第0話 その3

 コンビニで買ってきたミートソーススパゲッティを由香は素麺みたいに、勢いよくズズズっとすする。なりふり構わず食べるもので、口の周りにはべったりと紅色のソースがついている。食べ方が下手な子供のようだ。

 詩織はパンをかじりながら、その豪快な食べっぷりを眺めている。

 必死になって、食べる由香の姿。言葉にせずとも喜んでいることがわかる。己の行動で目の前の人間が喜んでいる。それを把握すると、なんだかこそばゆい感覚が胸の中で広がった。

 由香が目の前に現れてから、粗っぽい方法ではあったけれど、詩織に対して尽くしてきた。詩織はずっと由香の懇意をずっと無碍にしてきた。

 由香に対しての認識を「神からの刺客」から「同じ世界を生きる住人」と改めると、罪悪感が込み上げてきた。

「ごめんなさい」

 詩織は深々と頭を下げた。唐突な謝罪にミートソースの髭を生やした由香はキョトンとする。

「どうして謝るの?」

「私があなたに対して、ひどい行いをしてきたから」

「そうかな? 私のほうがひどい行いをしたと思うけど?」

 由香が笑ってそう返すと、詩織は口角を上げた。

「私はきっと、詩織をどうにかするために、この世界に具現化したのだと思う。だから、あなたがちゃんと立ち上がれるようになれば、万事それでいんだよ」

「その考えは、ちょっと自分を無碍にしすぎている」

 由香は首を左右に振る。

「私が居た世界は小説内の架空。あなたの世界はこの現実。だったら、現実世界を生きるあなたを優先すべきでしょ」

 肩をすくめる由香には、どこか諦める気配があった。

 詩織は由香の意見に対して、心の中で否定した。

 きっと、私が生きる世界だって、物語の世界で、架空だ。由香の意見を受け入れてしまえば、自分らの存在すらも、この世界だって否定してしまう。

 私たちは、架空の中で生きている。架空だろうが、現実だろうが、生きているのだ。

 架空か、現実か。どちらが大事なんて、自分らが生きている架空が大事に決まっている。

 現実なんてクソくらえだ。滅んでしまえ。

「由香、そんな悲しい答えを持たないでよ」

 詩織は静かに、否定した。

「たしかに、あなたは架空の存在だけど、それは決して無価値の証明にはならない」

 詩織は優しく由香の手を握る。温かな感触が手から伝わってくる。

「あなたは生きている。だから、もっと自分を大事にして」

 詩織の大きな瞳が、由香を捉える。たしかにその瞳には、由香が映っている。

 その言葉に由香の心は大きく揺れる。

 ずっと不安だった。

 この世界に具現化して、自分が空想上の人物だとしったとき、今まで己が歩んできた人生が、ひどく薄っぺらくて、芯のないものに思えた。

 由香の最古の記憶は三才の誕生日。三本のろうそくをふぅ、吹いて消した。ろうそくの火を消す。それだけのことをひどく楽しく思えた。

 五才の頃、母親の化粧箱から口紅を取り出して怒られた。化粧に挑戦しようとしたのだ。まあ、案の定、ひどく悲惨な落書きを顔にするに至った。

 小三の運動会。リレーで赤団の友達たちに応援されながら走った。注目を浴びる重圧と期待される高揚感を初めて知った。みんなの応援が背中を押してくれて、なんだか心地よかったことを覚えている。

 小五の六月。放課後、突然の雨でアイツが傘を貸してくれて、思わぬ優しさに驚いた。アイツはその一本しか傘を持ってなかったようで、ランドセルを傘代わりにして、雨の中を走っていった。きっと、この時だ。アイツを意識するようになったのは。

中一のバレンタインデー。勇気を振り絞ってアイツにバレンタインチョコをプレゼントした。渡した勢いそのままに、告白した。もう既に付き合っている人間がいたから、フラれた。

自分には甲乙つけがたい数多の思い出がある。でも、かけがえのない思い出たちは全て絵に描いた餅だ。己の存在すら空白。

 決定打になったのは、食材が尽きて、買い出しに行ったときだ。

 誰も自分の存在を認識しない。

 己の存在が空虚に思えて、膝から崩れ落ちそうだった。

――もっと自分を大事にして。

己の存在に自信を無くしていたところに詩織の言葉。

 心が揺れ動かざるを得ない。

 由香は素直に心を晒すのが苦手だ。だから、「くはっ!」と笑ってごまかした。

「ハハハッ! なにそれ、ウケる。自殺未遂の人間が『自分を大事にしろ』って」

 そうやって高らかに笑いながら、瞳に溜まっていた涙をぬぐう。笑い泣きに見えているだろうか。だとしたらいいな。

 高笑いする由香に反し、詩織はじっと押し黙って、己の内から湧き出る衝動を確かめていた。

 さっきから、心がざわついて、仕方がない。

 由香を助けたい、という衝動がうるさくて仕方がない。由香がふとこぼした儚げな表情に影響されたのだろう。

 しかし果たして、この衝動は本当に己の衝動なのか。

 詩織は自分の感情を疑っていた。自分は物語の住人。自分が動けば、物語も動く。すなわち、行動することは、神のシナリオに操られるってことだ。「由香を助けたい」という感情は、物語を進展させるきっかけっぽい。物語のテンプレ通り、自分は由香を助けるために、行動するのだろう。そうやって物語が一つ進展する。

