第3話
夜、自宅の自室。詩織から借りた239ページの小説、その内容をカタカタとノートパソコンへと打ち込んでいた。
文章を読んで、そのままパソコンへ打ち込む。読んで、打ち込む。それをひたすら繰り返す。とにかく退屈で終わりの見えない作業。正直、もう飽きている。
普段からパソコンで長文を打つことがないので、疲労により指の付け根が痛い。ブルーライトと細かい文字のせいで、目も疲れてくる。なにより、作業内容がまったくもって微塵も面白くないので、ストレスで下腹部が泥を抱えたように重い。
「もう嫌だ……」
打鍵をやめて、背もたれへと体重を預ける。進捗は12ページ。序盤も序盤、物語が動くどころか、登場人物も出揃っていない。それなのに、もう、うんざりしている。
本当に、こんなことをしていて、意味はあるのだろうか?
俺は図書室での出来事を思い出す。
詩織は、模写をするにあたって、意識すべきポイントを教えてくれた。
「模写は立派な勉強です。著者の技術をすべて盗むようなつもりで、真剣に向き合ってください。文章のリズム、物語の仕組みを理解することを心掛けてください」
文章のリズムはなんとなくわかる。だが、
「物語の仕組みってのは、なんだ?」
「物語は自由に見えて、実はパターンがあるのです。起承転結や序破急と言った言葉を耳にしたことはありませんか?」
「ああ、なんとなく」
「端的に言えば、展開のテンプレートです。
起――物語の序盤。主人公の現状や性格の説明。
承――物語の発端。事件やトラブル、読者をひきつけるような強い出来事が起こる。
転――物語の決着。一番の山場。事件の真相やトラブルの解決。
結――物語の終焉。物語を経て、主人公や環境はどう変化したのか。結果。
分解して簡単に説明すると、こういった感じでしょうか」
「…………なるほど」
俺はあまり物語を扱った媒体に触れてこなかった。読書はしないし、映画もそれほど見ない。ゲームだってオンライン対戦が主。なので、詩織の説明を聞いても、あまりピンとこなかった。
「先輩はパソコンを持っていますか?」
「ああ、持ってるよ」
「では、パソコンで模写してください。手書きよりは楽でしょう。なので、期限は5日にしましょうか」
「は、早くないか?」
「長いくらいです。やる気があれば、すぐに終わります。所詮、書き写しですから」
そういうわけで、期限は5日間。正直な話、できる気がしない。こんな面白くもなく、つまらない作業を強いられるのなら、わざわざ詩織に教えてもらわなくてもいいのでは? と己から提案したくせに、そんな考えがよぎった。
だが、小説家になるとは、すなわち、自らの手で289ページ、いや、それ以上の文章を生み出さないといけない。詩織の言う通り、模写すら投げ出す奴が、小説を書けるわけがないのだ。
さぁ、書くぞ! バシバシ模写るぞ!
「…………」
俺はパソコンを閉じる。今日はやめだ。奮起しようとしたって、模写は面白くない。明日から頑張ることにしよう。
それに、他者の作品を模倣していると、ある欲求が湧いてきた。
自分の作品を作りたい、という欲求だ。
最終的に自分の小説を書き上げなければならない。模写をせず、今から構想を練ったって、悪いことじゃない。むしろ、意識が高いくらいだ。
俺は目をつむって自分の作品を考えてみる。
とりあえず、書くなら面白い作品だ。そう、面白い作品。
面白い作品とは、つまり…………どういう物語なのだろう?
考えようにも具体的な材料がない。何から手を付けていいのか、どう組み立てるべきなのか、それすらわからない状況だ。それでも、霧を掴むような気持ちで、思考錯誤していると、今朝言った、晴樹の発言を思い出した。
――主人公の女の子のイラストを僕に見せてくれたじゃないか。名前はたしか……そう、彩音ちゃん!
