#6 undecover-①


 この店と行きつけのパチ屋だったら、どちらの方がやかましいだろうか――などと至極どうでもいいことを考えながらカウンター席に腰を下ろし、陣内じんないはバーテンダーを呼びつけた。本来ならビールの一杯や二杯でも注文したいところだが、任務の最中に酒を飲むわけにもいかないので、ノンアルコールのカクテルで我慢することにした。

 西麻布にあるナイトクラブは大盛況で、フロアは大勢の客でひしめき合っている。曲に合わせて体を揺らす若者たちに背を向け、陣内は煙草たばこを一本くわえて火をつけた。大音量で打ち鳴らされるハウス系のサウンドを聴き流しながら、ゆっくりと煙を吐き出し、手持ち無沙汰に煙草の箱をいじる。白地に、五文字のアルファベットが記されたパッケージ――眺めていると、ふと、死んだ妻のことが頭をぎった。

 妻はヘビースモーカーで、この煙草が手放せないでいた。ところがある日、自宅のゴミ箱にこの銘柄の煙草がカートンで捨てられていた。人間ドックで肺ガンでも見つかったのかと陣内が尋ねたところ、彼女はぶっきらぼうに答えた。禁煙することにした、子どものために――と。人生で最も心が震えた瞬間だった。

 過去に思いをせていると、金髪頭のバーテンダーがドリンクを差し出した。その瞬間、さりげなく身を寄せ、陣内に耳打ちした。


「――来たぞ、あいつだ」


 バーテンダーの正体は、特捜課が雇っている民間スパイ――ニコラスだ。現在は店のスタッフとしてこのクラブに潜入している。

 ニコラスが鋭い目つきで入口の方を見た。陣内はカクテルを受け取って一口飲み、自然に体を翻して対象を確認した。青いパーカーを着た男が、人混みを縫うように進んでいく姿が見える。あいつか、と心の中でつぶやいた。グレナデンシロップの赤みが映えるグラスで口元を隠しながら、ブルゾンの袖に装着したインカムのマイクに告げる。


「対象が到着しました」


『了解』と、ワイヤレスのイヤホンから葛城かつらぎの声が返ってきた。


『全員、配置につけ』


 客を装ったおとり捜査。このクラブにて、ある犯罪グループが薬を売りさばいているとの情報が特捜課の元に入ったため、現在チーム総出で潜伏し、売人にわなを仕掛けている最中だった。

 陣内はドリンクを手に席を立った。勘付かれないよう、ゆっくりとした足取りで売人を追尾する。


『陣内さん、似合うっすね』柴原しばはらが茶化すように言った。

『そういう格好』


 今日はいつものスーツ姿ではなく、客に扮するために全員それらしい服装をしている。陣内は黒いブルゾンにカーキ色のカーゴパンツ。足元はワークブーツだ。


「俺は何でも似合うのよ」とささやきながら二階を見上げた。

 天井は吹き抜けになっていて、上の階からフロア全体を見下ろせるようになっている。柵に寄りかかり、こちらを見てにやついている柴原の姿が目に入った。キャップを後ろ向きにかぶり、オーバーサイズのTシャツとズボンを身にまとっている。


「お前こそ」陣内は小声で笑った。

「いいじゃん、その服」

『今日のテーマは、フリースタイルのラッパーです』

「それっぽいな」

『陣内さんは?』

「俺は、徹夜明けの週刊誌のカメラマン」

『なんすか、それ』

ひかるちゃんは?」

『三股かけてる尻軽女』

『こら、無駄口をたたくな。集中しろ』


オフィスから作戦を見守る葛城がため息をいた。


『万が一取り逃がしたら、全員減給処分にするからな』

「わかってますって」


 綿貫わたぬきからの報告が入った。


『対象が予定の場所に到着しました。これから才木さいきが接触します』

「了解。しくじるなよ、才木」 と、陣内はマイクに向かって囁いた。


 取引の場所はクラブの男性用トイレ。才木が金を渡してブツを受け取る手筈てはずになっている。その後、売人を泳がせ、グループを一網打尽にする。――そういう計画だった。


しばらくしてから、『――金を持ってきた』


 才木の声がした。対象と接触したようだ。

 インカムでやり取りを聴いていた陣内は、ふと違和感を覚えた。複数の声をマイクが拾っている。売人は一人ではなく、仲間を連れて現れたらしい。トイレに仕掛けた隠しカメラを監視しているなつめから、『囲まれています。三人です』と報告が入った。どうやら、男は仲間を先に現場入りさせ、変わった様子がないか店を見張らせていたようだ。


