第5話

 家に帰ると、まず、泥棒が忍び込んでいないか彩音に家の中を確認させた。透明人間の彼女なら、仮に泥棒に遭遇したとしても、安全だ。

「誰もいないわよ」と彩音の報告を受けて、俺は安心して家の中に入った。緊張が解けると、ドッと溢れた疲れが、体を重くさせた。リビングに着くなり、胴体を落とすようにソファに座り込んだ。午前中の昼間、まっさきに学校から帰宅したというのに、気分はまるで重い。

さて、どうしたもんか。議題の内容は、彩音の扱い方だ。

 彼女は今朝、自分を赤ちゃんと一緒、と言っていたが、あながち間違っていない。純朴と言えば、聞こえはいいが、常識に欠けている。彼女は普通でないのだから、仕方がないことだけど、一般的な17歳女性とくらべて、明らかに未成熟である。その証拠として、帰宅するなり己の失態を恥じることなく、テレビの電源を入れ、ワイドショーにくぎ付けになっている。彼女にとってテレビ番組は実に新鮮なのだろう。MCのちょっとしたギャグにすらもゲラゲラ笑っている。その様子を見ていると、苛立ちよりも諦めが先行する。口で言ったって彼女の素行は改善しないように思えた。彼女を形成しているのは、テキトーな設定だ。どうすることもできないのかもしれない。

「…………ん?」

 今、何かとっかかりが見えた気がした。そう、彼女を形成しているのは二行だけの設定。だから彼女は未熟なのだ。じゃあ、加えたら、どうなる?

 妙に心がワクワクしてきた。

 ついさっきまで鉛のように重かった体には、期待感によって躍動が生まれた。テレビにかじりつく彩音をリビングに残し、俺は二階の自室へ駆け上がる。部屋へ入るなり、彩音の設定イラストが描かれたノートを勉強机の上に広げ、右手にシャーペンを持つ。

 とりあえず「家を出ない」と設定と書き足した。

「…………」

 なんだろう、この設定は。俺はこれから、彩音を主人公にした小説を書く。そんな主人公に「家を出ない」という設定があるのは、どう考えてもおかしい。引きこもりを主人公にして、面白い物語を描けるわけがない。

 とは言っても、現実問題、彩音が家から出ないのであれば、俺の立てた仮設が正しく、設定を書き加えて、実在している彩音に影響を及ぼすのなら、悩みの一つは消える。俺にとって都合のよい設定。残しておくほうがいいだろう。

 ワクワクしていた心は、なんだかすっかり冷めてしまった。5文字書く程度の労力で、満足できるはずもない。苦労して山を越えてこそ、真の達成感を得られるのだ。

 俺はノートパソコンの電源を付け、文庫本を開いた。小説の模写を早く完了させ、詩織から小説の書き方を教えてもらい、小説家という特別な存在に至るのだ。

 カタカタと文庫本の文字をパソコンへ移す。千文字書いたところで、さっそく単純作業に嫌気がさしてきた。だが、不思議と作業をやめようとは思わなかった。

 慣れによるものか、もしくは彩音との出会いが、小説を書く目標をより具体的かつ強固なものにしたのかもしれない。傍若無人で未成熟な彩音との共同生活は面倒くさい。だが、それは過去に書いた俺の設定があまりにもテキトーだったからだ。あの時、本当に漫画家を本気で目指し、彩音を主人公に一つの作品を完成させていたならば、彼女は中途半端な存在にはなりはしなかっただろう。元をただせば、自分が招いた結果だ。

 だからそれなりに責任を感じている。嫌だからやめるなどと言える段階ではない。俺が小説を書かなければ、彩音の存在はずっと希薄なままだ。彩音の命が灯るか灯らないかは俺次第。だから、書くしかないのだ。


 翌朝。

 俺と彩音はリビングのテーブルにて、向かい合って食事をしている。朝食はベーコンを乗せたトーストと目玉焼きという簡単な献立だ。俺が調理した。彩音は料理ができない。設定に「料理ができる」と書かれていないからだ。

