星藍の本棚

えびまよ

星藍の本棚

 外食から帰る車に揺られ、退屈していた少年は窓の開閉スイッチを長押しした。風が一気にぶわりと後部座席へ飛び込んで、髪が後ろになびく。

 眼前に広がるのは、まだよく知らない町並みだ。都会は背の高い建物ばかりで、見慣れていた田園風景よりもずっと見晴らしが悪い。以前なら、田んぼがどこにでもあって、遠くに山が見えていたはずなのに――――。


 陰鬱な気持ちを、風が少しだけ吹き飛ばしていく。口端をわずかに上げていると、母親から「寒いから閉めてよ」と乱暴に告げられる。後部座席から見たルームミラーには、不機嫌そうな母親の顔が写っていた。

 心のなかでため息をついて、開閉スイッチを上に持ち上げる。まっさらだったはずの世界が、ガラスを通して濁って見えた。


 町中から少しだけ外れた住宅街へ。少年の家は立派な一軒家で、駐車場が玄関前にあった。母親が車を停めて、少年と父は先に外へ降りる。

 この家族は決まって母が玄関の鍵を開けるのだが、その間、父はボーッとして待っている。母は何回かに一回、"待っとらんと自分で開けてよ"と不機嫌に言う。

 今日はその日だった。

 少年は不機嫌な人がそばにいると、自分まで落ち込んでしまう性格だった。首が静かに下がる。

 家に帰ってすぐに着替えを済ませ、宿題に取り掛かる。半分ほど進めて、ベッドに寝っ転がる。見上げれば、まだ新品の真っ白な天井があった。


 息を深く吸い込み、ゆっくりと浅く吐き出す。学校のことを考えると億劫になった。

 新しい家に住むのも、都会に引っ越すのも、知らない味付けも、田舎にはなかった新しいクラブ活動も、なにもかもが楽しみだったはずなのに。現実は、そんなに輝かしいものではなかった。

 中学生になったばかりの少年に待っていたのは、小学校からの既にできたグループで話し合う同級生の姿だった。標準語で喋り合う彼らに話しかける勇気がなくて、一人でトボトボと帰ったのは嫌な思い出だ。クラブ活動には人数制限があると知り、楽しみにしていた部活は運悪く抽選に外れて入れなかった。出てきた給食の味には慣れず、周囲のみんなが話している話題は、インターネットに触れたこともない少年には到底ついていけそうにもなかった。唯一の逃げ場所になりそうな小学生の頃の友達は、今となっては簡単に会うことも出来ない。


 日曜日が終わってしまう。

 眠ってしまえば朝がやってくる。


 天井の電気から逃げるように右手を顔の前に重ねて、言いようのない不安から守るように左腕で自分の体を抱く。日増しに、入浴と歯磨きが面倒になった。明日の朝を受け入れてしまう、ある種の儀式のような習慣。普段できていたことが、できなくなっていく。

 意識を落とそうか、落とすまいか。悩んでいると、母親が階下から方言まじりの言葉が飛んでくる。"風呂に入れ"と、怒気の篭った声だ。

 体がビクッと反応して、下唇を噛んだ。

 何気ない、自分にとっての標準語だったはずのそれが、忌々しく思えた。




 少年は自分の心の落とし所が分からなくなった。学校へ行く頻度は、日に日に減っていった。

 気が休まるはずの家は、両親が一週間に一回は怒鳴り合いの喧嘩をしている。互いに言いたいことが終わって気が済むと、普段は育児に消極的な父親が、ここぞとばかりに少年が学校へ行かないのを責める。母親も同調圧力で非難する。普段は仲がいいのか悪いのか微妙な二人が、攻撃性という面では好一対だ。

 学校を休んだ日は、家にいるのが嫌だった。母親は外出から帰ってきたときに、外で受けたストレスを自分に転換するし、父親の仕事帰りは常に不機嫌で、夕食さえ食べてしまえば機嫌は治るものの、それまでは爆弾のような人だった。