『――こいつ、サツかもしれないぞ』と、そのうちの一人が言い出した。

『店に来たときから怪しいと思ってたんだ』

『ち、違――』


 雲行きが怪しくなってきた。時折、才木のうめき声が聞こえてくる。

「手のかかる新人だな」と呟き、陣内はグラスを持ったまま移動した。


「俺が行く。光ちゃんはフォロー頼む。シバは出入り口を見張れ」

『了解』

『了解です』


 二人の返事が聞こえてきたところで、陣内はトイレの扉を開けた。中には四人の男。才木と、移民らしき三人組。才木は二人がかりで羽交い締めにされ、所持品をあさられているところだった。一人は銃を構え、才木に向けている。陣内の顔を見た途端、才木は安堵あんどと申し訳なさの入り混じった何とも言えない顔になった。

 突然現れた陣内を、三人の男はあやしげににらんでいる。顔を見合わせてから、リーダー格の男が「おい、おっさん」と陣内に声をかけた。


「取り込み中だ、出てけ」


 男の命令を無視し、陣内は右手で口を押さえた。


「うえ、飲み過ぎたぁ……きもちわるぅ……」


 三人組は「なんだ、この酔っ払い」と戸惑いの色を浮かべている。

 陣内は千鳥足でトイレの中に踏み込んだ。


「う、うえ」

「おい、吐くなよ」

「うえっ」


 ――と同時に、男の顔に向かってグラスの中身をぶちまけた。液体が顔に直撃し、男は苦しげな声をあげる。


「な、なにしやが――」


 目をこすっている男の腕をひねり上げて拳銃を奪うと、そのベタついた顔面に肘を叩き込んだ。よろけた頭をつかみ、今度は膝で突き上げる。男は倒れた。

一人が銃を抜いた。一人が薬を持って外に出ようとしている。次の瞬間、その場にいた全員が目を見張った。

 ――ドアがない。

 トイレの入り口――鉄製のドアが不意に消えた。綿貫が取り外したのだ。ホルターネックにショートパンツという珍しく露出の多い格好をした彼女は、逃げようとしていた男たちに向かってそのドアを思い切り投げつけた。大きな鉄の板がトイレの中に飛んできて、陣内は慌てて右にけた。危うく巻き添えを食らうところだった。

 一人に直撃し、男はドアの下敷きになっている。その男の腕を引っ張り出して手錠を掛けながら、陣内は思わず呟いた。


「……光ちゃんは普通にドアを開けらんないの?」


 もう一人の男は綿貫に銃を向けている。やめときゃいいのに、と陣内は思った。引き金を引く隙もなく強烈な回し蹴りをお見舞いされ、男は拳銃を手放した。左手で胸倉を掴み、顔面に右の拳を一発叩き込む。反撃しようと両手を大振りする男の動きを見切り、綿貫は男の髪を掴むと、壁に掛かっている鏡にその頭を叩きつけた。

 鏡が威勢よく割れる音が響く。ふらつきながらも、男は逃げようとする。今度はその頭を、トイレの個室のドアに思い切り叩き込んだ。木製の扉に大きな穴が空き、男は頭をめり込ませたまま気絶している。


「修理費、経費で落ちますよね?」


 綿貫が尋ねた。葛城からの返事はなかった。


「なんでバレたんでしょうか」


 トイレの隅に隠れていた才木が首をかしげた。赤いTシャツの上に羽織ったヒョウ柄のパーカー。下は同じ柄のスウェットだ。

 経験を積ませようと才木を囮役に任命したのだが、失敗に終わってしまった。もう少しどうにかならなかったのか。陣内はため息を吐く。


「まあ、バレるわな」

「全身ヒョウ柄って」と、綿貫もあきれている。


「冗談でしょ」

「それ、テーマ何なの? 大阪のおばちゃんの息子?」

「陣内さんが言ったんじゃないですか。普段絶対着ないような派手な格好してこいって」


 センスが頂けないことはさて置き、薬を買いにきた麻薬中毒者の服装としては及第点かもしれない。しかし、問題なのは壊滅的に似合っていないことだ。才木のいかにも真面目そうな顔や髪型と、派手な服とが見事に喧嘩けんかしている。どこからどう見ても着せられている感じしかない。警戒心が強く勘のいい売人に潜入捜査中だと勘付かれてしまうのも当然だろう。


「次からはシバに選んでもらえ」と陣内は言った。

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