第4話

「帰って早々また行くのかよ」

「ああ、父ちゃんもまだこの家に居たいが、戻らなくちゃならん」

 翌朝、親父は再び出張へと旅立つらしく、その門出を俺は玄関で見送っている。夕べ帰ってきたと思ったら、とんぼがえり。 

彩音がいるから、親父のとんぼがえりは正直都合がいい。透明人間だとは言え、彩音は正真正銘生きている。飯や風呂などは必要で、親父がいると、トラブルを避けようとしても起きてしまうだろう。そういう方向から見れば親父の不在は助かる。

 しかし、親父と一緒に居たい気持ちが俺の中にはある。率直に言ってしまえば、寂しい。

「悪いな。お前には迷惑をかけてばかりだ」

 親父の顔に影が差す。親父の帰宅は珍事に該当するほど少ない。その分、家の管理は俺がやっている。そのことを詫びているのだろう。

 行ってしまえば、帰宅はきっとはるか先の出来事だろう。しばらく顔を見れなくなるのだ。暗い顔で別れたくはない。

「別に。親父が居ないと家は広いし、自由で気楽だから平気だぜ。むしろ、このまま帰ってこなくてもいいくらい」

 思ってもいないことを言ってみる。

 親父は「お前は、親不孝者だな」と笑って言う。そうやって、笑ってくれたことに俺は、ひそかに安堵する。

「体に気をつけろよな。じゃあ、行ってくる」

 親父はそう言い残し、再び出張へと旅立った。俺は玄関ドアが閉まりきるまで親父の背中を見届けた。

「仲のいい親子ね」

 振り返ると、彩音が佇んでいた。一部始終を見ていたらしい。親子水いらずの会話を他人に聞かれるのは、なんだか恥ずかしものがある。「仲がいい」と評されるとなおさらだ。

「普通だろ、これくらい」

 俺は思春期の高校男子らしく、ぶっきらぼうに答えた。

「普通なんか知らないよ。私、空っぽなんだし」

 彩音の言い回しには、どこか厨二病めいた痛い気配があった。だから俺は、ちょっと小ばかにしたように「空っぽ? なんだよそれ」と半笑いで返答した。だが、思いのほか彩音は暗くシリアスな顔をしていたので、俺は軽く驚いた。

「私は正真正銘の空っぽよ。あるのは、名前と姿とテキトーな設定のみ。過去も未来もない、前も後ろも空白状態。そんな私が、家族の普通を理解できるわけがないでしょ」

「じゃあ、お前、家族がいないのか?」

「話聞いてた? 居るわけがないでしょ。……いや、いるのかも? というか、それを決めるのよ。アンタが小説を書かない限り、私を取り巻くすべての事柄が不確定状態なの。神様がなにもしなければ、私は何もない空っぽ状態のままなのよ」

