第16話
「恋愛成就の秘訣は、単純接触効果よ。晴樹」
昼食時、例の薄暗い踊り場。彩音は意気揚々と晴樹にそう告げた。
「単純接触効果。たしか、人との接触回数がそのまま好感度に影響するって心理学の用語だったよね」
晴樹は視線を宙に向け、スラスラと答える。彩音は肩を落とした。
「なんだ、知っていたのか。面白くない」
ついでに言えば、俺も知っていた。なぜなら、彩音は恋愛映画を観て「単純接触効果」知ったからだ。俺も一緒にそれを観ていた。
「で、結局のところ、お前は何が言いたいんだよ」
「晴樹は、積極的に高橋結衣に喋りかけるべきなのよ。でなければ、二人の距離が縮まることはなく、恋が成就することもない」
晴樹はギクリとした。
「でも、話しかける勇気なんて、僕にはないよ」
「呆れた」彩音は急に不機嫌な声を発した。
「高橋結衣の目には、あなたの姿が映る。喋りかければ、答えてもくれる。それなのに、行動に移さないなんて、そんな贅沢、私には許しがたいわ」
晴樹は「そうは言ってもねぇ……」と言い訳を続けた。彩音の眉間に決定的なしわができる。どうやら臨界点に達したらしい。
「晴樹、アンタは高橋結衣をどう思っているの⁉ 好きなんじゃないの!」
興奮した彩音は晴樹の胸ぐらを掴み、顔を引き寄せる。
「おいおい寄せよ」
暴力へと走る彩音を止めようとしたら「アンタは黙ってて!」と怒られた。その本気度に俺は気圧されてしまう。
「好きになるってことは、とんでもなく幸せなことなのよ! アンタなら知ってるでしょ。いろんなことに挑戦してきて、好きなことに出会えなかった哀れな男がここにいる。それを言うに事欠いて勇気が出ない? アンタは顔がいい。口も達者。女には困らないでしょうね。でもね、土壇場で根性を出せないアンタは、絶対にアンタは、何もできないまま終わる。好きなもののために、一歩を踏み出さなくて、いつ踏み出すのよ!」
彩音の怒声が、踊り場を超え、廊下まで鳴り響く。だとしても、彼女の声が聞こえるのは、俺と晴樹だけだ。晴樹は、驚いたように、目を見開いている。
「……アンタは、どうしたいの?」
彩音が問うた。さっきまでとは違い、静かな声だった。
「僕は――」
晴樹は答えを窮した。それを言うのに、勇気が必要だったらしい。しばらく沈黙が続く。彩音は静かに待つ。まもなくして、晴樹は振り絞るように告げた。
「……僕は、高橋さんと付き合いたい」
彩音は口角を上げた。
「なら、一緒に打倒、高橋結衣よ」
それはどことなく、頼もしい笑みだった。
翌日の朝。
打倒、高橋結衣の志のもと、ある作戦が結構されようとしていた。それは作戦と呼称するには大げさな作戦だった。全貌は一行で収まる。
晴樹が高橋に挨拶をする。
それだけだ。
だが、そんな一行で終わる事柄も、晴樹にとっては一大事だったようだ。
「どうしたんだ。その顔」
登校中に晴樹の顔を見た俺は、驚いた。目は充血しており、明らかにやつれていた。
「緊張のせいで、昨日、寝れなくて……ハハ」
晴樹は力なく笑った。
「体調最悪じゃない。どうする? 挨拶するくらい、別に後日でもいいと思うけど」
彩音の提案に、晴樹は首を横に振る。
「決心が固まっている今だからこそ、実行に移したい」
やつれた顔に反し、目だけは力強かった。彼の決意は、俺らが思った以上に強固だった。
単純接触効果。接触回数が増えるほど、親しみを感じる、という人の心理的効果。その心理的効果を発揮するには、目標となる相手と、何度も会話する必要がある。それこそ、友達、もしくはそれ以上に親しくなるくらいに。
何事にも、一回目はある。俺と晴樹にだって、ファーストコンタクトはあった。どちらから話しかけたのかも、何を話題にしたのかも覚えていないが、その一回目があるから、今の関係がある。万里の道も一歩から。
現状況を説明すると、晴樹と高橋の間には、クラスメイト以上の関係性はない。挨拶が成功したのなら、それが彼らのファーストコンタクトとなるだろう。だが、その一回目がなかなか難しい。
