第0話 その1

 白鳥詩織の両親は、少々特殊で、父が小説家、母が編集者だった。

 父は自宅で執筆をしていた。今も、詩織が住んでいる高層マンションの一室だ。編集者の母は多忙で、職場で寝泊まりすることがしばしばあった。なので、詩織の面倒をよく見ていたのは、父だった。

 執筆の合間に、自分の面倒を見るのは大変だったろう、と詩織は過去を振り返るたびに思う。執筆をする時、物語の海に潜るため、なるだけ集中していたい。子供なんか身近にいたら、それができない。

 幼少期の詩織は、そんな事情もいざ知らず、仕事部屋を出入りしては、父にちょっかいを出していた。今にして思えば、仕事の邪魔になっていたろうに、文句など一切口に出さず、いや、そもそもそんな気持ちは微塵もないようで、いつも父は笑顔で詩織の相手をしてくれた。ペンだこがある、骨ばった白く細い手で、よく頭を撫でてくれた。頭にかかる優しい圧力を詩織は今も鮮明に思い出すことができる。

 忙しい母は、忙しいなりに、詩織のために時間を作ってくれた。運動会、学習発表会、授業参観など、学校行事には必ず駆けつけてくれたし、動物園や遊園地などの場所へ遊びに連れて行ってくれた。

 それでも、家族が揃う時間は、一般家庭に比べて少なかっただろう。詩織が小学三年生の頃には、忙しい両親の代わりに家事のほとんどをしていた。けれど、優しい両親に対して、なんら不満を抱かなかった。それは、良い両親だから、という理由もあるだろうけど、一番の要因は、反抗期が来る前に、今生の別れが訪れたからかもしれない。


 詩織が中学二年生の頃、交通事故により両親は他界した。


 家族旅行の帰り道、一般道を父が運転する軽四で走っていると、対向車の大型トラックが白線を超えて、正面から突っ込んできた。車体同士が正面衝突。首の根本から引きちぎられそうなほどの強い衝撃。視界は黒くなり、意識は途絶えた。

 気絶から目覚めると、真っ先に視界に入ったのは、清潔感溢れる真っ白な病院の天井。

意識が戻った詩織に、担当医から状況説明が行われた。「お気の毒ですが」のあとに告げられたのは両親の死だった。詩織は後部座席に座っており、なおかつシートベルトをしていたので助かったが、前に座る両親は駄目だった。衝撃をもろに受け、中学生の詩織には説明できないほど悲惨な状態に陥った。

不意の悲劇により、詩織は独りぼっちになってしまった。

言葉にできないほどの膨大な失望と喪失。それは一人の少女が世界を見限るには十分であった。詩織は自殺を考えた。担任してまもなく、実行に移した。

 彼女の自宅は14階建てのマンションの最上階。ベランダから下を覗けば、地上を歩く人は小粒程度の大きさになる。飛び降りれば必殺。自殺するには好都合だ。

 リビングの椅子を台にして、ベランダの塀の上に立つ。

 眼下にはあらゆる光が灯っている。住宅街。コンビニ。車。街灯。100万ドルの夜景とはいかずとも、数千数万の人々が灯す生活の灯は、それなりに綺麗な光景だった。

 だけども、絶望しきった詩織はそれを視界に入れたところで、なんら感情の起伏も生まれなかった。躊躇もなく、体重を前へ傾けた。

 顔にぶち当たる突風。体内にある水分が逆流するほどの浮遊感。待ち受けるのは、そういった絶対的な死への前触れ、そのはずだった。だが、予想していたそれらは起らなかった。それどころか、いまだに詩織の眼下には、町の光が灯っている。詩織は体重を前へ傾けているのに、体は落下することなく、まだベランダの塀の上で立っていた。

 後ろから服を引っ張られている感覚がある。詩織は不思議に思ったが、考える間もなく原因が判明する。

 誰かが服を後ろから引っ張っていたのだ。

 背を引っ張る人物が、さらに力を入れたようで、詩織は転がるように、ベランダの中へ引き戻される。塀から引っ張られた拍子に、背中や肘を強くぶつけてしまう。鈍い痛みが、まだ生きていることを主張してくる。