 彩音はもぐもぐとトーストを食べながら、興味深そうに朝のニュース番組を見ている。暗い明るいを問わず、様々な色をしたニュースがモニター越しに報じられる。彩音はそれらの情報をダイレクトに受け取っているらしく、明るいニュースであれば、表情を明るくさせ、暗いニュースであれば、悲しい表情になり、小難しいニュースでは顔をしかめていた。

 対して俺は、世の中の動きに見向きもせず、彩音の横顔を観察していた。昨日「家を出ない」と設定を書き加えた。その効力がいかほどのものか知りたい。なので、俺は彩音にある提案をしてみる。

「今日、一緒に学校に行くか?」

「え!?」

 彩音は弾かれたようにこちらを向く。

「そりゃもちろん! 行、い、イ――」

 らんらんと輝いた笑顔が、じょじょに曇ってゆく。それは困惑の表情だった。

「行かない。家に居る方がいい」

 ゾワッと背中に鳥肌が立った。

 ノートに書いた設定が、たしかに目の前の彩音に影響を与えていた。それはつまり、あのノートを利用して、彼女を完全に操ることができるということだ。

絶世の美女を思いのままにできる状況なわけだが、浮かれる気分にはなれなかった。むしろ、畏怖していた。分不相応とか、身に余るとか、そういう言葉が頭に浮かぶ。自分が人を操る力をうまく扱えるとは思えない。便利で甘美な誘惑が漂う。人道を外れる気配しかない。もう、二度と設定を書き加えるべきではない。

とにかく、このことは彩音には内緒にしよう。己を形成する性格や思考などが、他人の手中にあるのは気分が悪いものだ。なおかつ、俺が彩音の知らぬ間に思考を書き換えたことを知られたら、彼女に嫌悪され、俺らの関係は破綻するだろう。一つ同じ屋根の下で過ごすのだ。いらぬ争いは起こしたくないし、仲違いによって、家の中の空気が重くなるのも避けたい。

だから、ノートのことは、彩音には内緒だ。

俺はそう、決心した。


 授業と授業の合間、移動教室のため、廊下を歩いていると、向かいから詩織が歩いてきた。それなりに近い距離まで近づくと俺は「よう」と片手を挙げて挨拶する。詩織は立ち止まってペコリと礼をしてきた。

「進捗はどうですか?」

「シンチョク……?」

「物事の進行状況を指す言葉です」

「ああ」

 つまり、小説の模写の進み具合を聞いてきたのか。

「たしか昨夜で60ページまで書いたから、だいたい四分の一は完了しているな」

 昨日は早退し、なおかつ、そりなりに遅い時間まで書いていたので、昨日だけで60ページほど進んだ。全部で274ページ。期限はあと5日。

「いいペースだろ。締め切りには絶対、間に合うぜ」

 詩織の眉がピクッと動く。

「先輩、期限に間に合えば問題ない、と考えていませんか?」

「え? そりゃな」

「めちゃめちゃ甘い考えですね」

「は?」不躾な回答に少々イラっとしてしまう。

「本当に小説を書く気があるのなら、一刻も早く終わらせるために最善を尽くすはずです。先輩からは、そういった焦りや気迫がまるで感じられません。本当に書く気、ありますか?」

 真っ向からの否定。彼女の言い分は多少なりと理解できるが、ひと回り小さい後輩女子が先輩に向かって言うには、かなり生意気な発言であった。

「書く気があるから、模写しているだろ」

「その条件はあくまで最低条件ですよ。言われたことをそのままやるなんて、誰にでもできます。小説とは創作です。自らで試行錯誤を繰り返し、練りに練った物語を文章で描く芸術です。出された課題をそのままこなす人間には、決してたどり着けない境地です。断言します。そのままの意識では絶対に小説は書けませんよ」

