第10話
やはり、まずいのではないだろうか。
上昇するエレベータの箱の中で、俺は自分の選択を後悔していた。
学校からの最寄り駅、その近くにある高層マンション。その最上階に彼女の家がある。そこへ向かっている。思考が億劫になるほど頭痛はかなりひどい。詩織に促されるままにエントランスを抜け、エレベータに乗ってしまったが、今更ながら、不安になってきた。
親が家に居たとして、娘が男を連れ込んできたとしたら、付き合っていると勘違いされる。間違いなく面倒な事態に陥りそうだ。それは避けたい。だが、頭が痛いのも事実で、この状態で帰るのはキツい。詩織の親から白い目で見られようが、休憩してきたい。
詩織が玄関戸を開けると、待っていたのは暗闇と静寂だった。人の居る気配はない。どうやら親はまだ帰ってきていないらしい。俺は静かに安堵した。
「そこで横になってください」
リビングへと案内されると、詩織はL字ソファを指さした。
「お言葉に甘えて……」
倒れるように横になる。目を閉じると、頭の痛みがより鮮明になる。ズキズキとメトロノームみたいに規則正しいタイミングで痛みが走る。
不意に、おでこに冷たく柔らかなひんやりとした感触がする。正体を確かめるために、目を開ける。どうやらそれは手のひらだった。そして、彼女が俺を見下ろす顔があった。詩織がソファに座り、俺のおでこに手を置いていたのだった。
「私の手は冷たいので、少しは楽になるでしょう。本当は発熱用のジェルシートがベストなのでしょうが、家にはないので、これで我慢してください」
彼女の言う通り、詩織の手はかなり冷たかった。頭の痛みが吸い取られていくようで、心地よかった。後輩に看病されているこの状態は、むずがゆくなるほど、恥ずかしい状態だったが、それ以上に、甘い感情が心を満たした。恥を覚悟して率直に言うと、詩織に甘えたくなったのだ。俺は目を閉じる。ひやりとした手のひらの感触がより鮮明になった。
そうしていると、いつの間にか俺の意識は落ちていった。
カタカタ……。
カタカタ……。
タイピング音がどこからか聞こえてきて、俺は目を覚ました。起き上がると、鉛のような鈍痛が消え、頭がとても軽く感じた。
部屋を見渡しても、詩織の姿はない。
カタカタ……。
別の部屋から、タイピング音が聞こえ続けている。寝起きのせいで、頭が働いてなかった。だから、とくに何も考えずに、音の鳴る方向へと向かった。
その音は別の部屋から鳴っていた。その部屋のドアは全開で、中がまる見えだった。
四角い部屋。両脇には本棚。本がビッシリと隙間なく並べられている。部屋の奥に詩織の後ろ姿がある。椅子に座り、PC画面と対峙しており、ただひたすらに打鍵を続けている。ここからじゃ、詩織の体が壁になって、パソコンの画面が見えないが、小説を書いているのだろう。
彼女のタイピング速度は、凄まじかった。マシンガンみたいに淀みなく、ずっとタイピング音が鳴り続ける。だが、それよりも、俺が驚かされたのは、部屋の内容だった。
床を埋め尽くすのは、原稿の山だ。足場などない。雪原のように床を支配していた。仮にたばこの吸い殻をここへ放り込んだとしたら、あっという間にこの部屋は炎が燃え広がるだろう。
そんな部屋の様子を見て、以前の俺なら「片付けくらいしろよ」と半笑いで注意していただろう。だが、今の俺は別の印象を抱いた。
――すげぇ。
素直に感心してしまった。
物語を書こうとして、俺はわかったことがある。それは、物語を考えることは、とても難しい、ってことだ。経験せずとも理解できるほど、当たり前なことだ。書く以前から、漠然とそんなことはわかっていた。だけども、実践して本当の意味で、それを知ったのだ。
物語を構築するには、あらゆる事柄を考えなければならない。
登場人物を一人作るだけでも、そいつの年齢や性格、生い立ちから現在に至るまでの過去など、幾千の事柄を考える。突き詰めると途方もない。それらを考え出すだけでも大変だが、矛盾点に注意しなくちゃならない。なおかつ、設定には意味を込めないと駄目だ。詩織の言っていた物語の「芯」ってやつを意識しなければいけない。
俺の場合、矛盾点どころか、設定案を練りだすところから苦戦している。だから、既存の作品を丸パクリしてしまうのだ。
今一度、床に散らばる原稿を見下ろす。
詩織の内からあふれ出た言葉の数々。
小さい体から、よくもまぁ、これだけの情報を吐き出せるものだ。
対して、俺には何もない。
これまで色々やってきたはずなのに、出てくるものは薄く脆い。
――めちゃめちゃ書きます。
