第18話
――先輩、主人公はあなただったのですね。
一学期最後の登校日。図書室にて、詩織は俺に向かってそんなことを言った。
そして、先ほどまで認知していなかった彩音に対して「初めまして」と礼をした。
詩織から見れば、何もない空間に突然彩音が出現したように見えたはずだ。なのに、詩織はなんら驚くリアクションをしなかった。
「驚かないのか?」
俺はそんなつまらない質問をしてしまう。
「先輩の書いたあらすじを私が読んで、彩音さんを認知したから見えるようになったのでしょうね。多少驚いていますが、私は過去に彩音さんと同じような人間と会ったことがあるので、なんというか、耐性があるのですよ」
「私と同じような人間って、架空の人物ってこと?」
彩音の質問に詩織はコクリと頷いた。
「私の知っている人は、父が書いた物語の主人公でした」
「ってことは、詩織の親父さんって、小説家なのか?」
「そうですね」
なるほど、と思った。小説への情熱の強さは、遺伝なのかもしれない。
「その詩織ちゃんが知っている、架空の人って、今は?」
彩音が質問した。同種の存在だから、気になるようだ。
「彼女は既にこの世にはいませんよ」
「え?」
あまりにショッキングな返答が返ってきたので、場の空気が一瞬にして凍る。彩音は青ざめた顔で、口元を抑える。詩織は俺らの反応を見て「あ、いえ、そういうことではなく」と訂正した。
「訳あって、彼女の物語を父ではなく、私が書き上げたのですが、完成と同時に彼女はこの世から消えました。いえ、物語の世界へ旅立った、と言った方が正しいですね」
その回答に、ちっとも俺は安堵しなかった。
時おり考える。今書いている小説、彩音の物語を完成させてしまうと、今、隣にいる彩音はどうなってしまうのか、と。その答えが、詩織の発言の中にあった。
小説を完成させると、彩音は消えるのだ。
「やっぱり、そう、なるのか」
なるだけショックを表に出さないようにしたけど、声が震えてしまった。
「響、もしかして、書きたくない、とか言わないよね」
隣に座る彩音が不安げに顔を覗いてくる。
「え?」
俺は虚を突かれた気分になった。
書き上げれば彩音は消える。その事実は辛い。だが、不思議と「書かない」という選択肢は浮かんでこなかった。
「書くに決まっているだろ」
それは驚くほど率直な感情だった。俺にとっては、小説の完成は決定事項となっていた。
あまりにもあっさりとした返答に彩音は目を丸くした。「そ、そう。それならいいけど」とたじろいでいる。
「一つ、気になってることがあるんだけどさ」俺は詩織に向けて話題を振る。
「さっき言ってた『俺が主人公』って、どういう意味なんだ?」
自分で言ってみて、あまりにも「主人公」という言葉の滑稽さを強く感じる。
以前にも、詩織は「主人公」という言葉を使った。
――私は、主人公なのです。
――この世界は物語で、その中心が私なのです。
発言した当初は詩織が主人公だったのに、なぜか変化が起こって俺が主人公となった。そもそも言葉の意味をまるで理解できていない。いや、言葉の意味はわかるが、理解に苦しむ、と言ったほうが正しいかもしれない。
「そのままの意味ですよ。この世界は物語の世界で、その中心が先輩なのです。」
疑問がまったくもって解消されない答えだった。
「詩織ちゃんって、もしかしてヤバい人?」
彩音が耳打ちしてくる。俺と同じで困惑しているようだ。
「そんなに私はおかしい発言をしているでしょうか」
「言ってる」彩音は即答した。
「この世界が物語とか、主人公がどうとか、そんな発言、どう考えてもおかしいでしょ」
「それを彩音さんが言いますか」
詩織は口元を抑えてクスリと笑う。どこか嘲笑めいた素振りに彩音はムッとする。
「私が言っちゃダメなの?」
「この世界が物語。主人公は先輩。常識から外れた二つの事実。私がそう考えるに至った根拠はあなたなんですよ。彩音さん」
「え、私が?」 彩音は自分を指さす。
「ええ、そうです。架空のキャラクターが現実に具現化するなんて、荒唐無稽すぎて、それこそ物語の中でしか起こらない出来事でしょう。そして、不思議な出来事は主人公の目の前で起きるものです。あなたのような存在がいるこの世界が、現実であるはずがありません」
「…………」
彩音は、言い負かされたように口をつぐんだ。
俺は詩織の言葉に納得してしまった。
だけども、今まで生きてきたこの世界を、物語の世界だと受け入れるのはなかなか難しい。
おもむろに、手のひらを見てみる。そして、握ったり閉じたり、グーとパーを繰り返して、手に感じる感触を確かめてみる。親指で他の指の腹を撫でてみる。ざらざらとした皮膚。この感触は絶対的で、実が伴っている。とても虚構の代物には思えない。
「信じがたいでしょうが、これは事実ですよ」
詩織は断言した。
「どうしてそう言い切れる。世界は広いんだ。俺らが予想だにしない、不思議なことが起こってもおかしくはないだろう」
己の口から出た言葉に重みはない。理論が弱いからだ。
「先輩、プロットまで完成させた先輩にはわかるはずです。きっと書店で出会いが物語の冒頭部分でしょう。そこから、今に至るまで経緯を思い返してみてください。物語の流れに組み込むことが可能です。どうでしょう?」
言われて考えてみる。