 少年に残された逃げ場は、祖父の元だった。


「じいちゃん、どこなら邪魔にならない?」

「どこでもいいよ」


 近頃の世情に似合わず客足が多い本屋だった。祖父が経営する店は広く、本棚の前には自由に使える大きなソファや椅子が置かれていて、そこに座って本を読んでいる人がたくさんいる。立ち読みどころか座り読みすらも公認された環境だ。

 少年は本をあまり読んでこなかった。文学本は一度も読んだ覚えがなく、ろくに読んだのは漫画ぐらいなもの。本に対する興味はあったけれど、田舎の学校で読書している人は誰もいなかったし、仮に読んでいたら冷やかされていただろう。しかし、今となってはそんな友人も遠い場所にいる。"これがいい機会だ"と少年は考えた。


 少年は一通り店の中を歩き回る。ふと、違和感を覚えた。

 どうも他の本屋とは、ひと味違うな。一度も見たことはないが、片付けが苦手な大人の部屋がこんな感じだろうか、と思った。

 はしごを使わないと届かない高さに本棚があったり、床に本が横向きで縦に積み重なっていたり、決まった本を探しに行くことが困難で、むしろ全く知らない本と出会うことを目的としているかのようだった。

 乱雑な本の配置に、なんとなく独特の規則性がありそうではあるが、その意図を推察することはできない。


 少年は店の中央にある円形のソファに腰掛けた。肩を落とし、うつむく。

 祖父の本屋には漫画がほとんど置いていなかった。薄い本から始めようにも、どれも文字ばかりで挿絵は少ない。どれから手を付けていいのかもさっぱりだ。

 ひとたび勇気を出せば、意欲関心は自然に湧き上がるものだが、今の少年は両手をじっと見下ろすばかりだった。


「なんか面白そうなもんはあったかい」

「よく分かんない」


 はたきを片手に持った祖父が、膝を曲げて少年に目線を合わせる。

 祖父は本棚に溜まった埃を、はたきで落としながら「なんでも読んでいいよ」と言った。

 少年は肩をすくめながら曖昧に返事すると、入り口の扉が開く音を聞いた。

 

 三つ編みにメガネをかけた女学生が一人、店に入ってきた。普段は行きつけの本屋があるものの、その道中でこの草薙書店を見つけた。今日は目当ての新刊を探している途中だった。

 探している本は見つからなかった。それどころか、この本屋は新刊を紹介するPOPや、小さな机に一押しの流行本を載せている様子もない。

 物によっては床に本が積み重なっている始末。かといって、商品そのものがぞんざいに扱われているわけではなく、ある種、幻想的な図書館のようだった。

 この書店の魔力に魅入られ、結局、目を引いた別の本を読みふけってしまった。

『目的とズレてしまったものの、これはこれで面白いから良いか』

 女学生は、内心と裏腹に、ツンと澄ました表情を演じながら読みかけの本を一つ帳場へ持っていくと、誰も会計係がいなかった。

 カウンターにある呼び鈴を鳴らすと、店の奥からエプロンを着た初老の男が慌ててやってきた。胸には名前が入ったネームプレートをつけており、店主とも小さく書かれていた。

 ついでと思い、もともと探していた本が置いてあるかを尋ねると、店主は深くうなずいた。

 あとを着いていくと、先ほど探し終えたと思っていた本棚から目当ての新刊が出てきた。まるで、流行の過ぎ去った売れ残りの本のような扱いだが、表紙は確かに新品のそれだ。


 女学生は店の雰囲気には好意的だったが、商品の置き場所については首を傾げざるを得なかった。どの本がどこに置いてあるのか、非常に分かりづらい。もちろん、そのおかげで新しい本には出会えたわけだが、手放しでは褒められなかった。

