第0話 その2

 マンションの一室にて、空想の人物との奇妙な共同生活がはじまった。詩織にとってそれは、面倒くさいことだった。

 詩織は無気力状態であった。「なにもしたくない」という気持ちが心を支配していた。両親の死による喪失感の影響だ。事故があって、約三か月程度しか経過していない。体の傷は癒えても、心にはまだ深く大きい傷が残っている。

 頭は常にボーっとしていて、手足に力があまり入らない。ベッドから起きることなく、天井を眺めて一日を終わらせる。食べる気力すら、湧かないから、胃はエネルギー切れを起こし続けている。腹が減りすぎて、限界を超え、流石に苦しくなってきて、ようやく物を口に入れる。そして、生きれる程度に腹を満たしたら、またベッドに戻る。感情は動かないのに、不意に大きな波が襲ってくる。事故の瞬間が急にリピート再生され、深い絶望が心を飲み込む。ひどい吐き気。悲しみ。やるせなさが襲ってきて、詩織は静かに泣く。

 ここ一週間近く、詩織はそのような生活を送っていた。

 だが、由香の出現により、状況は一変する。

 由香は昭和臭い、スパルタ気質であった。

 行動第一がモットーの前園由香。行動しなければ、望む未来は得られない。行動力たる化身の由香だからこそ、小説内でも困難を乗り越え、素晴らしい結末へと突っ走ることができた。だが、その性格は一歩離れたところから見るから素晴らしく見えたのだと、詩織は痛感する。その行動第一思考が、詩織にとっては刃となる。つまるところ、由香は、詩織の無気力状態を改善しようと、鞭を打ったのだ。

 脱力して、ベッドで寝たきりの状態であった詩織を無理やり引きずり出し、「顔を洗え」「ご飯を食べろ」「制服を着ろ」「学校へ行け」と無理やり行動させようとする。もうなにもしたくない詩織は、言葉だけでは動かない。ならば、と由香は力づくで行動させようと強行突破を試みる。

 風呂場まで詩織の体を力づくで運ぶと、剝ぐように服を脱がせ、窒息死させるような勢いで、荒々しく体を洗う。それが終われば、実寸大の着せ替え人形を扱うように、制服に着替えさせる。リビングまで運ぶと、詩織の口をこじ開けて、食べ物を無理やり喉まで押し込む。とにかく荒い食べさせ方。当然ながら詩織はせき込み、吐き出す。それでもお構いなく、由香は再び食べ物を入れる。それなりの量を喉まで流し込むと、今度は詩織の体を玄関の外まで運ぶ。学校へと向かわせるためだ。

 詩織は外には出たくない。そこでようやく初めて反抗する。引っ張る由香の腕を振り払い叫ぶ。

「いい加減にして、私はもうなにもしたくないの」

 久々に声を出したせいか、自分で思うほど声は大きくなかった。

「駄目よ。動かなきゃ、腐っているだけだよ」

 由香も譲らない。お互いの思惑は交差し、くんずほぐれつのもみ合いが始まる。それはカラスが鳴くころまで続き、互いのスタミナが切れたところで、戦いは終わった。

 そのような日々がしばらく続いた。

 詩織にとって、鬱陶しくて仕方がない日常。

 ムカついて、腹が立って、より死にたくなる面倒くさい毎日。

 だが、怒りの矛先は、由香ではない。たしかに、しつこく行動を促す由香に対しても微々たる怒りが湧いてくるが、詩織が本当に怒っているのは神様に対してだ。

 この世界を作った、神様。ソイツが憎くて、憎くて、仕方がない。

 この世界は、物語で、詩織が主人公。

 ならば、物語の典型を参考に未来だって予想できる。

 詩織は両親を失って心に大きな傷を持った。物語の展開から考えるに、その傷はこれから癒えていくのだろう。

 何が、原因で癒えるのか。

 決まっている。由香が癒すのだ。

 父が残した小説の原案。その主人公たる由香。両親を失い、大きなショックを受けた詩織を父が残した小説の主人公が快復させる。感傷的な感動を生む展開。俯瞰から眺める読者にとっては、さぞ喜ぶ展開だろう。