これだ。既に「彩音」というキャラを考えているのなら、それを起点に物語を考えることができる。晴樹の発言から考えるに、過去の俺はノートか何かにキャラクターのイラストを描いて、それを晴樹に見せたらしい。
キャラクターが描かれたノートを見つける必要がある。
記憶はないが、過去に自分がとった行動は予想できる。ノートをしまうとしたら、机の引き出しの中だ。確認してみると、中には数冊のノートがあった。その中に、目的のノートがあった。表紙にはマジックで「漫画ノート」と書かれている。
表紙をめくると、1ページ目に、シャーペンで描かれた彩音がいた。
三守彩音、17歳。黒髪のポニーテール。服装は、縦セーターに青のデニム。非常にスタイルがよろしいらしく、ひょうたん型の胴体から長い手足が生えている。
このイラストから、服装や髪型の情報を読み取れるのは、世界広しと言えど、俺だけだろう。なぜなら、その絵は、ひどく下手だからだ。
骨格なんて概念はないらしく、腕や脚はぐにゃりと曲がっていて、手はキャッチャーミットみたいに膨らんでいる。顔は壁に叩きつけられたかのように、ぐしゃぐしゃだ。
そのイラスト、いや、イラストという言葉を使うには似つかわしくないその落書きは、人の形を成していない。顔があり、胴体があり、四肢が備わっているものの、人間が人間たるゆえんをすべてそぎ落としたように、それはひどく歪な形をしていた。
才能以前に絵心を感じ取れない。よくもまあ、過去の俺はこのイラストを晴樹に見せて「漫画家を目指す」と高々に宣言できたものである。逆に、晴樹もよくない。「君には絵の才能がない」とハッキリ言うべきだと思う。
落書きの隣には、名前と歳以外の設定が書いてある。
・強い口調で喋る。
・なんだかんだ、優しい。
「…………」
2行だけの設定。考え抜いた形跡はない。物語があふれ出してきそうな魅力的なキャラクターを期待していた俺は、完全に落胆していた。こんなテキトーに考えたキャラクターでは、流用する必要もない。しかし、ノートには、イラストと設定のほかに、もうひとつ、一行の短文が書かれていた。
――絶対に忘れない。
走り書きされたその字からは、不思議と切迫感と強い遺志が感じ取れた。俺のノートに書かれているのだから、過去の俺が書いたのだろう。だけど、何も覚えちゃいない。
俺はいったい何を忘れてしまったのだ?
切実さがひしひしと伝わる「絶対に忘れない」の文字を睨みながら、記憶の水底へと潜る。そして、深い場所で記憶の断片を掴む。
それは、彩音との出会いの記憶。
当時、中学生の頃、俺はある夢を見た。
場所や状況はわからない。ただ、正面に立つ彩音は必死に叫んでいた。何かを訴えていたが、音量をオフにしたように彼女の声は聞こえなかった。口を大きく開けたり、閉じたりしているが、やはり、声は自分まで届かない。俺は困惑していた。彩音はとにかく必死で何かを訴えかけている。だが、それを受け取る手段がない。なんだか俺は申し訳ない気持ちになる。
己の言葉がまるで伝わっていないことに、彩音はもどかしさを感じているようだった。俺の両肩を掴み、さらに顔を近づけ、口をパクパクさせる。距離が縮まったところで、元々ない音は大きくならない。やはり声は聞こえない。顔が目の前に来て、初めて彼女の目に涙がためっていることに気づく。
「ごめん、声が聞こえない」
いたたまれなくなった俺は、そう呟いた。
俺の声は彼女に届いたらしく、彩音はみるからにショックを受けていた。おそらく、俺の言葉を聞いて、ようやく自分の声が出てないことに気づいたのだろう。悲痛な表情を浮かべて、膝から崩れ落ちた。俺は彼女に何もしてあげれない。無力感を抱きながら、項垂れる彼女を見下ろしていた。
そこで夢から覚めた。
窓から朝日が差し込む。いつもと同じ朝。鳥のさえずりが日常の開幕を知らせてくる。胸の中には異物。夢の残響が残っている。彩音の悲痛な表情が瞼の裏に焼き付いていた。
それは、自分にとって只事には思えなかった。
己にとって、決定的で重大な出来事。
眠気の靄が晴れ、現実の輪郭がハッキリしていくほど、指の隙間から砂が落ちていくように、夢の記憶が刻々と消えていった。このままでは、夢の内容どころか、彩音の顔すら忘れてしまう。俺はベッドから飛び起きて、勉強机に向かう。右手にシャーペンを持ち、新品のキャンパスノートを広げる。
三守彩音。