 ここでようやく俺は、己に課せられた課題の大きさと重みを知った。

 小説を書く行為とは、すなわち、主人公を取り巻く環境、人物関係、世界、そのすべてを創造する、ということだ。とてつもなく大ごとに思えてきた。

 さらに、昨夜「小説を完成させる」と彩音と約束をした。片道切符の電車は走りだしたのだ。退路はすでに絶たれた。無謀に思えても、とにかく書くしかない。

 途方に暮れた気分で呆然としていると、彩音に肩を叩かれた。

「そろそろ学校へ行こ。そろそろ出る時間でしょ」

 たしかにその通りだった。朝飯と制服への着替えは既に済ませてある。あとは出発するだけの状態だ。俺は玄関付近に置いた鞄を手に取る。

「じゃ、留守番よろしくな」と軽い調子で彩音に告げると彩音は「え?」と虚を突かれたような表情をした。

「私も学校へ行くんじゃないの?」

「いや、なぜそうなる。お前が学校へ行っても仕方がないだろ」

「家に独りなんて寂しいし、つまんない」

「17歳のくせに、子供みたいなこと言うなよ」

「歳はただの設定。私には断定された過去がないんだし、赤ちゃんみたいなものよ」

「すげぇ、超理論……」

「お願い、この通り!」彩音は手を合わせて、懇願した。「響以外の人間には、私が見えないんだし、何も問題はないわよ。だから、一緒に行ってもいいでしょ」

 彩音はうるんだ瞳で上目遣いをする。

「ぐっ!」

 彩音は美女である。それも超ド級、現実離れした絶世の美女である。そんな彩音が懇願してくるのだ。頬は緩み、甘い気持ちが込み上げてきて、つい、許してしまいそうになる。

 そんな緩んだ心を引き締め「いや、待てよ」と努めて冷静に事を考える。

 彩音は他の人間から見えないかもしれないが、昨夜、俺の頬をつねったように、物には触れることができる。コップを持ったり、ドアを開けたり、現実に干渉できるのだ。

 人との接触も可能かもしれない。例えば、彩音が廊下で誰かとぶつかったとする。すると「見えない何かがいる」という事実が、学校中に広がり、パニックを引き起こすかもしれない。教師が警察に連絡し、その警察も対処に困り、果ては未確認生物保護機関たる謎の組織に要請を促し、防護服に身を包んだ集団が彩音を駆除しに学校へ訪れるかもしれない。

 ちょっと考えが飛躍しすぎたが、彩音が学校へ来ることによって、大なり小なりトラブルが起きる可能性が生まれる。その時、対処を強いられるのは俺だ。面倒ごとは増やしたくない。

「駄目だ! 彩音はお留守番!」

 俺が否定すると、彩音はショックを受けた。残念がる表情にみるみると怒りが灯る。

「なんで駄目なのよ。納得できる具体的な説明をしなさいよ」

「面倒が増える。以上! 俺もう行くからな!」

「ちょっとぉ! 話はまだ――」

 俺は逃げるように外へ出る。彩音の文句を玄関戸で蓋をして、学校へと向かう。


「――であるからして……」

 教壇に立つ教師の声はどこか遠い。授業になかなか集中できない。窓際に座る俺は、気が付くといつの間にか窓の外を眺めてしまっている。心ここにあらず。

 不安なのだ。彩音が気になっている。

 朝はごく自然に彩音に留守番を任せてしまったが、よくよく考えると彩音とは昨日出会ったばかりの赤の他人なのだ。自分が創った架空の人物と言えど、信頼できない女に家を任せてしまったことを今更になって不安に思えてきたのだ。

 まさか、盗みを働いているのではないだろうか。って、彩音が窃盗をしたところで、メリットはないか。そんなことはしないだろう。それよりも一番不安なのは、施錠せずに外出していないかどうかだ。朝、彩音は己のことを「空っぽ」だと言った。過去も未来もなければ、モラルや常識すらも持ち合わせていないかもしれない。好奇心を優先して、探索に出かけていても不思議じゃない。

 なんだか、不安がさらに大きくなって、腹の奥が重たくなってきた。

 相も変わらず外を眺めていると、あやふやであった不安が確証的なものに変わった。窓から見える風景の中に、見知ったポニーテールの少女が歩いていたからだ。後ろで束ねた髪を揺らしながら辺りをキョロキョロと見渡し、目を輝かせている。

 彩音だ。どうやって場所を知ったのか、学校へ向かっているらしい。

 彼女の姿を目視してすぐに、俺は弱々しく手を挙げた。

「どうした、沢渡?」先生が俺の挙手に気づく。

「具合悪いんで、保健室行ってもいいですか?」

 先生はその嘘をとくに疑うことをせず、快く了承してくれた。

 病人らしく、いかにもふらついた足取りで教室を出る。教室から離れ、足音が届かない場所まで来ると、俺は彩音の元へ走って向かった。


 彩音は俺を見つけると、安堵したように「響!」と俺の名を呼んだ。場所は玄関、授業中の閑散とした玄関に彼女の声が響く。

「留守番って言ったろ」

「家にいるなんて暇。外の世界が気になって仕方がなかったの」

 彩音はとくに悪びれた様子もない。そもそも自分の行いを悪いと思っていないようだ。俺の苛立ちがさらに濃くなる。

「だからって、鍵を開けっぱなしにして、外には出ないだろ。泥棒に物を盗まれたら、どうするんだ?」

 ここでようやく彩音の表情に切迫感が生まれる。事の重大さに気づいたらしい。

「ヤバい、早く帰らないと!」

 彩音は今更になって、そんなことを言った。そんな彩音を見て、俺はなんだか諦めたような気持ちになり「ああ、帰ろう」と惰性で答えた。

 その日、俺は早退した。

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