第2話

 玄関のドアを開けると、帰宅の挨拶も告げずにリビングへ直行した。そもそも、「ただいま」を言う相手が家に存在していない。俺の家庭は少々複雑で、父子家庭の2人家族だ。その唯一の家族、父は、ただいま出張中。数か月に一度の頻度で帰ってくるので、この二階建ての一軒家に、ほぼ一人暮らしの状態である。なので、宿題すら取り出さず、学校鞄をソファに放り投げ、そのままテレビゲームで遊び始めたって、誰にも咎められない。

 しばらくゲームに熱中していたら、時計の短針は既に9時を示していた。経過時間を認識すると目の疲れと、晩御飯を食べずに没頭していたため、急に腹が減ってきた。これから学校の宿題を済ませ、風呂にも入らなければならない。遊べる有効期限はとうに過ぎていた。俺は惜しむ気持ちを抱えながら、ゲーム機の電源を落とした。

 まず、なんにせよ、腹が減っては何事もできない。なので、カップ麺を食べるため、やかんでお湯を沸かす。

 一人暮らしのご飯は、とにかく面倒を省くことが優先される。その最たるものがカップ麺である。調理は楽だし、洗い物も出ない。最強だ。

 お湯を入れてから、3分が経ち、さっそく麺をすする。いかにも人工的で身体に悪影響を及ぼす味が口の中で広がる。

「うっめぇ~~~!」

 そう、大げさに唸ってみる。一人で生活していると、どうしても独り言が増えてしまうのだ。やはり、会話する相手がいないと、寂しさを紛らわせるため、ごく自然に独り言を吐いてしまうのだ。

麺をズズズとすする。

「…………」

 一口目はたしかに美味かった。だが、さすがに3口目になると、人工的なその味に飽きてくる。無機質なインスタント麵ではなく、温もりのある手料理が恋しくなる。部屋には俺独り。

 麺をすする音が無性に大きく聞こえる。


 翌朝、学校への道中で、晴樹に声をかけられた。

「おはよう。昨日は本屋で、次に挑戦する分野でも探していたのかい?」

 昨日の今日で、気さくに挨拶してくる晴樹。俺らの付き合いはそれなりに長く濃い。衝突だって何回もしてきた。アレくらいのほつれで切れるほどやわな関係ではないのだ。

「今度は小説を書いてみようと思う」

「小説、いいね!」

 何が嬉しいのか、晴樹はパッと顔を明るくさせた。

「昔、漫画を描こうとしてたよね。その経験が活かせるんじゃない?」

「え、漫画?」

「あれ、もしかして、忘れちゃった?」

 思い出そうとするも、該当する記憶が見当たらない。

「ああ、まったく覚えてない」

 晴樹は目を丸くさせて驚いた。

「じゃあ、彼女のことも忘れちゃったのかい?」

「彼女? 誰?」

「主人公の女の子のイラストを僕に見せてくれたじゃないか。名前はたしか……そう、彩音ちゃん!」

「あやね……?」

 名前を聞いてもなお、それらしき記憶が浮かんでこない。

「うわ、ひどいな。自分で考えたキャラクターでしょ。覚えておいてあげなよ」

「どうせ空想上の人物だろ。忘れようがどうしようが、なんも問題はないだろ」

「そういう薄情なところが、挑戦する分野を一つに絞れないゆえんなんじゃ……」

 晴樹の発言にムッとしてしまう。

「うっせぇ。それとこれとは別だろ」

「いや、関係あるよ。響くんは浮気性なんだ」

「失礼だな。俺は毎度毎度、添い遂げるつもりでいるよ。けども、相性が悪いんだ」

「どうかな。僕には『特別』に目がくらんで、挑戦する分野を愛しぬいているようには見えないけど。それが相手にも伝わっているから、振り向いてくれないんだ」

 それは、なかなかに本質を突いた言葉であった。

好きこそ物の上手なれ、ということわざがある。端的に言えば、好きであるなら、物事の上達は早いという意味だ。つまり、好きとは才能ってことになる。俺はこれまでやってきたどの分野も好きになれなかった。自分で言うのもなんだが、俺はそりなりに器用な方である。人と比べて上達も早い。できなかったことができるようになるその瞬間、達成感はある。だけど、心の熱みたいなものは感じない。心はいつも冷え切っているため、熱中するという感覚がわからない。ギターを弾くのも、ボールを蹴るのも、結局は特別に至るための方法でしかない。

 それ自体を楽しんだことはない。

「小説は、好きになれるといいね」

 俺は「ああ」と返答しながら、その可能性は低い、と心の中で結果を導いていた。

 小説なんてこれまで幾度も目にしてきた。それこそ書店や図書室、あらゆる場所で。それでも興味を抱かなかったから、今の今までまったく手を触れずに生きてきたのだ。小説を好きになるのなら、もう既に書いているはずだ。

 まあ、いい。好きなことと、できることが一緒とも限らない。俺はそれを信じて今日まであらゆる分野に挑戦してきたのだ。感慨にふけたところで、なんのプラスも生まれない。行動しなければ特別には近づけない。

 まずは、白鳥詩織だ。小説を教えてもらうため、説得しなければ。


 放課後、俺は1階にある図書室の引き戸を開ける。

 ほとんど来たことがない馴染のない場所。外界から隔離されたような静けさも、湿気た匂いも、使い古されて黒ずんだ木製の本棚も、なにもかもが新鮮だ。居心地の悪さすら感じる。

 図書室の奥へと歩を進める。静寂のため、嫌に足音が大きい。図書室は通常の教室の4倍くらいの広さがある。図書委員だろうか、受付がいる貸出場所を通り抜け、本棚の隙間を覗くと、ちらほらと生徒がいる。

