#5 trauma-⑤


 角谷はすぐに病院に運ばれたが、出血が多く命は助からなかった。殺人事件に切り替わり、現場検証からは警察が引き継ぐことになった。

 ――どうして、と思う。

 どうして気付けなかったのだろうか。目と鼻の先で犯行が行われていたというのに。

 自分の能力が発動していれば、こうなることを事前に察知できたはずだ。それなのに、なにひとつ予兆はなかった。

 才木は翌日、早めに出勤した。誰もいないオフィスでひとり、今回の事件のことを考えていた。角谷が殺されたため、ドープ密売につながる手掛かりとなる貴重な存在を失ってしまった。それが犯人の狙いなのだろうか。口封じのために角谷を始末したのか。

 それに、あの凶器。嫌というほど見覚えがあった。自分を襲った男が使っていたものと、同じ型のサバイバルナイフ。――思い出し、悪寒がした。嫌な記憶がよみがえる。無意識のうちに、才木は懐のポケットに入っている薬に手を伸ばしかけ、はっとした。


 ――依存している。


 気付いていた。向精神薬が手放せなくなっていることに。そのせいで、ドープの力が発動しなくなっている。脳が薬にむしばまれ、感覚が鈍くなっているせいで、第六感が働かないのだ。だから、角谷も救えなかった。

 情けない、と思う。

 これでは、何のために麻薬取締官になったのか。

 シャツの腕をまくる。左腕の注射針の痕に、愕然がくぜんとなる。今の自分は薬物中毒者となにも変わらない。犯罪者を逮捕する資格はない。麻薬取締官でいるわけにはいかない。

 やめなければ、と思った。薬も、仕事も。

しばらくして、才木は腰を上げた。ガラスの扉を開け、パーテーションの中に足を踏み入れる。課長のデスクの上に、支給されていた銃と身分証を置いた。その横に、今しがた書き終えた辞表を添えようとした――そのときだった。


「――辞めんの?」


 急に声をかけられ、才木は驚いた。

 振り返ると、陣内が立っていた。まさかこんな時間に陣内が出勤するとは思わなかった。


「いたんですか」と才木は呟いた。

「なんで辞めんの?」


 再度問われ、才木はうつむいた。


「俺の責任です。角谷が殺されたのは、俺が情報を漏らしたせいかもしれない」


 才木の答えに、陣内は納得しなかった。


「それが理由? 本当に?」と眉間に皺を寄せる。

「最近、お前の様子がおかしい。何があった?」


 核心に迫る陣内の言葉。もう逃げ場はなかった。才木は正直に答えた。


「……麻取でいる資格が、俺にはありません」


 ポケットから錠剤を取り出し、デスクの上に置く。

 これがなにを意味するのか、麻薬取締官には一目でわかるはずだが、陣内の反応は薄かった。

 まあ座れと促され、才木はソファに腰を下ろす。陣内は壁に背をもたれて立ち、才木と向かい合う。


「本当はあの日、拷問されたんです。あの男に。薬を打たれた後、まるで催眠をかけられたみたいに、嫌な幻覚を見て」


 思い返すだけで体が震えた。


「ナイフで、指を切り落とされて」


 消え入りそうな声で告げ、才木は唇をみしめた。


「いつも思い出すんです、指を切られたときのことを。幻覚のはずなのに、痛いんです。すごく痛くて、眠れないほどで……」


 頭を抱えながら、本音を告げる。


「痛みが蘇ると、怖いんです。いつもあの夜のことを思い出して、怖くてたまらなくなる。家にいても、ずっとおびえてしまうんです。また、あいつがいるんじゃないか、俺を襲ってくるんじゃないかって」

「それで、薬を?」

「ニコラスさんに頼んで、海外の向精神薬を買いました」


 視線を上げ、陣内の顔色をうかがう。彼は無表情のまま、「そう」とだけ言った。


「陣内さん、前に言ってましたよね。薬に手を出すのは自分の弱さに負けたからだって。その通りだと思います。俺も自分に負けて、この苦しさから逃げたくて、薬に依存してしまった」

 厳しい言葉を投げつけられると思っていた。激しく叱咤しったされると思っていた。だが、陣内の口調は静かなものだった。


「まあ、偉そうなこと言ったけどさ、俺だって逃げたよ。嫁が殺されたとき。警察辞めて、酒とギャンブルに溺れてた。麻取に入ってからはちゃんと克服したけど」

「……克服できてない気もしますが」


 今でも仕事サボってパチ屋で遊んでるくせに。陣内は乾いた笑いをこぼした。


「俺が能力を使えなくなってるのも、薬のせいだと思います。薬に頼らなかったら、角谷も死なずに済んだかもしれない」


 それはどうだろ、と陣内は否定した。

 懐かしむように目を細めて言う。


「あの日――嫁が殺された日さ、虫の知らせみたいなもんが全然なかったんだよなぁ。嫁がメッタ刺しにされている間、俺は暢気のんき戸倉とくらと酒を飲んでた。最近、よく思うよ。お前みたいな力があれば、俺はあいつを助けられたかもしれない、って」


