#5 trauma-④


 その日はよく眠れた。認めたくはないが、陣内が傍にいることで安心したのかもしれない。朝の七時過ぎに目を覚まし、才木は仮眠室を出た。オフィスにはまだ誰もいなかった。

 ――陣内以外は。

 彼はいまだに課長の部屋で寝ている。アイマスクで目を隠し、ソファの上で仰向あおむけになっている姿がガラス越しに見えた。何度かドアをたたいてみたが、起きる気配はなかった。才木は放っておくことにした。

 身支度を整える。鼻が利く同僚がいるので体臭には余計に気を遣う。トレーニングルームでシャワーを浴び、予備のシャツに着替えてオフィスに戻ると、ちょうど陣内が出勤した葛城に叩き起こされ、ソファから追い出されているところだった。

 今度は陣内がシャワー室へ向かう。その間に他のメンバーも姿を見せた。陣内と才木の匂いを交互に嗅ぎ、「同じシャンプーの匂いがする。二人、デキてるんすか」と冗談を言う柴原に、さすがの能力だな、と才木は妙に感心してしまった。


「昨日、ここに泊まったんですよ」


 ビールの空き缶を片付けながら告げると、柴原はすべてを察したような表情で陣内を一瞥し、「無理やり付き合わされた?」と言った。


「俺も新人の頃、よく相手させられてたなぁ」


 陣内は否定することなく、「次はお前が付き合えよ、シバ」とにやついた。

 面子メンツが揃ったところで捜査会議に移った。各々おのおのの報告に耳を傾ける。綿貫わたぬきと柴原が調べた予備校の元受講生の中にも、クラスで錠剤が配られていたと証言する者が数人いたそうだ。

 綿貫が言う。


「どうやら、全員に配っていたのは本当にビタミン剤で、一部の生徒にだけドープを渡していたようです。ある受講生が話していました。最初にもらった薬を飲んでもなんともなかったのに、二度目の模試前に配られた薬を飲むと記憶力が上がった、って。彼は一度目の模試の成績が芳しくなく、講師にも心配されていたそうです」

「出来の悪い生徒をドーピングしてたのか」


 陣内が首を捻った。


「そんなことして、こいつはもうかんの? 給料より薬代の方が掛かるんじゃね?」


 ドープは末端価格数十万で取引されている。粗悪品を安く仕入れたとしても万単位。そんな代物を生徒に無償で配っていたら、確実に赤字だろう。


「ここまできたら、もうお金の問題じゃないのかもしれません」

「じゃ、何の問題?」

「プライドでしょうか。自分のクラスから一人も不合格者を出したくないっていう、ある種の執着というか」


 佐藤俊也の一件が頭をぎった。プロ野球選手である彼は、自身の打撃成績を維持するためにドープを服用していた。それと同じことなのかもしれない。角谷のクラスは合格率百パーセントをうたっている。その記録を死守するために大枚をはたいても不思議ではない。


「自分の名誉と経歴を汚さないために、生徒をヤク漬けにしてんのか」


 りつかれてんなぁ、と陣内は肩をすくめた。


「入手経路が気になるっすよね。……まあ、この人かなりの有名人で金持ちだし、コネと金はあるでしょうけど」

「未だに生徒にドープを配っているとしたら、どこかで必ず薬を仕入れているはずだ。角谷を監視していれば、売人と接触する瞬間を押さえられるかもしれない」


 葛城の指示で、チームは張り込みを開始した。

 才木と陣内は角谷の自宅、綿貫と柴原は職場だ。角谷の自宅は都内の高級住宅地にある。気付かれないよう距離を取って車をめ、監視する。

 一時間ほど経っても角谷に動きはなかった。念のために確認したところ、予備校にはまだ出勤していないそうだ。自宅の駐車場には、角谷の愛車のポルシェが停まったままだった。

 しばらくすると、「……変だな」と、陣内が呟いた。


「どうしたんですか」

「いや、今さ、宅配業者が来てんだけど」


 陣内が角谷の自宅を指差す。かろうじて家の前に車が停まっているのは見えるが、才木の目ではそれが何の車かまではわからなかった。


「インターフォン押しても、角谷が出てこないみたいなのよ。業者がポストに不在票入れてる」


 陣内は車を降りた。才木もドアを開けた。どこ行くんですかと問えば、陣内は一軒家に視線を向けたまま答えた。


「確認してくる」

「俺も行きます」


 歩を速める陣内を、才木は追いかけた。陣内は勝手に角谷宅の敷地に足を踏み入れ、ドアに手を伸ばした。


 ――鍵が開いている。


 陣内がすぐに銃を抜いた。才木も倣い、後に続く。


「俺は上に行く」


 陣内が指示を出した。

 ドアを開け、中に足を踏み入れる。二手に分かれることになった。才木は一階を、陣内が二階を確認する。陣内が忍び足で階段をのぼっていく。才木は廊下を進んだ。銃を構えたまま、ひとつひとつ部屋を調べていく。トイレ、洗面所、浴室、キッチン

――最後にリビング。異常はない。


「――才木、こっちだ」


 不意に、陣内の叫び声が聞こえた。

 急いで階段を駆け上がる。陣内は寝室にいた。ベッドの上では、角谷が仰向けに寝ていた。その胸元が赤く染まっている。――血だ。


「まだ息がある、救急車を呼べ。警察もだ」


 陣内が鋭く命じた。

 頷き、才木はすぐに電話をかけた。

 角谷の胸元を押さえて止血しながら、

「……くそ、やられた」と、陣内が舌打ちした。


「まだあったけえ」


 角谷が刺されてから然程さほど時間は経っていない、ということだ。犯人はつい先刻までこの家の中にいた。自分たちが張り込んでいる最中に侵入し、角谷を手にかけたのだ。

 才木は周囲を見渡した。床にナイフが落ちている。凶器のようだ。血が付いている。見覚えのある形だった。――刃渡り十五センチほどの、サバイバルナイフ。


「……才木?」


 声をかけられるまで、才木は自分の体が震えていることに気が付かなかった。

 また思い出してしまった。あの光景を。


「顔色が悪いぞ、大丈夫か」


 陣内が訊いた。殺人現場に居合わせて青ざめている情けない奴だと思われただろうか。――その方がよかった。

 指の痛みがぶり返してきた。大丈夫です、と震える声で答えた。

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