詩織との出会いから、この瞬間まで。
物語を創る人間として、俯瞰的に。
起――詩織との出会い。彩音の出現。小説を書くことを目標にする。
承――小説を書こうと試みるが、あらすじを考える時点で苦戦。実直に小説へ向き合う詩織の姿を見て、才能だけを探していた俺が、一つのことをやりきろうと心変わりする。
転――今現在。多分、この瞬間が転にあたる場面だ。この世界が物語だと発覚する。
結――まだ不明。
よくよく考えてみると、出会いからして胡散臭い。
本棚へと手を伸ばして、男女の手が重なる。使い古されて、逆に新鮮な出会い方。
この世界は物語である。
主人公は俺である。
孤島無形な二つの事実が、茶漬けを飲むように簡単に飲み込めた。。
思考の海から這い上がり、視線を詩織に向けてあげる。
「どうでしょうか?」
俺はぎこちなく思考の総決算を述べる。
「この世界は物語で、俺は主人公かもしれない」
理解はできたが、実感までは程遠い事実だった。
隣で彩音はとギョッと驚く。
「響まで、おかしくなっちゃったよ~~~っ」
彩音は頭を抱えた嘆いた。
7月は日が長い。夕方だというのに、太陽はある程度高い位置にある。
遠くには巨大な入道雲。もわもわとしていて、掴めばクッションのような柔らかな感触が返ってきそうだ。雲へと手を伸ばしてみるが、当然、届くはずはない。そんな届かない雲の向こうにも、世界は存在している。知らない土地があって、街があって、数十億の人間が、今も、それぞれの日常を送っている。歯を磨いたり、誰かと喧嘩していたり、そんな多種多様な日常が今もどこかで展開されている。
そんな壮大な話も所詮は地球だけの出来事で、世界はさらに広い。
空の向こうには、宇宙が広がっている。数えきれないほどの星があって、太陽よりも大きな星もあるとか、ないとか。そんな途方もなく広い宇宙は、さらに膨張していて、俺が世界の全貌を知ることは、一生かかっても無理だろう。いや、未来永劫、人類が宇宙の端へとたどり着くことはおそらくできないだろう。
それくらい、世界は広く広大だ。
まあ、なんというか、俺が言いたいことは、そんな途方もなく広大なこの世界が、物語の中の空想だと実感できない、ってことだ。
俺の物語が、小説、漫画、もしくは映画、どのジャンルなのかはわからないし、知る手段もない。どれに属しようが、所詮は人々の暇を埋めるだけの空想でしかない。
妄想、虚構、架空の代物。
だけども、俺の目に映る風景は広大で、途方もない。太陽が照らす住宅街も、踏み歩く固いアスファルトの感触も、じめじめと肌にまとわりつく暑い空気も、すべてがリアリティを保って存在している。この世界は空想かもしれないが、俺にとって絶対的な現実だ。
「いてっ」
二の腕のあたりに鈍い痛みが走る。隣を歩く彩音が肘で子突いてきたのだ。
俺ら二人は帰路を辿っている。詩織とはさっき別れた。
「どうしたのよ。ずっとぼんやりして」
俺が「え、ああ……」と曖昧な返事をすると、「詩織ちゃんが言っていた、この世界が物語とかって話?」と察してくれた。
「別に悩むほどの問題でもないでしょ」
彩音はケロっとした調子で言ってのけた。
「……そりゃ、お前は最初から自分が空想の産物として、存在しているから、その程度の認識かもしれないけど、俺は今の今まで、そういう感覚はなかったんだ。悩むのが普通だろ」
「悩んだってどうにもならないでしょ。なら、悩むだけ無駄よ」
やめろと言われて簡単に「悩む」をやめることができれば、どれだけ生きることが楽になることか。
「そもそも、この世界が空想だろうが、現実だろうが、私たちにとってはなんら影響はないじゃない」
「いや、大アリだろ」
「ないわよ」
彩音はキッパリと言い切った。
「私たちにとって、この世界は変えようのない現実。だったら、目の前の事柄を全力で取り組む他、手段はないじゃない」
日々を過ごせば過ごすほど、彩音の言葉に重みが加わってきた。
この世界は、俺らにとっての現実。
俺が現実への捉え方を変えたところで、現実が俺への接し方を改めてくれるわけではない。
現実はいつだって、ひどく冷たく、そっけない。基本的に思い通りにならない。突然、大きな幸福が目の前に現れることもないし、何かしらの才能に目覚めることもない。
現実は、都合の悪いことだらけだ。
小説を書こうにも、俺に小説の才能はなくて、欠片ほどの文章力すら持っておらず、やっぱりこの世界は上手く事を成すのは難しいな、と痛感する。
夏休みに突入した。それと同時に、小説制作は清書の段階に入った。プロットでストーリーは完成している。あとは、小説の形へと落とし込むだけだ。これまでの作業は、構想を練る段階で、ようやく、小説を書く、と言えるような段階に至った。
小説を書いていて、とにかく思うのは、己の中にある言葉が少なすぎる、ってことだ。
数行書いては、手はスマホへと伸びる。
言葉遣いが正しいのか、自信がないから、正しい意味をネットで調べる。同じ言葉を多用してしまうので、再びスマホで類義語を探す。書いては調べての繰り返し。詩織のように、ひたすら打鍵を続けることなんて無理だ。執筆スピードは亀のように遅い。だが、それでも着実に前進はしていた。
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