 でもさ、と続ける。


「そんなの、わかんないよな。俺たちドーパーは完璧な超人じゃない。普通の人間のちょっと延長線上にいるだけで、何でもできるわけじゃないんだ。誰かを救えるか救えないかなんて、時の運でしかない。俺にお前みたいな力があったとしても、過去を変えられた保証はない。そうだろ?」


 そうですね、と才木は頷いた。

 陣内の言葉は正しい。


「角谷が殺されたことは、お前の能力が発動しなかったせいじゃない」

「そうだとしても――」


 問題はそれだけじゃない。


「俺は、薬を断ち切れるかもわからないし、今後さらに道を踏み外すかもしれない」


 自分が薬の誘惑にあらがえない、心の弱い人間だということが、はっきりとわかってしまったのだ。今はただの向精神薬でも、これから麻薬に手を出してしまう可能性もある。

 そもそも、能力の使えない自分には、この特捜課にいる資格がないのだ。


「才木、お前は真面目すぎるのよ」


デスクに置いていた向精神薬を手に取り、陣内が言う。


「いろんな意味でな」


 すると、陣内は想像もしない行動に出た。残りの錠剤を掌の上に取り出し、すべてを口の中に含むと、バリバリと音を立てて噛み砕いてしまった。

え、と才木は声をあげた。


「なにを、してるんですか」


 錠剤が陣内の喉に流れ込んでいく様を、才木は唖然あぜんと見つめていた。

 陣内は平然としている。


「ニコラスがお前に渡したのは、向精神薬じゃない。ただのビタミン剤だ」


 どういうことだ、と才木は目を丸めた。


「あいつを責めんなよ。お前から薬を頼まれたとき、ニコが心配して俺に連絡をくれたんだ。だから俺が、代わりにビタミン剤を渡すように指示した。向精神薬ってことにしてな」

「でも、あの薬を飲むと、苦痛が楽になって……」

「プラシーボ効果ってのも、案外馬鹿にできないよなぁ」

「俺の能力が発動しなくなったのは?」

「極度のストレスにさらされていたからだ。特にお前の力は、精神的な要因に左右されやすい」


 ということは、自分は薬に依存していたわけではなかったのか。陣内が仕組んだわなに、まんまとだまされていたということか。


「……俺は、正気なんですね」

「そこでほっとした顔するくらいなら、薬なんかに手ぇ出そうとすんじゃねえよ」


 才木は俯き、「すみませんでした」とこぼした。

 陣内は才木の前にしゃがみ込み、目線を合わせた。才木の肩をつかみ、じっと瞳を見つめて告げる。


「もし人生をやり直せたとしても、自分は絶対また同じことをする――そう断言できる行動だけをしろ。いいな?」


 珍しく真面目な顔で問われ、才木は表情を引き締めた。陣内は才木の手から辞表を取り上げ、小さく丸めてゴミ箱に捨てた。ちょうどそのとき、葛城と棗がオフィスに現れた。


「おはようございます」

「おはよう。珍しく早いな、陣内」


 陣内はへらへらと笑った。


「まあ、やらなきゃいけない仕事がありましてね」


 身分証と拳銃を身に着けながら、才木は自分のデスクに戻った。椅子に座り、引き出しを開けたところ、見覚えのない千円札が出てきた。複数枚ある。


「なんですか、これ」

 訊けば、「今日で四十六日目」と、陣内が答えた。


「お前の勝ちだよ」


 そういえば、と思い出す。配属されたばかりの頃に賭けをした。自分が何日で辞めるかどうかの。


「一万払って儲けが三千円だけってのも、あんまり勝った気しないですけど――」


 ところが、千円札を数えてみたところ、六枚あった。――おかしいな、と思う。あのとき賭けていたのは、陣内と綿貫と才木の三人だけのはずだ。


「……まさか、棗さんも俺が辞める方に賭けたんですか」


 才木は振り返り、棗を見た。図星のようだ。棗はパソコンで顔を隠した。


「ニコも賭けてたぜ」と陣内が付け加えた。


 陣内、柴原、綿貫、棗、ニコラス。五人も賭けに参加していたとは知らなかった。だが、千円札は六枚だ。六人が今回の賭けに興じたことになる。

 あと一人は――


「課長!」


 葛城のデスクに向かって才木は叫んだ。ガラス越しに葛城は目を逸らし、聞こえていない振りをしていた。


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