第12話

 高校生の三守彩音は、交通事故によって、記憶を失ってしまう。

 しばらく入院してから、学校へ戻る。以前の彩音はクラスの中心人物だったようで、クラスメイトはみんな親切にしてくれた。彩音はその親切の源は、記憶喪失以前の自分が積み上げてきた貯金のおかげだと考えた。今の自分が親しくするに値しない人間だと判断されれば、交流関係は破綻して、孤立してしまう。それを恐れた彩音は、周りの人間が望む言動を心掛け、スクールカーストを落とさないように努めた。

 クラスに、一人、不登校の女子生徒が居た。

 ある日、その彼女が学校へ来ていた。そして、あろうことか、彩音に話しかけてきた。

 彩音は周りの目を気にした。不登校の女子。スクールカーストで言えば、下の下だろう。そんな彼女と親しくしてしまえば、自分のランクも落ちてしまうかもしれない。

 だから、冷たく跳ね返した。

 後に判明することだが、彩音と不登校の女子は、仲がよかった。だから、否定する言葉を浴びた不登校の女子は、かなり傷ついた。

 彩音は自分のせいで不登校の女子は、再び不登校になるだろう、と考えた。だが予想に反して、不登校の女子は、学校へ通い続けた。

 それには理由がある。

「アンタの人間不信がちょっとはマシになるように、私は毎日アンタの家に遊びに行くから」

 記憶喪失以前の彩音の発言だ。

 不登校の女子は、自分の陰口をたまたま聞いてしまい、それがきっかけで人間不信になり、学校へと行けなくなった。そんな彼女を変えようとしたのが、彩音だったのだ。

「私が約束を曲げなければ、この世に一人くらいは信用できる人間ができて、学校へ行きやすくなるでしょ」

 宣言通り、彩音は彼女の家に通い続けた。交通事故に合う日までは。

 交通事故の情報を親づてに聞いた不登校の女子は、勇気を振り絞って学校へ来たのだ。

 だが、彩音からは以前の人柄が消え、別人となっていた。周りの目を気にして、自分を突っぱねるなんて、以前の彼女ならありえなかった。

 以前の彩音は、死んだ。

 あれは、姿や声は一緒だけれど、彩音ではない。

 不登校の女子は、そんな風に記憶喪失を捉えた。

 死んだのにも関わらず、葬式はない。本当の三守彩音の存在が、なんの儀式もなしに死んでしまうのは、不登校の女子にとって、見過ごせない事柄だった。消えた彩音が存在した証、そんなものを残したかった。

 彼女が考え、たどり着いた答えは、学校へ通うことだった。

 自分が学校へ通えるようになったのは、彩音のおかげだ。

彩音がいなければ、再び学校へ通えることはなかっただろう。

つまり、学校へ通う自分こそが、彩音が存在した証となる。

 そう考えた。

 その変化に影響されるのが、現在の彩音だ。

 記憶を失い、自分らしさ、と呼べるものが何もない。

 いや、厳密に言えば、現在の彩音にもアイデンテティはある。

 だが、周りの目を気にして、それを出せないのだ。

 自分が白だと思っていても、周りが黒だと言えば、周りの意見に合わせてしまう。彩音の本心を言えば、同調圧力に負けたくなかった。本来なら、自分のもっとも正直な部分に従って生きることが、正しい行いのはずだ。そして、自分の意見に対し、向かい風が吹いても、曲げずに信念を貫き通す。それが理想だった。

 不登校の女子は、学校へ通いだした。出る杭は打たれる。それを茶化す輩も出てくる。それらを無視して、不登校だった女子は、学校へと通い続けた。

 その姿は、彩音の思い描く理想に近い姿だった。

 感化された彩音は、変わろうとする。

 空っぽな自分を受け入れ、理想の自分へと近づこうとする。


「まだ、結末は考えれていない」

 俺は補足説明を加えた。

「現時点での、精いっぱいがそれだ。……どうしても、その先の展開が思いつけないんだ。でも、それが俺の気持ちを込めた本気のあらすじだ。どうだ?」

 心臓が脈打って、痛いくらいだ。緊張で喉はカラカラに乾いている。

 詩織の大きな黒目が、俺を捉える。彼女にとって、それはありふれた行為で、他意はないのだろうが、俺は蛇に睨まれた蛙のような気分になった。

 彼女の唇が、感想を言うために、動き出す。

 酷評に備えて、俺は身構える。

「これは、先輩にしか書けない話だと思います。いいあらすじですよ」

 詩織は、無表情でそう言った。

 いいあらすじですよ。

 詩織の言葉を心の声で反復して、ようやくそれを誉め言葉だと認識する。

 鼻の奥がツンとした。

 嬉しかった。

 本気でやった行いを、褒められたから嬉しかった。

 そんな喜びを、目の前の詩織に気付かれるのは、なんだか気恥ずかしかった。あふれ出てきそうな涙を引っ込めて、上がりそうな口角を無理やり下げて、なるだけ平坦な声色で「そうか」と頷く。

「先輩、喜ぶのはまだ早いですよ」

「は? 別に喜んでねーし」

「まだスタート地点に立ったばかりですよ。先輩は書くべき物語を見つけました。結末を書けていませんから、まだアイデアのような段階です。これを具体化していきましょう」

「次は何を考えればいい」

「物語で起こる出来事を考えてもらいます」

「プロットってやつか」

 詩織は頷く。

「『あらすじ』では、大まかな流れ、物語の方向性が決まりました。『プロット』ではディティールをさらに細かくしていきます。物語とは出来事の連続です。山あり谷あり、起伏のある出来事の羅列を作り、感動的なラストを迎える。そんな出来事の羅列を考えていきましょう」

「起承転結ってやつだな」

「その通りです」

 起承転結とは、物語の構成でよく用いられる四文字熟語だ。

「起」物語は始まり、

「承」事件が発生し、

「転」一番の山場を迎え、

「結」物語は結末を向かえる。

 ネット調べたかぎり、そのような意味だ。いまいち意味は理解できていないが。

 詩織の小説には抑揚がなかった。彼女自身、今の発言から察するに、抑揚を意識してあの小説を書いたに違いない。それでもできなかった。言うは易く行うは難し。実際に感情の爆発を生み出すような、起伏のある物語を創るのは、難しいってことだ。

「できるだろうか……」

 不安が吐露してしまう。

「大丈夫ですよ」

 あくまで平坦な声で励ましてくれる。

「先輩の考えてきた『あらすじ』には先輩ならではの気持ちがこもっています。ここまでできた先輩なら、『プロット』を考えることができ、きっと、小説を完成できます」

「でも、まだ、結末ができていない」

「それは『プロット』作りの過程で考えていきましょう。出来事の一つ一つを考えることで、物語とより深く向き合うことになります。その過程で迎えるべき終着点に辿りつけますよ」

 詩織の励ましは、不思議と説得力があった。

 部屋の床を埋めるほどの原稿を書いた彼女がそう言うのなら、自分の力量にそれなりの自信を持ってもいいのかもしれない。そう思えた。

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