「…………」

 俺は黙った。口を開けば、怒りに任せどんな罵詈雑言が飛び出るのか、わかなかったからだ。

「――でも、約束は約束なので、課題を完遂すれば、小説の書き方は教えますよ。…………では、長話をしていると、次の授業に遅れますので、失礼いたします」

 詩織は馬鹿丁寧に腰を曲げ、頭を下げてから、遠ざかっていった。俺は歯を食いしばりながら、小さくなっていく背中を眺めていた。


――俺らが本気でぶつかっていることを、手段に使うなよ。

 俺がドラムに挑戦していた頃、バンドメンバーに言われた一言だ。たしか、ボーカル兼ギターを担当している二つ上の先輩だ。そのころ、俺は中学三年生。高校受験を控えているのにもかかわらず、高校生のバンドグループに交じってドラムを叩いていた。

 目的はもちろん特別に至るためだ。プロのドラマーになり、脚光を浴びるため。本当は歌手がベストだったが、それ以前に己には歌の才能がないことを認識していたので、今度はドラマーを目指そうと思ったのだ。

 練習場所は、ボーカル先輩の家。庭が広い一軒家の一室、10畳くらいの畳部屋にドラムやアンプなどの機材が揃えられていた。メンバーは俺とその先輩を含めて全員で4人。みんな俺より年上の高校生。暇さえあれば、ボーカル先輩の家に集まって、音を鳴らし、汗を流していた。

 タコができるほど打ち込んだ。寝るとき、ドラムの音が耳に残り、眠るのに困ったものだ。でも、数ヵ月してから、自分の伸びしろの限界に気付いた。自分にはドラムの才能がないと自らで判断した。

「やめる? どうしてだ!」

 ボーカル先輩に脱退を告げると、かなり驚かれた。

「楽しくなかったか?」

 そう問われたとき、どうしてか心がざらついた。

 まったくの初心者からスタートし、できないことをできるようになる過程は楽しかった。だが、ドラム自体を楽しんだことはない。演奏しているとき、俺はいつも冷静だった。外はジャンジャガと素人演奏でうるさいのに、心中は凪のように穏やかだった。熱中せず、ただこなしているだけだった。だけども、俺以外の三人は、よく笑っていたし、ギター、ベース、キーボードを鳴らす三人は、完全にそれにのめり込んでいた。そう、熱中していた。俺はそれが羨ましかった。妬みの感情が湧き出るほどに。

 今にして思えば、心がざらついた理由はそのへんにあるのだと思う。

 だから、言わなくてもいいことを言ってしまった。

「俺がなりたいのは、特別な存在なんです。ドラムはその手段でしかありません。特別になれるのなら、なんだっていい」

 自分が目指すのは、楽しいとか、楽しくないとか、そういう次元ではない。先輩たちの演奏や歌声は紛れもなく素人のそれであった。とても、特別にはなれない。それに気づかず、楽し気に熱中する先輩たちを心の奥で見下していた。図らずもそういう気持ちが声色に含んでしまった。

 ボーカル先輩は一気に不機嫌になった。

「俺らが本気でぶつかっていることを、手段に使うなよ」

 その会話が決定的な亀裂となり、バンドを脱退。あれからメンバーたちとは音信不通。

 俺だって、本気で特別に至るために努力している。だが、どうしてか、詩織しかり、一つの事柄を熱中している人間にはその行為を卑下される。

 カキン!

 金属音によって、記憶の海から現実へ戻される。空は茜色に燃えている。下校時間。右手にあるグラウンドで、高校球児たちが甲子園を目標に練習している。金属音はボールを打った音だった。低く鋭い打球、内野手が横に飛ぶ。白い閃光をミットが遮る。ダイビングキャッチは成功。土煙のなか、泥だらけの内野手が白珠を納めたミットを天に掲げると、野球部一同が歓声を上げ、彼を称賛した。

 心がざらつく。

 俺だって、追うべき白球があるのなら、必死に食らいつくのに。

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