、詩織は脇役となる。脇役には主人公を立てるため、もしくは変化を促すための「役割」が与えられる。おそらく、詩織に与えられた役割は、俺に小説を教えることだ。詩織はこれまでめちゃめちゃ書いて、めちゃめちゃ読んできた。それらの努力は、俺に小説を教えるために行ってきた、と言っても過言ではなくなる。己が為の努力が、実は他人のためにあったなんて、受け入れがたい話だ。なんというか、自分の存在の意味を問いたくなるような事実だ。

 物語に触れて間もない俺がそのこの考えにたどり着いたのなら、きっと詩織もたどり着いている。

 詩織に対して、罪悪感に似た申し訳ない気持ちが込み上げてくる。

 彼女の目を見て、話せる気がしない。

 しかし、嫌なイベントが待っているからとて、時間が止まることはない。

 諸行無常に時はよどみなく進み、俺は夏休み最初の木曜日を迎えた。。

 

 強い日差しが照るなか、汗をぬぐって、暗澹たる気分で学校へ通ずる道を歩く。歩きなれた道のりだ。体力的には問題ない距離なのだが、暑さのせいで息が上がる。こんな思いまでして顔を合わせたくない人物に会いに行くなんて変な話だ。

「暑いぃ~~~~死ぬぅううう~~~」

 一歩後ろを歩く彩音が項垂れる。彩音は八秒に一回くらいのペースで「暑い」と言う。

 ただひたすらに「暑い」と文句を吐く彩音を俺は無視し続けた。「暑い」と言って、涼しくなるのなら、俺も「暑い」と言うが、「暑い」という言葉を聞けば聞くほど、「暑い」感覚が強くなるので、俺は「暑い」と言わなかった。


 やっとの思いで、クーラーの効いた図書室にたどり着く。涼しい空気が、肌にまとわりついた熱気を洗い流してくれる。むわっとした嫌な気分は一掃され、スッと爽やかな気分となる。

 涼しさのおかげで、一瞬だけ頬が緩んだが、詩織と会わなきゃいけない事実を再認識して、下腹部が重くなる。

 入口付近で悩んでいても仕方がない。意を決して奥へ進むと、詩織はいつもの長机にて、文庫本を読んでいた。

「よお、詩織、今日は暑いな」

 俺が適当な挨拶をすると、詩織の落ちていた視線が俺に向かって上がる。

「こんにちは、夏のだから暑いのは当然じゃないですか」

 涼しい顔をして、詩織はそう答えた。

「詩織ちゃん、そんな受け答えしていたら、友達できないよ」

 彩音は心配した顔をするが「友達なんて、私にとって不要な存在なので、問題ないです」と受け流した。彩音は「そうですか」とげんなりした顔で答える。

 俺はその受け答えを見て、安堵した。詩織はどうやら通常運転らしい。

 自分が脇役だと知って、気落ちしているかもしれない、と思っていたが、心配無用だったみたいだ。

 過去、執筆のため、パソコンと向き合う詩織の背中を思い出す。原稿が床を支配する部屋で、マシンガンの如くキーボードを打鍵し、文字を積み重ね、物語を編んでいく詩織の姿。

 彼女は強いのだ。自分の立位置が世界のどこに属していようと、小説へ費やす情熱に変化はないのかもしれない。流石だな、と心の中で感心する。

 彼女の偉大さを感じると、どうしてだろうか、嬉しくなった。

「今日も小説教室、よろしくたのむぜ」

 そう俺が促すと、詩織は頷いた。


 その日の小説教室は、主に、俺が書いた文章の添削だった。ノートPCを持ってきており、テキストファイルを詩織に見てもらい、その場で修正していく。

 そうやって、あっという間に夕方まで時間は進んだ。

 小説教室が終わって、外に出るころには、日が沈みかけていた。そのおかげで、暑さはいくぶんかマシになっていた。それでも、暑いには暑い。歩いていると、汗が出てくる。

 俺と詩織と彩音、川の字みたいに横並びになって歩く。真ん中が俺だ。

 彩音が「ふあ~~」とあくびをしながら、体を伸ばす。

「なんで、なにもしていないお前が一番疲れているんだよ」

 彩音は小説教室の間、手持無沙汰だったようで、本棚と本棚の間を目的もなく歩き、適当に本を抜き出して、中身を軽く見ては、別の本へと手を伸ばしていた。読書は苦手なようで、一つの本を集中して読むようなことはしていなかった。