彼女と出会ったときの言葉。発言した時の詩織は一瞬大きく見えた。その錯覚を引き起こしたのは、詩織が積み上げてきた努力が膨大だったからだ。
そろそろ認めるべきなのかもしれない。
俺自身、空っぽであることを。
好きこそものの上手なれ。
何事にも興味を持てない俺は、上手になることは無理なのかもしれない。
だが「特別になりたい」というこの気持ちは、失いたくない。
雑踏にまみれた人間になるのは、御免こうむりたい。
だけども、自分には、文才もないし、独創的で面白い物語を生み出す才能もない。
だとしても、やるしかない。
自分のなかに才能がないのなら、才能を補うだけのものを、代わりに用意する必要がある。
端的に言えば、努力ってやつだ。
才能がないからって嘆いていても得られるものはない。どんなに駄目でも、目の前の一つを必死にやるしか、大成する手段はないのだ。
俺は開いているドアを二回ノックする。
打鍵が止まり、詩織は振り向く。俺を認めると、顔をしかめた。
「無断で人の部屋に入るとは、無粋ですね。しかも女子の」
「ドアが開いていたから、仕方がないだろ」
「具合は良くなりましたか?」
「ああ、だいぶ楽になったよ。お礼に今度、何か奢らせてくれ」
「では、駅前で売っているチョコケーキがいいです」
相も変わらず、表情に変化はないのだが、微妙に声が弾んだ気がした。
「私がチョコケーキを食べてはいけませんか?」
今度は低くなった。発言に対し、俺が驚いたことが不満だったらしい。
「そんなこと言ってないだろ。甘いものが好きな印象がなかったから、意外に思っただけだ。なんとなく詩織は『甘いものなんて、食べる必要がありません。食事は最低限で十分です』とか言いそうなイメージだったからさ」
詩織は口をへの字に曲げた。
「私だって、甘いものは好きですよ」
そう不貞腐れると、くるりとこちらへ背を向けた。
「具合がよくなったのなら、帰ってください。執筆の邪魔です」
再び打鍵の音が鳴りだす。ピシャリとした物言いには慣れた。苛立ちは微塵も込み上げてこない。代わりに、別の感情が浮上してきた。感謝の気持ちだ。
詩織のおかげで、なにか大事なものに気付いたからだ。
家に着く道中、俺は自分の失態に気付く。
帰宅が遅くなるのに、家で待つ彩音に連絡をしなかった。
今頃、事情も知らず、家で独り、俺の帰宅を待っているだろう。何個か加えた設定のおかげで、怒ったり、不平不満をぶつけたりはしないだろうが、ただ単純に申し訳ない。
どう謝ろうか、頭の中でプランを立て、いかにも申し訳なさそうな顔を取り繕って玄関のドアを開ける。すると、玄関で彩音が待ち構えていた。どうやって察知したのかわからないが、俺の帰りを予測していたらしい。
「ごめ――」
「おかえり!」
俺の謝罪を遮るように、明るい声で彩音は俺の帰宅を歓迎した。
「晩御飯できてるよ。今日はオムライス! 自信作だよ!」
「あ、ああ……」
太陽のように明るい振る舞い。俺は謝罪のタイミングを逃した。
微塵も不満を抱いていない彩音の言動は、実に気味が悪かった。人間らしさがない。
「大丈夫だよ」
彩音は満面の笑顔をこちらに向ける。完璧すぎて作り物みたいな笑顔だ。
「響は連絡をせず、帰りが遅くなってしまったことに負い目を感じているようだけど、私はまったく気にしていないから、安心して」
それは安心できない発言だった。
不平不満があれば、怒ったり、機嫌が悪くなるものだ。こんなにも、俺にとって都合の良い言葉を並べる彼女は、まったくもって、人間らしさを欠如していた。
すべて、俺のせいだ。
以前から俺は、彩音の態度に不満があれば、ことあるごとに設定を書き加えていた。その結果がこれだ。俺に都合がよく設定された彩音。
現世に出現したばかりの彩音は、言葉は強くわがままで、今よりも人間らしかった。
どうしてこんなになるまで、放っておいてしまったのだろう。
「どうしたの? 本当に私、気にしていないから、不安そうな顔をしないでよ?」
彩音は心配そうに俺の顔を覗いてきた。
「ごめん、ちょっと俺、着替えてくるから、そのあと晩飯でいいか?」
「うん! わかった」
俺は二階の自室へと行くと、引き出しから彩音の設定ノートを取り出した。そこには、どこまでも俺に都合がいい設定が書かれている。「家を出ない」「料理をはじめとした、家事全般が好きで、器用にこなす」「文句を言いながらも、最後には俺の言うことをきく」「察しが良くて気が利く」「暗い顔を見せない」などなど、ご都合設定が書かれている。あらためて客観的視点で読むと、己のエゴで塗り固められたそれは、あまりにもひどい。何とも言えない罪悪感にさいなまれる。