名乗られたわけでもないのに、彼女の名前を把握していた。まず俺は、忘れたくないその名前を記す。そして、記憶を頼りに彼女の姿を絵で描きはじめた。
夢の中で見た彩音を現実へ持ってくるには絵しかなかった。だけど、美術の成績がそれほどよくない俺の絵は、描いている自分がげんなりしてしまうくらい下手だった。でも、下手でもなんでもよかった。彩音の姿を忘れたくない強い気持ち、その熱に突き動かされるまま、手を動かした。
描き終えたころには、もうほとんど何も忘れてしまっていた。
夢の中に女性が出てきた、という事実以外、なにも思い出せなかった。最初に書いた「三守彩音」の文字を見て、ようやくイラストの人物を彩音だと認識できた。
まもなく、彼女の記憶の一切を失ってしまう予感がした。胸に抱く熱い気持ちを忘れたくはなかった。俺は彼女のイラストの横に「絶対に忘れない」と決意を残した。
そうこうしているうちに、中学校へ行かなければならない時間が迫っていた。俺は制服の袖に手を通して、学校へと向かう。
学校を終え、帰宅するころには、もうすっかり夢の内容を忘れてしまっていた。その証拠に彩音のイラストを見ても、なんの感情の起伏も働かなかった。それどころか、何を血迷ったのか「ほぼ初めて描いたイラスト、それでこのクオリティは才能を持っているのでは?」と考えてしまった。漫画の才能を試したくなり、彩音の2行の設定を加えた。漫画への決意がいかに浅いのかを証明するようなテキトーな設定だ。
それよりも「絶対に忘れない」の一行のほうが、はるかに重みがある。
すべてを思い出したら、自嘲的な笑いが込み上げてくる。
当時の熱を思い出すと、大事な記憶を忘却の彼方へと追いやった自分が、どうしようもなく情けない存在に思えた。同時に、下手な彩音のイラストが、愛おしく思えてきた。平面のほほを、指の腹で撫でるとざらざらと紙の感触がした。
「忘れてしまって、ごめん」
俺はイラストに向かって頭を下げる。心からの謝罪だった。
「まったくよ。人としてどうかと思うわ」
女性の声が返ってきた。
「おわっ⁉」
イラストの彩音が喋った。驚きのあまり、俺はノートを落としてしまう。
「違う違う。こっちよ」
声は背後からしていた。振り返った俺は、目に飛び込んできたそれに息を呑む。
彩音が居た。平面ではなく、立体の、正真正銘の三守彩音がドアの前で佇んでいたのだ。
どうして俺が、部屋にいる女性を彩音だと一瞬で認識できたのかというと、夢の中で見た女性と一緒の姿をしていたからだ。それに服装と髪型が、イラストと同じだ。髪型はポニーテールで服装は縦セーターとデニムジーンズ。
落書きのそれとは違う、実を伴った彩音がたしかにそこに存在していた。
セーターのラインの歪みが胸の大きさとお腹の引き締まり具合を強調し、タイトめなジーンズが長く美しい脚のシルエットを浮き彫りにする。モデル顔負けのスタイルもさることながら、容姿も17歳の設定にしては大人びている。大きな瞳に整った鼻立ち。顔の各パーツが黄金比にのっとった場所に配置されており、美貌の観点から、まるで欠点がない。
間違いなく彩音は俺が今まで見てきたどの女性よりも美しかった。それゆえ、CGで作ったような虚構感とでも言うのだろうか、現実の世界に存在するには違和感があった。
「彩音……でいいんだよな」
彩音は俺の質問に、頷くこともせず無言でこちらに細く白い腕を伸ばしてきた。そして――
「いでででででで」
万力のような強さで頬をつねってきた。肉を潰される痛み、とっさに彩音の腕を払う。
「痛いな! なんだよいきなり!」
「これは夢じゃないって伝える為よ。こうしたほうが説得力あるでしょ」
たしかに、頬の痛みが嫌というほど現実感を主張している。だからこそおかしい。どうして空想の住人である彩音が、この現実に存在している。
「どうして彩音が、目の前にいるんだ?」
疑問が口から出た。俺は
「神様にお願いするためよ」
「神……?」
「アンタのことよ。私を創ったから、神」
「…………」
道理はわかる。だが、実感はない。ただの一般高校生である自分が、神だとか、目の前の美少女を創ったであるとか、簡単に飲み込めない。なにもかもが、現実からかけ離れている。
「神様、アンタにはしてもらいたいことがあるのよ。それは――」