「退屈って、一番疲れるのよ……」

 やはり、声に元気はない。

「アンタら凄いわよね。数時間も文章について、仲良く語りあって。そんなに小説を書くのって楽しい?」

 その質問にまっさきに答えたのは、詩織だった。

「楽しくないですよ」

「「え?」」

 意外な答えに、俺と彩音の声が重なる。

「小説を書くのは、苦しいだけです。いくら文字を打ち続けても、自分の手から生み出されるのは駄文ばかり。生きるのが嫌になりますよ。完成したときは、一瞬だけ喜びの感情が沸き上がりますが、それを読み返すと、やはりそれは駄作で、賞に応募すると、やはりその認識は正しかったようで、あっけなく落選。物語を書いていて、楽しい瞬間はほとんどない。書けば書くほど、己の存在が否定されていくような感覚になります。小説を書くのは、ある意味自虐行為ですよ」

 詩織は抑揚のない声で、音読するように淡々と述べた。その言葉の裏に、数えきれないほどの失敗体験が垣間見えた。

「じゃあ、どうして書くの?」

 彩音は質問を重ねた。詩織は遠いところへ視線を向ける。

「理由はありました。以前までは。ただ、今は、惰性で続けています」

 詩織は力なくほほ笑む。幸が薄そうな未亡人みたいな笑顔だ。

「もしかして、その理由って、この前の話に繋がるのか? その――」

 俺は次の言葉に窮した。俺たちにとって生真面目なワードでも、やはりそれは馬鹿らしいワードであった。

「この世界が物語で、俺が主人公って話に、関係しているのか?」

「はい、その通りです」猫みたいな大きな双眸が俺を捉えた。

「彩音さんが見えるまで、この世界の主人公は私だと思っていました。主人公だから、小説を書いていました。……以前、軽くお話しましたよね。私は過去に、架空の人物と出会い、彼女の物語を書き上げた話。あれには、ちょっとした続きがあります」

 詩織は、一瞬だけ息を呑んでから、続きを話し始めた。

「私が書いた彼女の物語は、ひどい完成度でした。だから、彼女が消えたあの日、あの部屋で、静かに決意しました。努力して、小説家になって、巧みな文章で彼女の物語を再び書き上げ、彼女の物語を本として形を残そうと。その決意はまるで、物語のクライマックスに主人公がするような、そのままエピローグに続くような、そんな類の決意です。

 少々長くなりましたが、主人公という立場だからこそ、小説家になることは、約束された未来だと考えていました。ですが、主人公は先輩でした。私は脇役。これまで積み上げてきた努力は主人公たる先輩に、小説を教えるためにあったのです。正直、途方に暮れた気分で、私は今を過ごしています」

 詩織は赤く燃える空を見上げた。

 俺の認識は間違っていた。詩織は全然平気ではなかったのだ。彼女は俺が想像したよりも、繊細な性格をしていたのだ。俺が思い描いていたのは、理想を混ぜた願望だった。

 詩織はいつもと変わらぬ無表情ではあるものの、かなり参っているらしかった。

何か言うべきだ、という感情が働いたが、だからこそ、生半可な励ましでは駄目だと思った。ズバッと急所を突くような、絶妙な言葉を要求されている気がした。だが、相応しい言葉は、まるで出てこなかった。

「なにをそんなに深刻に考えているんだか……」

 ふと、軽い調子で彩音が言う。

「今まで小説家を目指して努力してきたんでしょ。だったら、自分が主人公じゃないからって、それをやめる理由にはならないじゃない。今まで通り、努力を続ければいいでしょ」