 彼女は新しく出会った読みかけの本と、もともと欲しかった本を買った。店主に礼を言って、店を出ていく。

 少年は様子を探って、区切りがついたところで祖父に近づいた。


「じいちゃんの本屋って、普通のと違うね」


 少年は瞬間、顔を歪める。"普通の"というフレーズを使った自分が嫌だった。

 それからすぐに顔を持ち上げ、祖父の表情をうかがう。彼は真っ直ぐ前を向いたまま、顎を高くあげて首を見せる。それからゆっくりと頷き、"これが、一番いいよ"と、言って掃除へ戻った。

 人の評価に重きを置かない、そんな祖父の気持ちが、よく理解できなかった。


 少年は、ひとまず先の女学生が買った本を読んでみることにした。まだ活字に慣れていない初心者が手に取るには、程よい分厚さの文庫本だった。

 あらすじは『現実で過労死した女性が、昔やっていた恋愛ゲームの悪役令嬢に転生する話』だ。複雑そうな出囃子に反して、内容は複雑ではなかった。子供の頃見た女児向けのアニメや、クラスメイトがよく話題にするような恋愛ドラマの雰囲気に近い。

 ページをめくる手は止まらず、そのまま一気に読み終えた。恋愛をしたことがない少年の心に残ったのは、そこそこの疲労と悪くない読後感だった。


「随分と集中していたね」

「初めて、こういう本を読んだ」

「どうだった」


 面白かった。

 

 それぐらいしか言えない自分が、ひどくつまらない人間に思えた。急いで、なにか別の言葉を話そうとして息が詰まる。色々と楽しめる部分は確かにあったはずなのに、感想を聞かれた途端に自信を持ってコレだ、と言えるものが忽然と消えてしまった。『本の感想』よりも『本を読んだという行為』に満足感の方が勝ってしまっているような気さえもしてきた。

 物事の評価すら上手くできない自分に腹立たしさを覚え、曇った表情で祖父を見上げる。祖父の反応は、自分の周りにいた大人たちとは違った。


「そうかい、若い人が買う本はあっちの方にあるよ」


 否定も肯定も、そこにはなかった。寂しいような、苛立たしいような、言いようのない感情が腹の底に溜まった。

 小学生の頃、親が試供品で貰ってきた硬水を飲んだときのような感覚だった。

 

「あっちの方は、ばあちゃんが好きだった本があるよ」

「……ばあちゃんが?」


 それまでの思考を、一旦停止する。気になるフレーズだった。少年は、祖母を見たことがなかった。早いうちに死んでしまって、どんな人だったのかも知らない。

 祖父からそのタイトルを教えてもらうと、少年はソファから立ち上がった。久しぶりに足へ力が入ったような気がした。


 少年は祖母の好きな本を読んだ。『厭世家が世間を皮肉りながら、世直しをしていく』という物語だった。その本が気に入った少年は、徐々に架空の世界へのめり込んでいった。




 少年は、家から逃げるように自転車を漕いで祖父の元へ向かった。

 両親の喧嘩が、いつにも増して多い。父親は若い頃から独立して、最近になって芽が出てきた。父が代わりに入ったせいで仕事を奪われたものから恨みを買い、業務の邪魔をされていた。

 その苛立ちを、母親へぶつけていた。母親からは、少年へ飛び火する。


 "遊んでばっかりのやつは良いな、早く学校へ行けよ、家のことをなんにもしないやつはいいわ。金ばっか使いやがって"


 言い返すことのできないセリフを吐くのは、ズルい。と少年は口を尖らす。険しい表情で、より一層、ペダルを力強く漕ぐ。

 金の話をされれば、子供にはどうしようもない。親が上で、子供が下という構図が不公平だ。

 唇を結んで、怒りを外に発散することもなく。本屋へ到着するころには、腹の虫が収まっていた。


「また喧嘩してた」

「そうかい」


 祖父は、話を黙って聞いてくれた。興味はなさそうだが、かといって遮ぎらない。また、意見を述べることもない。

 彼は帳場から本を何冊か重ねて持ってきた。少年は雑念を、頭から振り払う。三ヶ月と経って、祖父の業務を手伝うようになり、学校には行かなくなった。


「これ、いい感じに配置しといてね」

「うん」


 一日に二冊から三冊程度の本を読み、感情の波を楽しむ。家にいても、一種類の感情しか呼び起こされない。その点は、本は良かった。

 物語は、すべてどれも色んな感情を揺さぶられた。涙を流したり、奥歯を噛み締めたり、鼻息を荒くしたり、弱々しく唾を飲み込んだり。本を読んでいる限り、少年は人間でいられた。