俺の混乱を知ってか知らずか、彩音がなにやら概要を説明しようとしたその時、下の階からガチャンとドアの開閉音がした。父親の「ただいまー」と間延びした声が一階から聞こえてきた。出張から急遽、父が帰ってきたのだ。
「やべぇ、親父が帰ってきた」
「そうみたいね」
「とにかく、どこかに隠れてくれ」
「なんで?」
「すぐに親父はこの部屋に来る。お前の姿を見られでもしたら、面倒だろ」
「心配ないわよ」
俺の焦った気持ちをよそに、彩音はその場から移動しない。そうこうしているうちに、足音が階段を上り、自室のドアの前で止まる。ヤバい、と思った瞬間に、もうドアは開いていた。父親は満面の笑みを浮かべている。
「ただいまー。父さんだぞ!」
父の陽気な声に、俺の肝は冷える。思わず頭を抱える。
「……どうした響、長い出張からの帰宅だぞ。おかえり、くらい言ってくれてもよかろうよ」
「え、あ、ごめん」
……ん? おかしいぞ。
「なんだあ? それとも連絡しないで、帰ってきたから怒ってんのか?」
「いや、別に、全然気にしてない」
俺は動揺しながらも、必死に会話をつなげる。
おかしい。なぜ親父は彩音について何も言及しない。
親父はドア付近にいて、俺はそれに相対するように、向き合っている。その中間の位置に、彩音は佇んでいる。隠れる素振りもせず、普通に佇んでいる。間違いなく、親父の視野に彩音は入っている。なのに、その異物に触れもせず、俺と会話している。
「晩飯はまだ食べていないだろ。どこかへ食べに行かないか?」
「あ、ああ。今、勉強中なんだ。キリのいいところまでやったら、下に降りるよ」
「わかった。待ってるぞ」
その場の嘘を疑いもせず、親父は部屋から出て行った。足音が下の階へと遠ざかっていくことを耳で確認してから、視線だけで彩音に問う。
「見えないのよ。私の存在は希薄なの」
「俺には見えてる」
「そりゃ、アンタは私を知ってるからね」
「どういうことだ?」
「私を見ることができるのは、私という存在を知る者のみ。つまり、この世界の中じゃ、私の創造主たるアンタだけよ」
どうやら彩音は俺意外の人間にとっては、透明人間らしい。荒唐無稽な要素が一つ増えてしまった。だが、信じるしかあるまい。現にさっき、親父は彩音を認識できなかった。
「そこで、神様へのお願い。希薄な存在である私を、絶対的なものに確立してほしいの」
カクリツ……? いやに難しい言葉遣いをするな。
「混乱している頭にも、理解できる言い方をしてくれよ」
「察しが悪いわね。アンタこれから小説を書くでしょ。その主人公を私にしなさい、ってことよ」
「ごめん、さらによくわかんなくなった。なんでお前を主人公にしたら、その希薄な存在とやらが、カクリツされるんだ?」
彩音は呆れたようにため息を吐いてから、説明をはじめた。
彩音の存在は希薄である。なぜなら、彼女の存在を誰も知らないからだ。
それに、彼女には物語がない。過去もなければ、未来もない。持っているのは、名前と年齢と姿と二行の設定のみ。いわゆる、実を伴うまでの内容がない。一つの存在を成すための材料が足りていないのだ。
ないのなら、作って満たせばいい。
方法は、小説の主人公になることだ。
彩音を主人公に小説を書けば、物語を通して、彼女の住むべき世界や歩むべき運命を与えられる。空虚な存在が、活字によって具体性を持つのだ。それに読んでもらえば、認知され、存在がより強固なものとなる。
物語は人物を作る。
アニメや映画の登場人物が実際に存在しているかのように、語られることがある。人は時に、空想上の出来事に涙し、歓喜し、胸を焦がす熱い感情を抱く。
物語にはそれだけの力があるのだ。
彩音という、響しか知らない、希薄な空想上の人物でも、物語を持てば、実在と同じ人物と同等の存在感を持つことができる。「だからお願い。私を主人公に小説を書いてほしいの」
彩音は両手を組んで、それこそ、神にお祈りでもするように、首を垂れた。
「わかったよ」
断る理由はない。
俺が了承した直後、彩音は喜びのあまり俺に抱きついてきた。己の体を圧迫する温く柔らかな感覚にドギマギする。あまりにも密着しているので、甘い髪のいい香りまでする。思春期まっさかりな男子には刺激が強い。その存在感たるや、とても希薄には思えなかった。
こうして、空想上の人物との、奇妙な共同生活がはじまった。
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