俺は消しゴムを手に持つと、一つ一つ念入りに消していく。
「料理をはじめとした、家事全般が好きで、器用にこなす」の設定を消そうとしたとき、ピタリと手が止まる。これを書いたきっかけは、彩音があまりにもぐーたらと過ごしていたからだ。消してしまえば、あの彩音に戻ってしまう。それはどうしても避けたかった。
――……まあ、これくらいは残してもいいだろう。
ということで、この設定と元から書いてあった二行の設定以外のすべてを消した。
「うっま! やっぱり、私は料理の天才かも」
一階のリビングへと戻ると、彩音は先にオムライスを食べていた。自ら作った料理を頬張り、褒めたたえている。俺に気付くと、スプーンをこちらへ向けてきた。
「降りてくるの遅すぎ、先に食べてるからね」
不満をぶつけてくる彩音を見て、俺は安堵して、顔をほころばせてしまう。
彩音はそんな俺を、気味悪いものでも見るように、顔を引きつらせる。
「何ニヤついてんの、気持ち悪い」
「笑って『気持ち悪い』は流石にひどいだろ。嬉しかったら、誰だって笑うさ」
「嬉しい? 何が?」
「なんでもないさ」
俺は彩音の向かいの席に座る。俺の分のオムライスが用意されている。それをスプーンですくい、口へ運ぶ。予想に反して、冷たかった。
「おい、これ冷めてるじゃないか」
「温かい料理も時間が経てば冷める。当然でしょ」
「温めなおしてくれ」
「嫌よ。面倒くさい。自分が食べるものくらい、自分で温めなさいよ」
「俺だって動くのは面倒くさい。神様からの頼みだぞ。言うことをきけ」
「っは、神なんてクソくらえよ」
そう言い放つと、彩音は大きな口を開けて、オムライスを平らげる。
俺は仕方なく自らレンジで温めることにした。一度座ったのに、再び立ち上がるのは、少々面倒に感じたが、不思議と嫌な気分はいっさいなかった。
「今日は映画、見ないの?」
彩音は残念そうな顔をした。設定を消しても、以前のルーティンは覚えているらしかった。
「ごめん、どうしても今、読みたいんだ」
もはや、食後の映画鑑賞は我が家の習慣と化していた。晩御飯を食べ終わり、彩音が皿を洗う。その間に、俺は借りてきたDVDをプレイヤーにセットする。レンタルDVD特有の本編前の予告映像をスキップしておく。洋画なら吹き替えの設定にしておく。彩音が皿を洗っている間に、本編を再生できるように準備しておくのだ。
彩音は洗い終わった皿を棚へと戻すと、俺の隣に座る。それを合図に俺はリモコンの再生ボタンを押す。映画がはじまる。それがいつもの流れだ。
だが、今日に限っては、DVDをセットしなかった。
「読みたいって、何を?」
「詩織が書いた小説」
彩音はクスリと笑う。
「アマチュア小説を読むより、映画を観る方が有意義じゃなかったの?」
俺が以前に吐いた台詞だ。痛い所を突いてくる。
「なんというか、まあ……考えが変わったんだよ」
「ふぅん」
彩音は俺の心を見透かすように目を細める。
「詩織ちゃんの小説、読んだけど、面白くて泣いちゃったよ」
「お前は、物語ならなんでも泣くだろ」
俺の発言に彩音はムッと頬を膨らませた。
「なんでも感動するわけじゃない。私にだって、基準があるんだから」
「クソ映画でも泣いていたお前が、どんな基準を持っているっていうんだ?」
「その物語が、世界を成しているかどうか」
こいつは変に難しい言葉遣いをする。いまいち意味がピンとこなかった。それを察してか、彩音は補足を付け加える。
「登場人物たちの生きる世界が、その世界はフィクションだと気づかないほどに、ちゃんと出来上がっているかどうか」
「世界観の設定が凝っている、ってことか?」
彩音は首を振る。
「そうじゃない。例えば、もし、響が明日、目が覚めた時に、あらゆる才能を手に入れていて、やることなすこと、すべてが上手くいくようになったとしたら。それを現実だと思える?」
「思えない。夢か何かだと思うだろうな」
「だよね」彩音は笑みをこぼす。
「現実は理不尽で、そっけなくて、うまくいかないことが多い。物語と言っても、そんなリアルを描かれてなければ、登場人物が生きているとは言えないと思う。詩織ちゃんの小説はちゃんと、みんな、生きていたよ」
彩音が口にした「みんな」には、友達の名前を呼ぶ時みたいな親しみがあった。
「神様も、私の物語を書くときは、ちゃんと私を生かしてよね」
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