 さらに奥へ進む。本棚が消え、長方形のテーブルが複数並んだ勉強スペースへとたどり着く。

 そこに白鳥詩織はいた。視線を落として文庫本を読んでいる。

「よかったぁ~~。いなかったら――」

 俺が喋りかけようとすると、落ちていた視線が弾かれたようにこちらへ向く。人差し指を立てて、唇へと当てる。

 ここは図書室で、静かにしなければならない。どうやら声量が大きかったらしい。周りを見れば訝し気な視線が俺に集中している。

「……いてくれてよかったよ」

 声量に注意して、詩織の向かいの席に座る。椅子を引くときも音が鳴らないように気を付ける。面倒だ。

 詩織は読んでいた文庫本をパタンと閉じると、猫のような大きな黒目をこちらへ向けた。

「私は先輩を待っていません」

「え?」

「私は放課後、図書室で本を読む習慣を持っています。先輩との約束の有無は関係なく、私はここにいるのです」

 無表情で抑揚の少ない声で淡々と詩織は述べた。

「小説の先生になるというお話は、断らせていただきます」

「……どうして?」

「私は将来、小説を生業にするため日々を過ごしています。めちゃめちゃ本を書いて、めちゃめちゃ本を読んでいます。失礼ながら、先輩に割く時間はないのです」

「なるほど」

 俺は顔に出さなかったが、心の内でほくそ笑んだ。彼女の答えは想定の範囲内だった。

「やはり、詩織ちゃんは俺に小説を教えるべきだ」

 詩織は微かに顔をしかめた。

「どうしてその答えに行き着くのか、まるで意味がわからないのですが……」

「俺に小説を教えることは、詩織ちゃんにとっても無駄じゃないってことさ」

「はぁ……」

 要領を得てないため息。

 言葉の意図を読めていないのは非常に良い。わからないからこそ、これからの言葉をちゃんと聞いてくれる。俺はここぞとばかり、準備してきた理論を語りだす。

「俺は小説の書き方を何も知らない。だから、基本の『キ』から教えてもらうことになるだろう。詩織ちゃんからすれば、りんごは赤いとか、物を離せば地に落ちるみたいな、当たり前の常識みたいな知識だろう。だが、そんな基本を詩織ちゃんは本当に完全に理解できているのかな。覚える過程で、見逃していたり、もう既に忘れたことだってあるんじゃないかな」

 詩織は黙って俺の言葉を聞いている。無表情だから、心中は察せない。不安を抱えながらも俺は言葉を続ける。

「俺に教える過程で、詩織ちゃんは小説に対する理解度を再認識し、より深めることができるだろう。これからの執筆にもきっと役立つはずだ。つまり、小説の先生になることは、決して無駄じゃない。むしろ詩織ちゃんにとって、プラスαになることなんだ」

 詩織にとって、小説は最優先事項だ。だから、小説の先生=小説の執筆に役立つ、という図式を作れば、承諾してくれると考えた。

 用意してきた論理は語り終えた。あとは、詩織がどう決断するかだ。

 詩織は顎をさすりながら、瞑目して熟考した。

 数十秒後、答えが出たようで、パチリと目を開いた。

「承諾します」

 俺は机の下でグッと拳を握った。

「ありがとう。助かるよ」

「ただし、条件があります」

 詩織は、貢物みつぎものでも渡すようにさっきまで読んでいた文庫本を机の上で滑らせ、こちらへ差し出してきた。

「この小説は、私が好きな物語の一つです。文章は美しく、展開の仕方が非常に巧みで、繰り返しめちゃめちゃ読んでいます」

 そう言われ、置かれた文庫本を手に取る。ザラザラとした肌ざわり、表紙の色は褪せている。パラパラと中身をめくると、ページの角が丸まっており、白かったであろうページは若干黄ばんでいた。彼女の言う通り、何度も繰り返し読んでいることが、本の節々から伝わってきた。

「そ、そうなんだ」

 反応に困る。詩織は大事な条件とやらを話していない。

「私が提示する条件とは、その小説を模写することです」

「うぇっ⁉」

 驚愕の声は図書室に響いた。きっと、視線を集めていることだろうが、今はそれどころではなかった。

 その文庫本は、書店で見るような一般的な小説であった。活字の果て、「了」と書かかれているのは、239ページ目。

「ちゃんと数えたわけではないですが、全部で8万文字程度でしょうか」

「8万ッ!」

 再び驚愕する。

 授業で作文を書くために使用する原稿用紙は、20字20行で、一枚400文字。8万文字書くにはそれを200枚書かなきゃならない。活字の量に溺れてしまいそうだ。

「先ほど先輩が話された理論は正しいと思います。教える過程で見逃していた部分や新たな発見を見出し、執筆に役立つかもしれません。ただ、こちらがやる気を出しても、先輩が本気でなければ意味がない」

「つまり、覚悟の有無を見極めるためのテストってことか」

 詩織は頷く。

不躾ぶしつけではありますが、現時点での印象から推測するに、先輩は一つの作品をも完成させることなく、途中で投げ出す可能性が非常に高いです」

「な、なんだと」

「本当に小説を書きたい人間は、人に教えをう以前に、己で既に書いています。先ほど、模写と聞いて狼狽うろたえている様子でしたが、その程度の覚悟で書けるほど、小説は甘くありません。諦めるなら早々にしたほうがいいですよ。互いにとって、時間の無駄ですから」

 それは明らかな挑発であった。後輩女子から受ける淡々と語られる挑発は、効果絶大で、みるみると血は頭に上っていった。衝動赴くままに俺は立っていた。

「はッ! 模写なんか、ただ書き写すだけだろ? やってやるよ!」

 俺は詩織を見下ろし啖呵を切る。

 詩織は人差し指を立てて、唇に当てた。

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