意中の相手に挨拶する。それ自体、勇気を必要とする難しい行動ではあるが、晴樹が超えるべき壁はもう一つある。それは、周りからの視線だ。
現在、期末試験を控える6月後半。教室内の動きはパターン化されている。誰がどのグループに属しており、誰がどの人間と会話するのか。格グループは教室のどのポジションで集まるのか。細かい違いはあれど、毎朝の光景はほとんど同じだ。もはやルーティンと呼んでもいい。
そんなパターン化された教室の中で、晴樹が高橋に挨拶する、というイレギュラーが起これば、異物となり、目立ってしまう。当然、視線が集まる。
――荻原春樹は高橋結衣が好きなのではないか。
視線たちは行動からそんな結論に至る。情報は一気に拡散。二枚目で女子人気が高い晴樹の色恋沙汰だ。広まる力も強いだろう。挨拶が成功しても、そんな噂話を提供する事態に陥ったのなら、その噂自体が恋の障壁となり、成就を難しくさせる恐れがある。
視線を避けるには、できるだけ自然に挨拶を行う必要がある。そこで、彩音は作戦を練った。偶然を装って、高橋に近づく作戦。それが今、ひそかに決行される。
俺は、教室に入り、高橋の席を確認する。
彼女は席に座って、勉強していた。期末試験が近い。その対策だろう。
彩音の目論見通りだ。透明人間の身を活かし、彩音は情報収集に努めていた。高橋の会話を近くで聞き、果ては家まで尾行しようとした。流石にそれは俺が止めたので、未遂に終わったが。とにかく、そんな彩音曰く、高橋は今回の期末を頑張るつもりでいるらしい。成績上位目指して意気込んでいるのだとか。
俺は親しいクラスメイトに適当な挨拶をしながら、教室付近で待機している晴樹にスマホでメッセージを送る。
〉〉目論見通り、高橋は席で一人、勉強をしている。
これで、俺の出番はおしまい。あとは見守るだけだ。
まもなくして、彩音が教室の中に入ってくる。談笑するクラスメイトの間を縫うように歩き、高橋の席へと近づく。透明人間である彼女に気付く者はいない。勉強する高橋の元へ辿り着くと、高橋の正面に立つ。
「スタンバイOKよ!」
彩音は廊下に向かって叫ぶ。彼女の声は、姿と同じで透明だ。教室内の生徒たちには聞こえない。彩音の言葉を合図にして、晴樹が教室内へ入ってくる。
意外にもその表情は朗らかで、爽やかなそよ風のように、周りの人間に「おはよう」と挨拶している。いつも通りの晴樹の行動。目立つ行動は避け、自分の行動が異物にならないように努めているのだ。晴樹は、周りの人間に挨拶しながらも、着実に高橋へと近づいていった。
晴樹が高橋の席をすれ違う直前。彩音は動く。
机に置いてあった筆箱。それを床へ落とした。
カチャカチャと固い音を鳴らしながら、筆箱の中にあった筆記用具が床に散乱する。勉強に没頭していた高橋も、流石にその惨状に気付く。そこに丁度いいタイミングで通りかかった晴樹は、いち早く気づき、筆記用具を拾うと、高橋へと渡した。
「あ、サンキュー」
晴樹は勉強机に広がるノートへ視線を落とした。
「勉強かい? 期末が近いもんね」
「そう。でも、マジキツい。期末の範囲ひろすぎぃ~~」
一歩離れて様子を見ていた俺は、その一連の会話に「おお」と感嘆たるため息をひそかに漏らした。晴樹が意中の相手である高橋と、臆することなく話している姿に感動したのだ。
「あれ、そこの式、間違っているよ?」
晴樹は、ノートを指さす。
「ペン、借りるね」
高橋からシャーペンを借りると、正しい式をノートに書き記した。
「おお、なるほど」
高橋は目を丸くして関心する。
「この問題はね――」
そこから、自然な流れで二人だけの勉強会が開始された。晴樹が先生、高橋が生徒。筆箱が落ちる、という事故がきっかけで開催された勉強会は、クラスの異物になることなく、教室の片隅でひそかに開催された。これなら、噂が広がることもないだろう。
「お似合いじゃない。あの二人」
いつの間にか、俺の近くまで来ていた彩音が、どこか満足げな顔で話しかけてきた。