 呆れに似た雰囲気があった。何をそんなに悩む必要があるのだろう、という単純な疑問が彩音の中にはあるらしい。

「彩音さんは、話の内容をまるで理解していないようですね」

 些細な表情の変化だったが、詩織は眉間に小さな縦線を作った。

「以前までは約束された成功だったのですよ。なぜなら私が主人公だったからです。だからこそ、小説家に向けて努力ができました。それが正解だから。でも、今は違う。確定された未来は消え、目の前にあるのは先が見えない予測不可能な暗い道。小説の道を志して、成功することができるのは、ほんの一握りの存在です。圧倒的な才能を持つ、一握り。私の才能はそこまで屈強ではない」

「でも、勿体ない」

 詩織に比べて、彩音の主張はシンプルだ。

「詩織は今まで、たくさん努力してきたんでしょ。それを捨てるのは勿体ない」

 シンプルが故に、的を射ている気がする。

 俺は詩織の部屋を知っている。床を埋め尽くす原稿。壁を支配する本棚。それらをすべて白紙に戻すのは、彩音の言う通り勿体ない。

 だけども、簡単に彩音には加勢できない。

 才能がないから、その道を諦める。それは、自分が長年持っていた論理だ。だからこそ、詩織の気持ちも痛いほどわかる。だが、その持論を打ち消すきっかけをくれた詩織が、その持論を語るのは、なんだか嫌だった。

 不意に詩織が立ち止まる。気づけば、彼女のマンションに着いていた。

「つまらない話を聞かせてしまい、申し訳ありませんでした」

 詩織は直角に腰を折って、謝る。

「結局どうするのよ。小説をやめるの? 続けるの?」

「わかりません」

 苦しそうだった。

「どっちにも傾きそうで、今の私は答えを持ち合わせていません」

 詩織は再びペコリと頭を下げると足早にマンションの中へ入っていった。俺はその後ろ姿を虚ろな目で眺めていた。

「なんか喋りなよ!」

 突然、彩音にバシンと叩かれる。

「痛って! なんだよ急に!」

「何してんの、は私の台詞よ。どうしてダンマリを決め込んでんのよ!」

「は? 何キレてんだ」

「詩織ちゃんの本心を聞いて、暗い顔で俯いて、励ましの言葉も、受け入れるような言葉も発しない。そんな意気地なしを見て、怒らないほうが無理よ」

「それは俺が主人公だからか? 主人公らしく振る舞えってことかよ」

 次はグーで肩にパンチを食らう。

「いちいち殴るなよ」

「アンタら、世界が物語だとか、主人公だとか脇役とかに流されすぎなのよ。詩織ちゃんに言葉に投げかけるのに、アンタが一番相応しいのは、詩織ちゃんにとって、もっとも近しい存在がアンタだからよ」

 この彩音の言葉を聞いて、本当ならば何かに気付かされたように、ハッとすべきなのだろう。

 彩音の言葉に感銘を受けて、詩織に小説を書くよう説得するなり、何かしら良き方向へ向くように俺が行動すべきなのだろう。それがいかにも主人公らしい行動な気がする。

 しかしながら、俺の心はハッキリしなかった。彩音の言葉は間違っていない。正しいと思う。だが、心に去来したのは、否定したい気分だった。

「詩織の問題は、詩織の問題だ。俺がどうこう言ったって、仕方ないだろ」

 気持ちを吐露すると、彩音は「は?」と憤慨寸前の顔になった。

「俺だって、詩織に小説を書いてほしいさ。でも、それで将来、失敗したらどうする。俺の後押しで人生に失敗したとしたら、俺に償う手段はない」

「グジグジと――」

 彩音は何か言葉を続けようとしたが、途中でやめた。

 大きなため息を吐いたのち、一人で歩きはじめた。俺は立ち止まったまま、しばらくずっと、その場にいた。

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