 だが、読者にとっては「物語」でも詩織にとってそれは「現実」なのだ。

 実際に、二つの命が消えている。

 そこに感動なんてプラスな感情は決して芽生えない。ただただ深い奈落の底に沈むような圧倒的なマイナスな感情しか存在しない。

 その決定的で絶対的な「死」が安っぽい感動のために引き起こされたのだとしたら、怒りが芽生えて当然だろう。

 悲劇を起こしたのは、この物語の作者である神様だ。

 詩織は神様が憎い。そんな詩織の中にある決意が芽生えた。

――シナリオ通りに動くものか。

 神が描いた物語通りに動くのは、絶対に避けたかった。だから、行動しないという選択をしたのだ。それが彼女のできる唯一の対抗策だった。

 詩織は密かに神に挑んでいた。

 行動させようと促す由香は、神が送り込んできた刺客だ。

 負けるわけにはいかない。

 詩織は行動しない。由香は行動させたい。そんな攻防を繰り返しているうちに、冷蔵庫にあった食料が尽きた。

 詩織は、由香が具現化する以前までは、必要最低限の外出で、パンや冷凍食品などの、調理をあまり必要としない食材を買い込んでいた。詩織一人だと一週間は保つ量だったが、由香のせいで予定より早く消えた。

 詩織は買い物に出かけない。出かける気もない。

 由香は自らが買い物に行くしかないと考えた。だが、あいにくお金を持っていない。抵抗を感じつつ、詩織に財布の在りかを聞くと、意外にもあっさり答えてくれた。「行ってきます」と外へ出かけた由香は、手ぶらですぐに帰ってきた。

 顔は青ざめていた。

「どうしたの?」

 詩織は思わず質問してしまう。それほど由香は切羽詰まった表情をしていた。

「誰も私を見えていない……」

 由香曰く、道行く人、すれ違う人、その誰もが自分の姿を目で捉えていないらしい。コンビニへ辿り着き、商品をレジに運んでも、誰も対応しない。品出し中の店員に声をかけても、なんら反応はしない。作業は止まらない。すると、他の人間がレジに立つ。店員はすぐさまそれに気づき、レジに走って行った。

 由香の声と姿は、誰にも認知されない。

 彼女は透明人間になってしまったのだ。

「これじゃ、買い物ができない」

 やはり青ざめた表情で由香は嘆いた。

「透明人間なら、盗み放題じゃない」

 詩織の声は、どこか投げやりだった。由香の表情に比べ、問題が小さく感じたのだ。それくらいどうした。心配して損した。詩織はそんな気分だった。

「盗みは悪いことだから、しない」

 つまらないほどクソ真面目な回答に、詩織は心底呆れた。

 その日は結局、二人とも何も食べなかった。

 食材が尽きて、二日目。

 由香は空腹状態であろうに、相変わらず元気そうだった。朝日が窓から差し込むころに、詩織をベッドから引き剥がし、浴室へと運ぼうとする。詩織は早々に抵抗した。離れてなるものか、とベッドにしがみついた。単純な握力で言えば、断然由香のほうが強い。いつもなら詩織が抵抗しても、その上を行く力で、簡単に浴室まで運ばれる。だが、今日は違った。由香の力は弱く、詩織はベッドに保ち続けることができた。

 昼頃になると、由香の動きはさらに鈍くなる。

 彼女は苦悶の表情を浮かべ、腹を抱えながらソファに横たわる。普段なら、掃除、洗濯などの家事をするのだが、空腹でそれどころではない。腹の内部をえぐるような空腹のせいで、身動きがとれなくなってしまう。

 食が尽きてから、三日目。

 いよいよ由香は動けない。両手両足を動かす余力はない。エネルギー切れを訴え続けるお腹を抱えて、ソファに横たわる。詩織に行動を促すことはしない。できない。

 詩織もキツイ空腹状態だったが、由香よりも動いていない分、まだ余力はあった。頑張れば

最寄りのコンビニへと向かい、食料を買い足すことだってできる。

 だが、それはしたくなかった。

 行動をすることは、神の思惑通りに動くってことだ。

 このまま空腹を我慢して、餓死するのもアリだ。そうすれば、主人公たる自分は死に、物語はまったく動かず、始まることなく、終わる。神も戸惑うことだろう。ざまぁみろ。

 そんな詩織の思惑は、苦しむ由香の姿を見て、一気に消し飛んだ。

 由香は苦しそうにソファでうずくまっている。自分が買い物に行くだけで、彼女は救われる。だのに、見えない神への敵対心が強いあまりに、苦しむ由香が見えていなかった。

 自分はこの世界で生きている。そして、由香もそれは同じなのだ。

 由香は神からの刺客ではなく、自分と同じこの世界の住人なのだ。

 ならば、救うべきだろう。

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