第11話

 詩織の小説を読み終わった頃には時計の針は午前2時を示していた。

 自分が抱いた感想は「ちゃんと小説をしていた」だった。

 一気読みしたが、別に面白かったわけではない。本当だ。詩織は小説を書くとき、テーマが大事だ、なんて偉そうなことを言っていたが、この学園青春ものから、詩織の伝えたい「芯」なる部分は伝わってこなかった。それは多分、詩織の力量が不足しているからだろう。話も単調で、クライマックスに向けての盛り上がりなどはなく、淡々と物語は進んでいき、いつの間にか終わっていた。そんな印象だ。所詮は二次審査落ち。レビューを付けるなら星2つだ。

 だが、俺は一気読みをした。

 詩織の書いたそれが、一定のクオリティを保っていたからだ。たしかに、話は面白くなかった。だが、書店に並ぶ本には劣らない質の高さがあった。学生が書く作文ではなく、小説家の書いた作品だったのだ。俺はそれに驚き、読めば読むほど、それが明確化していくので、ページをめくる手が止まらなかったのだ。

 巧みな語彙が連なる上質な文章からは、詩織の努力が垣間見えた。鍛錬により太くなった「幹」が、作品の質を支えていた。

 なんだか、胸が熱くなる。

 夜中の2時。

 寝ないとまずい時間だが、俺は、あらすじを書くことにした。書くだけの勢いがあった。その勢いを作ったのは、詩織の小説だ。


朝日が昇るころ、俺は後悔していた。

眠くて瞼が重い。頭は泥をつめたように、働かない。

学校を休む選択を考えたが、書いたあらすじを詩織にいっこくも早く読んでほしかった。


 その日の授業はすべて寝て過ごした。だから、放課後まであっという間に時間が過ぎた。

 ずっと寝ていたおかげで、眠気は消え、放課後にはスッキリとしていた。鞄を担ぎ、図書室へと向かう。中には、あらすじが書かれたノートが入っている。

 柄にもなく、俺はドギマギしていた。詩織に会いに行くからではない。いや、会いに行くから緊張しているのは正しいが、甘い類の緊張ではなく、不安からくる緊張であった。

 夕べ書いたあらすじは全力で書いた。

 自分の内側をえぐって、物語に込めた。

 現時点で、これ以上は創れない。

 だからこそ、否定が怖い。

 もしも、詩織に「めちゃめちゃ駄目ですね」と言われたら、立ち直れない。

 

図書室に着いてしまう。

 引き戸を開ける手が鈍い。ここまで来て、何を怖がっているのだろうか。俺は吊り橋に一歩踏み出すような気持ちで、引き戸を開ける。

 最初はアウェイだった図書室も、すっかりなじみある場所へと変わった。図書委員であろう受付の顔も覚えた。一言も喋ったことはないが。

 奥へと進むと、そこに居ることが自然の摂理でもあるかのように、詩織は文庫本を読んでいた。木製の四人用の長テーブル。その一席に座り、彼女は静かに物語の世界へと沈んでいた。

 俺が対面に座っても、詩織は活字へと落とす視線を上げない。集中していて気づいていないのか、はたまた、小説と俺、天秤をかけて無視することを判断しているのか。前者であってほしい。

 本に没頭する詩織に声をかけて、あらすじを見てもらおう。

「…………」

 だが、なぜだか、言葉が喉につっかえて、声にならない。口をパクパクさせて、愛の告白に言いよどんでいるようだ。

 ここに来て、俺は怖気づいてしまう。

 頑張ったから、否定が怖い。なぜ、このような状態に陥っているのか。理由は明白。俺は今まで逃げてきたから、否定を覚悟して飛び込むことができないのだ。

 俺は今まで、弾いて、走って、投げて、歌って、いろんなことに挑戦してきた。

 それらを「才能」がないから、と途中で大成はありえないと判断して、見切ってきた。

 だが、それは「見切り」ではなく、「逃げ」だった。

 才能がないからできない。

 心の底から楽しめないから、できない。

 俺はそれらを理由に諦めてきたけど、

 結局のところ俺は、

 本気でやって、失敗することが怖かったのだ。

 余力を残して取り組めば「まだ俺は本気をだしていないだけ」と失敗した理由ができる。もし、仮に本気を出せば、と可能性を残すことで、逃げ道を作れる。

 だけど、己のMAXを出し切ってしまえば、そうはいかない。

 そうまでして労力を費やして、失敗してしまえば、もう言い訳はできない。失敗の二文字がダイレクトにぶつかってくる。ダメージは大きい。

 だから、無意識で最悪の結末を避けてきた。今まで逃げてきたから、この土壇場で怖気づいてしまっている。

 やめようか、と甘い考えがよぎる。

 詩織はまだ俺に気付いていないようだし、今日はとりあえずいつも通り接して、明日の自分に任せればいいじゃないか。などと、どう考えても駄目な方向へと考えが働く。

――先輩は、めちゃめちゃ駄目ですね。

 そんな声が、内側から聞こえた。過去に言われた、詩織の言葉。つまらないほどに純朴で、抑揚はないのに、強い意志があって、不思議と耳心地がよいソプラノ。

 本物は今も目の前で読書に没頭している。

 目の前に本人がいるのに、過去の詩織に叱られたのだ。なんだか頓珍漢な出来事に思えて、「ふふ」と笑えてくる。声に出して笑ってしまったから、さすがに詩織は俺の存在に気付く。独りでほほ笑む俺を見て、奇妙なものでも見るように怪訝な顔をしている。

「何独りで笑っているんですか、気持ち悪いですよ」

「うるせー、思い出し笑いだ」

 笑ったから、緊張がほぐれていた。俺は自然に会話ができていた。

「そういえば、詩織の小説を読み終えたよ」

「どうでしたか?」

 彼女の体が前へと傾く。

「正直、あんまり面白くなかったかな。展開に抑揚もないし、予想通りの話が、最初から最後まで続く感じだった」

「……そうですか」

 詩織は無表情ではあったものの、見るからに落ち込んでいた。その様子を見て、俺は心を痛めた。全力で書いたものを、酷評されるのは辛いだろう。でも、全力で書かれていた作品だからこそ、あえて、正直に感想を言おうと思った。それが一番詩織のためになるからだ。

 詩織の傷心を覚悟した上での発言だったが、落ち込む詩織を見て、申し訳なくなってきた。

「……俺さ、詩織に物語を摂取しろ、って言われてから、小説を読むようになったんだよ。でも、今まで小説なんか読んでこなかったから、読もうと思っても一日で20ページが精いっぱいでさ、全然読めないんだ。けど、詩織の小説は一気読みできた。なんて言葉にしていいのか、難しいけど、詩織の文章からはめちゃくちゃ熱を感じたんだ。小説への情熱、みたいな。面白くはなかったけど、紛れもなく詩織の小説は物語として世界が出来上がっていて、キャラクターが生きていた。やっぱり、小説の先生は詩織じゃないと、駄目だ。読んでみて、本当にそう思ったよ」

 俺は素直な気持ちを伝えた。心に抱いた尊敬の念。言葉に出してみたけど、三分の一も伝わった感じがしない。詩織は相変わらず無表情で、俺の言葉でどう思ったのか、まるで見当もつかない。俺は鞄に手を突っ込み、ノートを取り出す。

「あらすじを書いてきた。詩織に読んでもらいたい。頼む」

 俺がノートを差し出すと、詩織は頬を微かに緩ませた。

「頼まれなくても読みますよ。私は先輩の小説の先生なのですから」

 そうして、詩織は俺のあらすじ読み始めた。

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