 祖父ならするであろう、本の雑然とした配置を覚え、理解すると、本に対する愛が芽生えた。少年は充実している、と思っていた。


 中央のソファに一度、本を置く。それから本の中身をパラパラと確認する。しっかりと読んだわけではないが、体に刻まれる感情の色を把握すると、すぐにどこへ置くのか決めた。

 店の奥の方まで歩いて、やはり、ここだ。と、少年は本を三冊そこへ入れる。一息つきながら、その本棚を離れて全体をよく見てみる。本棚からにじみ出る感情、色、雰囲気に、顔を小刻みに縦に動かして、眉根を寄せる。左の頬をぺちぺちと叩きながら笑う。


 ふと、隣の本棚が目に入った。それは、店の最奥部分にあたる本棚だった。


「そういえば……」


 腐っても商売、祖父は需要がある本をできるだけ店の入口や中央付近に並べている。この辺りは、自分の好きな文学書とは違う、もっと堅いイメージの本がいっぱいある場所だった。

 最奥の本棚は、まだ一度もどんな本があるのかも確認していなかった。そこを注視すると、棚は七割ほど埋まっていた。どうも中身はバラバラらしく、本以外も詰まっている。

 小説、漫画、ブログ記事のスクラップ、ゲームソフト、紙芝居、TRPGシナリオ、童話、アルバム、日記、絵本、なんでもありだ。

 本だけではないことに異物感を覚えるが、気分は悪くならない。


 少年は帳場へ向かった。


「じいちゃん、変な本棚があった。あっちの、一番奥のやつ」

「みんなが好きな物語を寄贈するところだよ」


 祖父は指差す方向を追い、にっこりと笑った。

 どこか遠いところを見ているようで、リラックスしている様子だった。


「一緒に見てみるかい」


 少年は、祖父を連れてあの本棚の前へ戻った。まずは一冊、本を取り出す。『不思議の国のアリス』の初版復刻版を手にして、ページをめくる。文字はすべて英語で、すぐに読む気を失った。本の外装をよく見てみる。バラの花と棘が表紙の四隅を一周するように踊っている。中心にレタリングされた筆記体で題名が書かれていた。

 少年は本を戻すと、自分が読めそうな本はないか、と左から右に視線を飛ばす。古臭い、ごわごわとした緑色の表紙の本を手に取ると『竹取物語』と書かれていた。読もうという意欲がないまま、ページの端から親指の付け根でごっそりと掴んでめくっていく。日本語で書かれているはずなのに、まったく読めなかった。


「これ、どういう本。暗号みたい」


 祖父は『竹取物語』を受け取って、紙の一枚一枚を丁寧に開いていく。どこらへんが暗号っぽかったのかを尋ねて、そもそも文章が読めなかったと聞くと、ゆっくりと何度もうなずいた。


