第6話
「なんだよこれ……」
俺はリビングに入るなり、部屋の惨状に唖然としてそんな言葉を吐いた。
「おい、彩音! これはどうなっているんだ!」
ソファに寝そべっていた彼女は、ナマケモノみたいにトロい動作で顔を俺の方へ向ける。
「あ、おかえり」
「なんだよこの状況は!」
「んー」
彩音は部屋を見渡す。
食卓の上には朝ごはんの皿がそのまま放置されていいて、ついでに、彩音が昼に食べたであろうカップ麺の空き容器が置いてある。床にはポテトチップスのカス所々に落ちており、食べ終わった空き袋も床に放置。ポテチでベタついた指を拭くために使用したであろうティッシュ、やはりこれも床に落ちている。
「別にいいじゃない、これくらい」
「よくない。ゴミはゴミ箱に捨てろ。使い終えた皿はなるだけ早く洗え、汚れが取れにくくなるだろ」
「あとでやろうと思っていたのよ」
「嘘だ。『あとでやろう』は、やらない奴の常套句なんだよ。今すぐやれ!」
「嫌よ。そもそも皿の洗い方なんか知らない」
「はぁ? そんなの普通、わか――」
と言いかけたところで、彼女は普通ではないことを思い出す。
口を動かすのは疲れた。言ったところで、彼女は動きそうにもない。もっと手っ取り早い方法がある。俺は二階の自室へと向かい、引き出しから彩音の設定が書かれたノートを取り出す。そして、殴り書き書きで設定を書き加える。
・料理をはじめとした、家事全般が好きで、器用にこなす。
ウィーン、と一階から掃除機の音が鳴り始めた。どうやら、彩音は掃除をはじめたらしい。
しばらくしてから、リビングへと降りると床に散らばっていたゴミは消え去り、食卓の上にあった皿は片付けられていた。彩音は台所でなにやら食材を切っていた。
「晩御飯、炒飯でいい? と言っても、もう作り始めてるから嫌だと言っても炒飯だけどね」
そんなことを言いながら、トントンと固い音を鳴らしながら、玉ねぎを切っている。
「あ、ああ。任せる」
俺はしばらくずっと一人暮らしを続けていた。一人暮らしとは、すべての家事を己で行わなければならない。そんな過ごし方をしてきた自分にとって、台所に誰かが立ち、自分のためにご飯を作ってくれるこのシチュエーションは、なんだか感慨深いものがあった。
「はい、お待たせ」
しばらくして、炒飯は出来上がった。彩音が置いたそれは黄金色に輝いていた。卵にコーティングされた米たちは、艶やかで生き生きとしている。口に運ばずとも美味しいことが目だけでわかる。
「いただきます」
レンゲで黄金の粒たちをすくいとり、口へと運ぶ。
「んま……」
絶妙な旨味が口いっぱいに広がり、感嘆たるため息が漏れる。味の一滴までも味わい尽くすように租借し、ゴクンと飲み込むと、手は半自動的に動き、次を求める。早く次へ、次へ、幾度も繰り返していると、あっという間に皿は空になっていた。
対面に座る彩音は、期待した眼差しを向けてくる。
「で、どうだったのよ」
どうやら感想を求めているらしかった。
「めっちゃ美味しかったぜ。人生史上最高の炒飯だ」
誇張表現ではなく、正真正銘、それくらい美味かった。だが、表現が胡散臭かったのか、彩音は鼻で笑う。
「嘘くさ、大げさすぎでしょ」
余裕そうな笑みで受け流すような素振りを見せているが、口角がかなり上がっており、笑みを超えニヤけている。内なる喜びを隠しきれていなかった。
カタカタ……
自室にて、文庫本の文字をひたすらパソコンに打ち込む。本当ならば、文章を盗むつもりで行うべき作業だろうが、頭は別のことを考えていた。
彩音の変化、設定ノートの効力についてだ。
彼女にとって、設定ノートの存在は絶対だ。あそこに書き加えたことは必ず彼女に影響を及ぼす。行動は制限され、できないことをできるようになり、これは現段階では仮説だが、性格すらもノートに書いた通りに動くだろう。
それは例えば、「俺に恋をする」だとか。
唐突に出てきた、黒くて甘ったるい己の欲望。ノートに一行の文を書くだけで、自分に恋する美少女との共同生活、という桃源郷へとたどり着ける。それは手を伸ばせば着実に掴める。
「いや、それは流石にキモいな」
あえて声に出す。じゃないと、誘惑に負けそうだった。
ふぅ、と一息ついて、背もたれに体重を預けると、ギシッと勉強椅子がきしむ。不意に空虚な気分が込み上げてくる。虚しい、って気分だ。
――俺は、彩音をどうしたいのだろう?
ふと、そんな疑問が湧いた。答えを探しても、宇宙に放流されたように、明確な回答へはたどり着けなかった。単純に、自分はその答えを持ち合わせてなかった。
唯一ハッキリしている指標はあるとすれば、彩音が自分の邪魔になることは避けたかった。だからこそ、行き当たりばったりに設定を書き加え、自分の安全圏を獲得する代わりに、彩音の尊厳を犯しているのだ。
客観的に見て、最低な行為だ。
だが、いっそ最低な行為を行うなら、己の私利私欲のための設定をノートに書き加え、極悪非道へと振り切ったほうが清々しい気がするが、ハッキリとした思想がない俺は、彩音の行為を制限する程度に留まっている。なんというか、中途半端だ。
結局、そこから見えてくるのは、己の弱点だ。
高校球児は何を目指しているのか。決まっている、甲子園だ。
バンドマンは武道館を目指しているかもしれないし、
白鳥詩織は小説家を目指している。
彩音は自分の存在を獲得するために、この世に具現化した。
――じゃあ、俺は?
俺は、特別になろうと努力している。
特別。
例に挙げたそれらに比べ、明らかに漠然としている。具体性が薄いから、脆く感じる。落とせば粉々に砕けるガラス細工のようだ。
わかってる。他と比べ、俺の目標は、淡く脆い。一貫性がないことは己が一番理解している。だけども、心の底から熱中できるものがないのだから、己の存在意義を託せるほどの大事なものがないのなら、手当たり次第にやるしかないだろ。
憎しみに似た黒い感情が、萎えてたやる気を奮起させる。
背中を真っすぐに伸ばし、パソコンに再び対峙する。そして、小説の模写を再開する。
カタカタ…………
まったく楽しくない作業を夢に近づく一歩だと信じて、再び歩き出した。
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