#5 trauma-②



 翌日、才木は出勤早々課長に報告した。吉岡と宮崎が同じペンを持っていたことを撮影した写真を見せながら説明すると、葛城かつらぎは秀聖ゼミナールの名をいて目を丸くした。デスクの引き出しを開け、秀聖ゼミナールのパンフレットを取り出した。

 なぜ彼がそんなものを持っているのかは気になるが、聞かなかった。

 同じ予備校に通っていた吉岡隆太と宮崎陽太――ただの偶然かもしれない。だが、もし偶然でなければ、この予備校の中で薬が蔓延まんえんしている可能性も考えられる。

 調べてみるか、と葛城は腰を上げ、柴原しばはらにパンフレットを手渡した。


「シバ、この予備校に行って過去の受講生リストをもらってこい。なつめはそのリストの中に薬物関係の前科がある者がいないか調べてくれ」


 そのときだった。才木は不意に猛烈な吐き気に襲われた。オフィスを抜け出し、慌ててトイレに駆け込む。便器の中に嘔吐おうとした。

 原因はわかっている。薬の副作用だろう。

 ニコラスの忠告を無視し、用法容量を守らなかったせいで、体に拒否反応が出ている。

 洗面台で口の中をゆすいでいたところ、またもや鏡の中にあの男の幻影を見た。

 どくりと心臓が跳ね上がる。動悸どうきが激しくなり、悪寒がした。寒気がするのに、額には汗がにじんでいる。指先に激痛が走り、てのひらが震えた。才木は指先を強く握った。痛みは激しくなる一方だ。

 このままでは仕事にならない――才木は上着のポケットから薬を取り出した。錠剤を三粒、掌の上に出し、口の中へと放り込むと、水道の水で喉に流し込んだ。

 才木はゆっくりと息を吐いた。深呼吸を繰り返すうちに、徐々に心が落ち着きはじめた。指の痛みも、鏡の中の男もいつの間にか消えていた。顔を洗い、トイレを出る。

 一時間ほど経って、柴原が戻ってきた。過去五年分の受講生のデータと前科者リストを照合したところ、五十三人が薬物を使用し逮捕されていたことがわかった。全員が志望校に合格し、有名校に通う大学生だった。


 その結果に、「五十三人か。今のご時世じゃ、そう多いとも言えないな」と葛城は渋い顔になった。


 秀聖ゼミナールは毎年数百人の学生を抱えている。その中の五十三人に前科があったとしても、この予備校が関係しているとは断言できない。大学に入ってからドラッグを覚える者は少なくないからだ。


「やはり偶然でしょうか」


 肩を落とした才木に、「そうでもないみたいですよ」と、棗がキーボードを叩きながら言った。


「この五十三人中、四十一人が秀聖ゼミナールで同じ授業を受講していたようです。『理数強化特別クラス』っていうオプション講義なのですが」


 才木たちは予備校のパンフレットを開いた。各授業の説明に目を通す。理数強化特別クラスは定員十五名。担当講師は角谷すみや利治としはる――この予備校一の有名カリスマ講師だ。日本最難関の国立大の理系学部の出身で、卒業後は海外の大学院に進んでいる。


「この講師の授業を受けた生徒は、志望校合格率百パーセントと言われているそうです。あまりにも合格率が高いため、試験問題を横流ししているのでは、という疑惑で騒ぎになったことも過去にありました」

「授業料は恐ろしく高額だが、それだけの価値があると思われてるんだろうな」

「受講希望者が殺到するため、毎回選抜テストを実施してふるいにかけているようですね」


 成績優秀者のみが受講できる少数精鋭クラス――そんな秀才たちが、卒業後に次々と人の道を踏み外していることに、違和感を覚えないはずがない。


「その四十一人、全員の居場所はわかるか?」

「五人はすでに死亡しています。十八人は現在も刑務所で服役中のようです。更生施設や病院に入院しているのが五人。出所して社会に出ているのが八人で、残りは消息不明ですね」


 手分けして話を聞いてこい、と葛城が命じた。担当を振り分け、才木と陣内は関東圏内の刑務所に収監されている者から話を聞くことになった。


「よくわかったな、共通点が予備校だって」


 車に乗り込んだ陣内が言った。


たのか?」

「はい」


 うそいた。

 あの予備校を探り当てたのはまったくの偶然であった。能力が発動したわけではない。だが、今は能力の手柄にしておきたかった。

 自分でも気付いていた。自宅で襲撃されたあの夜以降、自分の能力が発動しなくなっていることに。気付いてはいたが、気付かないふりをしたかった。おそらくモルヒネが原因だろう。あの薬を服用してからというもの、自分の感覚が鈍くなっているようだった。才木の第六感が、鎮痛剤の効力によって抑制されているのだろう。

 良くないことだとわかっている。やめなければならないと思う。いつかは恐怖に打ち勝たなければ、と。

 三十分ほどで目的地に到着した。東京第二拘置所は、急増する犯罪件数で各刑務所がパンク状態になり、数年前に新設された矯正施設である。手続きを済ませた二人は、面会室に案内された。アクリル板で仕切られた小部屋――パイプ椅子に腰を下ろし、才木たちは受刑者と話をした。

 まずはあえて捜査の件を伏せ、麻薬取締局が実施している研修の一環だと説明し、「麻薬に手を出したきっかけはなにか」を尋ねた。最初に話を聞いた三人は皆、口をそろえて「大学やバイトの先輩に勧められた」と答えた。

 そして、その感覚が癖になりやめられなくなったと。たった一度の、ほんの軽い弾みのような経験がその後の人生を狂わせていた。

 興味深い話が聞けたのは、七人目の受刑者を聴取していたときのことだった。


「――俺がこうなったのは、あの予備校のせいなんです」


 横山よこやまという名の受刑者が、そんなことを言い出した。彼も難関大学に合格したが、在学中に薬物使用で逮捕されている。


「あのクラス、模試前になると毎回錠剤が配られるんですよ」


 メモを取りながら、才木は首をひねった。


「錠剤?」

「はい。角谷先生はただのビタミン剤だって言ってました。試験前に体調を整えられるように、って。……でも、あれは絶対にビタミン剤なんかじゃない。ドラッグですよ。あれを飲んだ後はハイになって、徹夜も苦じゃなかった。感覚が鋭くなったような感じで、何でもすっと頭に入ってきて、暗記も簡単にできるんです。ヤバい薬かも、って言ってる人もいた」

「ヤバい薬だとわかってたのに、飲んだのか?」

「そりゃあ、成績を上げたいですからね」


 陣内の問いかけに、横山は悪びれもせずに答えた。


「俺、成績が急に下がっちゃって、もうどうしようかってすげえ焦ってたんすよ。模試の結果もE判定で。でも、その薬のおかげで次の模試ではB判定まで上がって、最終的には無事に合格できました。クラスの他のやつらも薬のことは薄々気付いてたけど、みんな黙ってた。警察にチクろうなんて思う奴はいなかった。だって、黙ってれば合格できるし、将来安泰なんだから。それで自分の成績が上がるんだったら、先生の言うことを訊いておこうって、あのクラスの暗黙のルールになってて」

「……将来安泰、ねぇ」


 陣内がつぶやいた。横山を拘束している手錠を一瞥いちべつし、鼻で笑う。


「たしかに飯と寝床には困らねえな」


 陣内の意地の悪い言葉に、横山は憮然ぶぜんとした顔になった。


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