「これは歴史的仮名遣い、と言うんだよ。昔の人の言葉なのさ」


 祖父は本のページに優しく手を置いて、動かなくなった。

 少年は下から覗き込むと、なにかを思い返しているように目を閉じていた。


「じゃあ読めないの?」

「勉強したら読めるようになるさ」


 パッと目を開いて、祖父はそう言った。


 少年は、学校のことを思い出した。胸がちくちくと刺され、腹に鉛が入ったように重くなる。肩をすくめながら、隣に立つ祖父をチラりと見上げる。

 祖父は手に持っていたそれを本棚に戻して、両手を腰に当てて本棚を眺めていた。


「……じいちゃんは、勉強した方がいいと思う?」


 そりゃあ、もちろん。と祖父は言った。

 このままで良いとは、思っていない。しかし、その一歩目の勇気が出ない。

 少年は、逃げ出すように話を変える。


「お客さんが、寄付してくれたの?」

「私が店を始めた二十五歳から、一つひとつ、頂いたものだよ」


 少年は、祖父の言った"みんなが好きな物語を寄贈するところ"という言葉を反芻すると、もう一度、本棚をよく見てみた。

 その本棚に収められている数々を、ゆっくりと上から順に眺めていく。


 それは、まるで何百色もの色鉛筆を使って書き上げたような一枚の、書きかけの絵だ。

 非常に美しいが、どこか足りない、未完成の本棚だった。


「僕も、"大好きな物語"ができたら一冊だけ入れてみたいな」

「そりゃあ、嬉しいねぇ」

 

 *


「タケル。じいちゃんが倒れたって」


 中学二年に上がって、九月のことだった。


 少年が部屋で本を読んでいると、どこか夢を見ているような表情をした母親が、部屋に入ってきてそう言った。"どこかで読んだような台詞だ"なんて、深くは考えなかった。母親の言うとおりに服を着替えて車へ乗って、徐々に現実感を覚えていく。

エンジンがかかったあたりで、少年の頭はどんどんと覚醒していった。鳥肌が止まらなくなり、息が浅くなった。

 病院へ到着してから意識はずっとふわふわとしていて、病床に伏している祖父の姿を見ると心臓がドクンと鳴った。


 祖父はまだ生きていた。体調がやはり芳しくないらしく、あまり目立って動かない。

 親戚も何人か集まってきて、近況報告が始まる。少年は、そんな話よりも祖父の話が聞きたかった。


「じいちゃん、治るの?」

「……どうかねえ」


 少年の母が祖父の書店について話をする。店を一度、畳むしかないと言った。親戚の人たちも、本屋を継ぐ意思はなく、唯一その意思を持つ少年は、まだ中学生だ。

 欲しいといえば貰えるような、簡単な話ではない。店の経営には月極家賃がかかるし、古物商の許可は未成年者には不可能。


 暗く、重苦しい現実が少年を襲う。

 その一方で、祖父は片手で笑顔を隠していた。


 


『CLOSED』と書かれた立て札のかかった扉を、祖父の鍵で開けて中へ入る。人っ子一人いないなかで、少年の足音だけが薄暗い店内に響く。

 まだ一年と半年しか時を過ごしていないはずのそこが、少年にとっては大切な空間だった。

 必要最低限の電灯をつけて、時が止まった店内をうろつく。涙が、床を濡らす。


 この本棚は明るい。

 この本棚は白い。

 この本棚は柔らかい。

 この本棚は涼しい。


 涙が鼻水となって、喉に伝う。しゃっくりのように喉が鳴る。涙で濡れた顔を、服で乱暴に拭ったせいでヒリヒリと痛い。

 祖父が意図するもの、祖父の楽しんでいた本の世界、祖父が自分に教えてくれたもの、みんながなくなってしまう。

 

 端から端へ、店を最後まで歩き通す。一番最初に来た頃がよみがえってくる。中央のソファで、初めて本を読んだときのことを思い出す。周りに立ち並ぶ本棚たちを細い目で見つめる。まるで、山の頂上に登り、周囲の景色を楽しむように。