「死んだら、駄目だよ!」

 詩織は痛めた肘をさすっていると、そんな女性の声が降ってきた。顔を上げると、知らない少女が半泣きの状態で怒っていた。見た目から察するに、詩織と同じくらいの歳だ。

「あなた、誰?」

 当然の疑問をぶつけると、なぜか、見知らぬ少女はキョトンとした顔で、辺りを見渡しはじめた。顔に浮かんでいた疑問がさらに強くなり、果てには首を傾げた。

「あれ、ここどこ?」


 詩織は思った。小説の冒頭みたいだな、と。

 見知らぬ少女に事情聴取をしてみると、口から飛び出てくるのは摩訶不思議な言葉ばかりだった。なにせ、少女の境遇、名前から見た目、そのすべてが、制作途中に終わった父の小説、その主人公に酷似していた。

 見知らぬ少女の名前は「前園由香」。髪は短く天真爛漫な少女。陸上部に所属しており、ハッキリとした物言いが特徴である。詩織の父が書いた小説、もとい、由香が主人公の物語は「冒険ファンタジー小説」である。ひょんなことから異世界へと迷い込んだ由香は、現世に戻るため、あらゆる困難を現地で出会った仲間たちと共に、持ち前の勇気で突破する冒険活劇。

 詩織の父は、物語の全体的な構成は考えたものの、序盤までしか執筆できていない。由香が異世界へ旅立つ前の、現世パートまでしか書けていないのだ。

 詩織は途中で終わった原稿を読んでいるし、全体的な構成や、登場人物の性格や容姿などが書かれたメモ書きも把握している。目の前に存在する由香が喋れば喋るほど、父の小説に登場する由香と重なっていき、最終的には同一人物だと結論づけた。

空想の産物でしかない小説の登場人物が具現化する。とても現実離れした出来事であるが、そうとしか形容できない現象であった。

 両親の喪失によって、詩織はどうしよもないほど「現実」を強く感じていた。

 現実とは、ひどく冷たくそっけない。

 理不尽で、奇跡や希望もないリアル。

 唐突な悲劇によって自分がひどく落ち込んでいても、手を差し伸べる世間は存在しない。両親の死がなかったように、ひどく淀みなく世間は周り続ける。

身近な学校でもそうだ。

たしかに、両親が死んだ直後、自分が退院して学校へ戻ったときは「大丈夫?」と心配して声をかけてくれるクラスメイトもいた。だけど、それは瞬き程度の期間で、ちょっと時間が経てば、そんな声は消えた。みんな何事もなかったように、笑って過ごしている。自分は死を決断するほど悲しい気持ちなのに。

そんな奥底に沈んだ絶望をすくい取るような、都合のいい救いの手は現れなかった。そんな前兆すらない。

現実なんて、そんなものだ。

そうやって、絶望して、死のうと思った。

なのに、その矢先に、荒唐無稽な出来事が起こった。

小説内の気登場人物に命を救われた。

虚構と現実の狭間で混乱する詩織は、ある答えを導き出した。

 この世界は物語の世界なのだ。展開から考えるに、自分が主人公だ。

 そうとでも考えないと、詩織の「現実」が崩れ落ちてしまいそうだった。

 それに、主人公の両親は、よく死ぬものだ。

 詩織は両親の影響から、小さいころから小説をたくさん読んできた。父の仕事部屋の棚には、ビッシリと隙間なく小説が並んでいた。その中の一つを抜き出して、物語の世界にどっぷりと浸って育ってきた。詩織の血肉には、物語が沁み込んでいるのだ。だから「起承転結」や「序破急」といった物語の運びを直感的に理解している。

 物語の冒頭部分では、主人公には目標が与えられる。

 「誰かを救う」とか「何かを克服する」とか「大会で優勝する」だとか、そんなような目標が設定され、主人公がその課題をクリアするために、奮闘する。そのもがき苦しむさまを見て、読者たちは楽しむ。人の不幸は蜜の味。人が物語を楽しむメカニズムは、残虐非道なコロッセオのそれと同じだ。主人公とは、不幸体験を提供するだけの立場だ。

 そんな立場に、詩織はなった。

 私が主人公ならば、このあと、達成すべき課題が与えられるのだろう。どこか達観した気持ちで、詩織はそう自分の行く末を予想した。

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