#6 undecover-③
車のフロントガラスを大粒の雨が激しく打ち付けている。ワイパーの動きを最速に切り替えても追い付かないほどの豪雨の中、陣内は車を走らせ、特捜課のオフィスを目指した。普段より三十分以上早い時間に出勤しているのは、明け方の雷雨に眠りを妨げられたせいだった。
昨日から東京都は梅雨入りしている。じめじめとした気候に引きずられたのか、なんともすっきりしない気分だ。気晴らしにトレーニングルームでサンドバッグでも叩こうかと、陣内は三階のフロアに向かう。
トレーニングルームには、すでに人がいた。才木と綿貫だ。二人とも今日は非番のはずだが、
「おー、頑張ってんなぁ」
陣内は
綿貫はほんの一瞬で才木を制圧してしまった。視力の優れている陣内だからこそ一部始終が見えていたが、才木自身はなにが起こったのか理解できていない様子だ。
「お前、いつ見てもボコボコにされてんな」
「……これでも少しずつ強くなってるんですよ」
才木は口を
「陣内さんもどうですか」
「やだよ」
綿貫の誘いに、陣内は顔をしかめた。
「光ちゃん、強いんだもん」
「なら、才木の相手してやってください」
「えー」
教育係なんですから、と綿貫が言う。渋々、陣内はリングに上がった。
「能力は使わないでくださいよ」
「はいはい」
向かい合い、才木が拳を構えた。陣内も両腕を上げようとした、そのときだった。ドアが開いた。陣内と才木は互いに視線を外し、部屋に入ってきた人物を確認した。葛城だった。彼はリングの中にいる陣内を見つけ、「ここにいたか」と呟いた。その表情はどこか険しい。
「どうかしました?」
尋ねると、葛城は深刻な声色で答えた。
「ニコラスの定期連絡が、二日前に途絶えた」
二週間ほど前まで、ニコラスは薬物取引の温床となっていた西麻布のナイトクラブに潜っていた。現在はおそらく別件で動いているだろうが、陣内たちにはその詳細は知らされていない。
「もしかして、正体がバレて敵に捕まったとか……?」
心配そうに眉根を寄せる才木を、陣内は笑い飛ばした。
「ニコは全身ヒョウ柄のアホとは違うのよ」
「その話持ち出すのやめてもらえません?」
ニコラスは有能な内偵だ。経験も豊富で、多くの修羅場を
「陣内、ニコラスの足取りを追ってくれ」
シバも連れて行け、と葛城が命じる。陣内は頷き、トレーニングルームを後にした。
ニコラスの動きはGPSに記録されている。そのデータを頼りに、陣内は車を走らせた。助手席には柴原が座っている。外の景色を見つめながら、彼は「課長って、俺のこと警察犬とか麻薬探知犬みたいなもんだと思ってますよね」とぼやいた。
「違うのか?」
「……朝っぱらからカップラーメンなんて
嫌味が返ってきた。
陣内は「冗談だって」と苦笑する。
「悪かった。頼むから人のプライベートを嗅ぐな」
「俺だって、もっと現場に出たいんすよ」
「出てんじゃん。これも現場でしょ」
そうじゃなくて、と柴原はため息を吐いた。気に食わないことがあるようだ。
「いつも危険な現場に連れていかれるのって、綿貫さんじゃないすか」
「そりゃそうよ。光ちゃんに勝てるわけないでしょ」
柴原が膨れっ面で言う。
「綿貫さんって、最近よく才木くんの面倒みてますよね。トレーニングにも付き合ってるし」
「なに、ヤキモチ?」
「違います」
からかうように言うと、柴原に横目で睨まれた。
「そのうち才木くんにも抜かされそうで、焦ってるんすよ。なんか最近の彼、めちゃくちゃやる気じゃないすか」
「……あー」
陣内は頭を
「まあ、いろいろあったからな」
たしかに、才木はトレーニングに励むようになった。だがそれは、手柄を上げたいとか、同僚を出し抜きたいとか、そういう理由でないことはわかる。彼はおそらく、自分を守るために鍛えてるのだ。自宅で襲撃されてから、才木はずっと苦しんできた。トラウマに打ち勝つには、自分自身が強くなるしかないと考えたのだろう。体を鍛え、技術を学び、戦える心を身に付けるために、綿貫に稽古を付けてもらっている。
「そんなに心配なら、俺がトレーニングに付き合ってやろうか?」
「嫌っすよ。『負けたら飯
「なんでわかったの」
「結構付き合い長いっすから」
越県してからさらに一時間ほど車を走らせると、目的地に到着した。かなりの田舎だ。地図を頼りに進んでいくと、森が見えてきた。この先は車では進めないようだ。陣内は路上に車を停めた。
雨は小降りに変わっている。助手席を降りて傘を差しながら、
「ニコさん、何があったんすかね」と、柴原が心配そうに呟いた。
「こんな場所で足取りが途絶えるなんて、変じゃないっすか」
陣内も同感だった。周囲には生い茂る木々のみ。どんな用事があればこんな場所を訪れるのか、皆目見当もつかない。
陣内も傘を差し、辺りを観察した。身を
「――陣内さん」柴原が声をあげた。
「これ、ニコさんのじゃないすか」
柴原が見つけたのは、泥のぬかるみの中に埋まっていた携帯端末だった。バッテリーが切れている上に、画面が損傷している。電源を入れることは
「どうだ、シバ」陣内は尋ねた。
「なにかわかるか?」
柴原は念入りに辺りの匂いを嗅いでいる。
「……
ニコラスは一人ではなかったようだ。ぬかるみに残る足跡からしても、数人がこの場を訪れたことに間違いはないだろう。柴原は「嫌な場所ですよね、ここ」と顔をしかめた。
「ああ」
才木のような能力がなくとも嫌な予感を覚えた。目の前には、死体を隠すにはお
――誰かがニコラスを始末し、この森に埋めようとした?
最悪の想像が頭を過ぎってしまう。
「シバ、
雨で匂いも消えかかっているだろう。急いだ方がよさそうだ。
「厳しいっすけど、頑張ります」
柴原の先導で、陣内は森に足を踏み入れた。
柴原は鼻をひくつかせながら獣道を進んでいく。陣内にとってみれば木や土、雨の匂いしか感じないのだが、人並外れた嗅覚をもつ柴原には道筋が見えているようだ。
しばらく進むと、少し
「……陣内さん」
「どうした」
「見てください」と柴原が指差す。
ロッジの入り口に、赤い染みのようなものがある。柴原は顔を近づけ、低い声で告げた。
「血、です」
匂いを確認したようだ。血の痕は点々とロッジの中まで続いている。陣内と柴原は目で合図し、同時に傘を放り捨て、拳銃を抜いた。
警戒し、銃を構えたままゆっくりと扉を開ける。部屋の中央に人影が見えた。――男がいる。陣内はとっさに銃口を向けた。椅子に縛り付けられ、男はぐったりと
――ニコラスだ。
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