周りにはクラスメイトがいる。彩音に応答してしまうと、クラスメイトからは虚空と会話するやべー奴に見えてしまう。なので、俺はノートに「そうだな」と書いて、彩音に見せた。
その文字を見た彩音は、寂し気な顔をして「そうか。周りに人がいるもんね」と呟いた。俺は申し訳ない気持ちになる。俺だって筆談なんか回りくどい事せず、ただ単純に彩音と会話したい。しかし俺にも世間体というものがある。周りからやべー奴だと判断され、クラスで孤立してしまう事態は避けたい。でも、彩音の哀しい顔はなるだけ見たくない。
だから、何か彩音の喜ぶことがしたくなった。
俺は、ノートに短い文章を書く。彩音のために綴る文字の羅列。
書き終えると、その文章を彩音に見せた。
――二人がああして、今、勉強をしているのはお前の成果だ。お前が居なければ、あの光景は存在していない。お前は現実に影響を与えた。お前は間違いなく存在している。
そんな文章を読み終えた彩音は、驚いたのか顔を赤くさせ、目を見開く。そして、なぜか足の裏で蹴ってきた。横腹に直撃する鈍い衝撃により、俺は椅子から転げ落ちてしまう。
「おい、大丈夫か!」
突然転倒した俺。クラスメイトが驚いた顔をして駆け寄ってくる。ソイツは俺の顔を見るなり、ギョッとした。
「響、何お前笑ってんだ。頭でも打ったんじゃないのか?」
その言葉を聞いて、今度は彩音がギョッとした。
「蹴られて喜ぶとか、ヤバ……」
ドン引きするように、顔を引きつらせる。
別に蹴られたから喜んでいるわけじゃない、と心の中で弁明する。
彩音が暴力をふるったり、キツい言葉を使うときは、大抵の場合、照れ隠しだ。嬉しさや喜びなどのプラスの感情を隠したがる。
俺が喜んだのは、彩音が嬉しそうだったからだ。
彩音のために書いた文章で、彩音が喜んでくれた。それが無性に嬉しかった。
「あ、そうか……」
あることに気付いた俺は、ハッとした思いで、そう呟いた。急に顔色を変えた俺の顔をクラスメイトが心配そうに覗いてくる。
「お前、本当に大丈夫か? 保健室、いや、普通に病院に行った方がいいんじゃ……」
俺は適当な言い訳をして、心配してくるクラスメイトをなだめる。外面では笑顔を取り繕いながら、意識は先ほど起こった気づきの正体に向いていた。
さっき気づいた事柄とは、ずばり俺が小説を書く目的だ。
特別に至るために、小説を書く。それは間違いない。だが、俺は己に小説の才能がないことを既に知っている。おそらく、このまま小説を書き続けたとしても、凡人である俺は特別に至ることはできないだろう。でも、その目的が絶たれた今でも、小説を完成させようと日々奮闘している。
それは、なぜか?
今、小説を書くのは、彩音のためだ。
彩音の希薄な存在を、確立させるために、完成を目指している。
彩音のために書くことを、決して忘れていたわけじゃない。その気持ちが自分に定着しすぎて、気づけなかったのだ。彩音の喜ぶ様子を見て、改めて気づいた形だ。
俺は、彩音のために、書く。ならば、それは、当然ながら彩音のための物語でなければならない。
――その物語が、世界を成しているかどうか
いつぞや、彩音に物語に対してなにを重要視しているか問うた時、そんなことを言った。
登場人物がその世界が物語であることを気づけないほど、その世界がリアリティを保っているのかどうか。たしか、そんな感じの意味だ。
ならば、その要望に応えるべきだろう。
彩音は夢物語を歩むことを望んではいない。辛いこと、思うようにならないことこそが、リアルだ。彩音は物語の世界でさぞ苦労することだろう。
でも、俺は、彩音には喜んでいてほしい。
仮に、彩音が不幸を望んでいたとしても、俺は彩音の幸せを願う。
ならば、目の前の困難を乗り越え、最後には、彩音が笑顔で終わるような、物語を書きたい。
彩音の神様は俺だ。
俺が絶対なのだ。
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