 普通の本屋とは違う、本の色や感情で並べられた祖父の配置に、感謝の気持すら込めていく。

 少年は、歩く。店内の最奥、統一性のない、寄贈品だけの本棚へ歩いて行く。


 それは蓬莱の玉の枝のようだった。


 まだ、この本棚にある本をすべて読み終えてはいなかった。

 写真集や日記といった、架空の世界ではないものを遠ざけていた。

 今になって、少年はそれらを手にする。


 使い慣れた、そばのソファに腰掛けて、アルバムを開く。ページを一枚、一枚、ゆっくりと味わう。


 美しい、桜の花。

 四歳ぐらいの子供の誕生日姿。

 小学校の入学式、遠足、修学旅行。どこか見覚えがある子供が写っていた。

 真っ青な海、湖に鏡面反射した富士山、なんでもないただの青空。


 誰のものとも分からない、年代物のアルバムだ。

 少女は中学生ぐらいまでしか映っていない、まだ作成途中のように見える。


 一度だけ見たことのある、出版社が出している猫の写真集と比べると、写真の解像度からして完成度が違う。ただの、一般人のそれだった。


 次に手にとったのは、古ぼけた桃色の、手帳型の日記だ。

 女性の字で書かれたそれは、古臭い内容ばかりだった。


 自分の父親や母親世代よりも上のアーティストがCDを発売したとか、駅前の花屋がパチンコ屋に変わっていたとか、見合いでいい男に出会ったとか、興味の湧かない、なんでもないような話だ。日記の日付には間隔が空いており、マメな性格ではなかったと予想できた。


『草薙書店という変な店に入った。病院の待ち時間が長いから、ここで買った本を読もうと思う。』

『欲しい本が見つからなかった。けど、面白い本には出会えた』


 出来の悪い本よりも、ずっと感情移入ができた。


『例の書店で、変わった本棚を見つけた。どの本にもバーコードが貼っていないから、売り物じゃないと思ったら、自分の好きな物語を寄贈する場所らしい』

『だったら、私の日記を寄贈してやろう。と思った』

『ついでに、私の人生も寄贈してやろうと思った』


 日記の表紙と裏表紙を見てみる。それから、一番うしろのページを開くと、祖母の名前が書いてあった。

 少年は笑った。顔も知らないような祖母が、実はこんなにも愉快な人だったとは思っても見なかった。

 ウキウキとした様子で読み進めていると、しわくちゃになったページに行き当たる。そこに『病院で検査したら大腸ガンだった』と、書かれていた。


 先を読みすすめる手が震えた。

 少年の、先ほど乾いたはずの涙が、また出てきた。

 祖母の顔すら知らない理由を、そこで知った。


 先ほどのアルバムをもう一度、ひらく。

 どこか見覚えのある子供は、少年の母だった。

 中学生からの写真がないのは、写真を取る人がいなくなったからだ。


 そこには、確かな物語があった。


 目を腕でこすり、日記の最後の方をひらく。『明日はあの人が持ってきた本を読んで、内緒でおやつを買ってきてもらおうと思う』と書いてあった。


 拳と、足の指を固く握った。鼻の奥がツーンとして痛い。

 みんなが好きな物語を寄贈するところ、と祖父が言った言葉を、脳裏に浮かべる。

 物語という言葉の、意味を知った。

 

 誰もいない店内で、少年は自分の物語をつづる。小学生の頃は大の苦手だった作文も本をたくさん読んだおかげか、思っていたよりも書けた。今なら、読書感想文が得意な宿題になっているのではないか、と思うほどに。


 自分の物語を、まだ十四才の若者が一生懸命に書き連ねる。


 一人は寂しいものだ。子供はなんにもできない、不必要な存在なんじゃないか。両親は敵のように思えて仕方がないし、大好きな祖父は病に見舞われた。

 現実は、輝かしいものではなかった。

 物語の方がずっと美しく、光っている。


 けれど。

 けれど、物語にも起承転結があった。


 現実もきっと、そういうものなんだろう。


 じいちゃんの物語を、ここで見た。

 じいちゃんの物語は、順風満帆とはいえなかったはずだ。


 けれど。

 けれど、現実という物語で、僕の祖父は笑みを浮かべていた。


 最後まで、読み進めなければならない。

 ここから『承』に転じないわけにはいかない。


 自分の物語を、A4ノート五枚に書き終えると、それをホッチキスで止める。右手に握って、あの本棚の前へ。

 隣に祖父がいるような気がした。一番好きな物語の隣へ書きかけの物語を入れると、後ろへ二歩下がって見上げる。


 暗い店内も相まってか、まるで宇宙に光る星々のように、その本棚はより一層輝いていた。どこまでも豊かで、どこまでも美しい、まだ未完成の本棚だ。

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