 憎き神の思惑通りに動きたくはない。

 だが、今まで通り、無気力状態を続けるのは、どうにも気が引けた。

 由香を神の刺客だと認識していれば、神への抵抗として、行動しない行動を続けれたかもしれないが、今や既に、彼女に対して情が芽生えている。

 冷淡な表情が多い詩織だが、心まで冷めているわけではない。

 あまり気乗りはしないが、心の奥では決断していた。

 そうと決まればさっそく行動、と行きたいが、助けるための具体的な行動がわからない。そもそも、何をもって助けた、と言えるのか、ゴールも見えない。

「どうしたのよ。黙って」

 黙って思考を続けていると、由香が顔を覗いてきた。

「あなたを助けるには、どうすればいいのか考えていた」

「え、そんなに辛そうな顔してた? 私」

「うん」

「ハハ……隠したつもりだったんだけどな」

 再び儚げな表情を浮かべる由香に、詩織は同情した。

「せめて、あなたを元の世界へ戻せればいいのだけれど……」

 詩織がそう呟いた。その言葉を待ち構えていたように、由香は「そうだ!」と手を打った。

「私の小説を完成させればいいじゃない!」

「……え?」

 詩織の困惑を無視して、由香はスクッと立ち上がる。

「お父さんの仕事部屋はどこ?」

 それは質問ではなく、独り言だったようで、詩織の答えを待たずして、自ら部屋を探しあてるため歩き出した。互いの距離が以前よりも縮まったとはいえ、他人に家探しされるのは、あまり気分の良いものではない。詩織は追いかける。

 詩織が床に追いついた時には、由香は父親の部屋を探し当てて、既に中に入っていた。

 それどころか、部屋の奥に配置されている机、その上に置かれたノートPCを起動させ、中身を見ようとしていた。

「ちょっと、勝手に……」

 言葉を最後まで言い切る前に、呆れてため息が漏れた。普通、人の家のパソコンを勝手に起動して、中身を見るだろうか。由香でなければ、殴っていた。彼女だから、なんとなく許せた。

 デスクトップ上に目的のワードファイルがあった。父が途中まで書いた小説のテキストデータ。「さて……」由香は詩織に画面が見えるように、横へずれると「書いて」と告げた。

 詩織は「書いて」が自分への言葉だと認識するのに、数秒の時間を要した。

「え、私が?」

「そりゃ、詩織が書かなくて、どうするのよ」

「私、めちゃめちゃ読んではいるけど、書いたことはない。……書けないよ」

 詩織は小説に囲まれ、活字を読んで育ってきた。だが、これまで書いたことはなった。小説は読むものだと、認識していた。これまで読んできたからわかる。物語を書くことは、果てしなく難しいことだ。そんな難しいことを、自分が達成できるとは思えない。

「そもそも、小説の完成が、どうして、あなたの帰還に関係あるの?」

「それは……ほら、この部分を読んでみて」

 由香が画面上の文章を指さしたので、従うままに読んでみる。

 由香の物語を簡単に言えば、ひょんなことから由香はファンタジー世界へと転移される。そして、元の世界へと戻るため奮闘する冒険活劇だ。父が残した文章は、由香が別世界へと転移するところで終わっていた。

 だからなんだ? という気分で由香を見ると、補足説明をしてくれた。

「この小説は私の人生。ここに書かれたことが、私の現実になるってことじゃない? それが中途半端に終わっているから、私はこの世界へ来てしまったんだろうね。多分、ここにちゃんとした結末を書けば、私は本来の運命を歩むことになって、きっと、元の世界へ戻れる。どう? 納得できる理由でしょ?」

「………………」

 由香の語るロジックは、生ぬるく、それゆえ、あまり信ぴょう性はない。だがしかし、「父の遺作を完成させる」以外の代案を思い浮かべない。

 それに「父の遺作を完成させる」という課題は、主人公に与えられる目標っぽい。

 由香を元の世界に戻すには、神の言いなりにならなければならない。

 だが、概念の神に抗うよりも、目の前の由香を救うほうが重要に思えた。

 父の小説を完成させる。

 詩織は静かに決意した。


 父はプロットを完成させている。つまり、物語の全貌は決まっていて、あとは執筆を完了させるだけの状態だ。残されている作業は、物語を文章に落とし込むだけだ。詩織は小さい頃から、膨大な活字を己の内に貯えてきた。貯蓄した語彙を今こそ発揮すべき時。小説を書くのは未経験だったけど、詩織は自分の文章力に期待していた。

 だが、実際に書いてみると、己の文章はひどく滑稽で、詩織はがっかりした。

 これまで読んできた美しい文章。巧みな言葉の羅列。四季折々の風景を描写し、心情の変化を繊細かつ具体的な言葉で表現し、読者を物語へと引き込む。自分が読んできた名作には強い引力があったが、自分の文章にそれはない。

 己が生み出す文章は、まるで枯れ木のように細く頼りない。一つ一つ言葉を積み重ねるたびに、惨めな気持ちが心を支配する。

 それでも詩織は、劣等感を心の奥へと押し込め、文章を書き続ける。父の遺作を自らの言葉で綴っていく。

 カタ……カタ……。

 後にマシンガンの如く、連打に近い勢いで打鍵する詩織だが、この時点で、その気配ない。綱を渡るように、そろりそろりと確かめるように文字を打っていく。

 (文字を打って、詩織の感情。たぶん楽しいみたいな。)

 これが、白鳥詩織の始まり。

 これが、白鳥詩織の物語、その序盤。

 そして、後に詩織は響と出会う。

 そこで、響の物語が始まるのだ。

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