#5 trauma-①


 翌日、目が覚めたのは朝の十時を過ぎた頃だった。久々によく眠れたが、清々すがすがしい気分ではなかった。少し気怠けだるさが残っているのは、薬のせいだろう。昨夜は何度かトラウマに襲われ、二度、向精神薬の力を借りてしまった。

 ホテルの部屋に置かれている小型テレビの電源を入れる。ニュース番組というのは人を憂鬱にさせるためにあるのではないかと疑いたくなってしまうほど、今朝のラインナップは酷いものだった。無差別殺人、政治家の汚職、有名俳優の薬物所持――相変わらず不幸話だけを集めてきたかのような構成に、朝っぱらから嫌な気分にさせられてしまう。

 くだんの大学生の薬物中毒死事件が一瞬たりとも報道されていないことに引っかかるものを感じながら、才木さいきはチャンネルを変えた。民放の番組で、薬物乱用を問題提起したドキュメンタリーが放送されている。つい目が留まってしまうのは職業病だろう。番組のタイトルは『麻薬大国・日本』だ。麻薬大国と呼ばれていたのは、十年ほど前まではアメリカやメキシコ、中国だった。

 その番組では、例の通り魔事件も取り上げられていた。才木の配属当日に発生したまわしい事件である。犯人は薬物中毒者で、何の罪もない人間の命を奪った。事件の詳細から被害者遺族のインタビュー、犯人である吉岡よしおか隆太りゅうたの生い立ちまでもが紹介されている。専門家の意見を交えながら、なぜそんな不条理な事件が起こってしまうのか、ナレーターが神妙な声色で疑問を投げかけていた。

 あれは、才木にとっても忘れられない事件だ。新人にはハードな現場だった。幸いかすり傷で済んだが、生まれて初めて撃たれたし、危うく死ぬところだった。腕の痛みが消えるまでの間、才木はそんな目に遭わせた陣内じんないのことを恨んだ。そして、犯人を躊躇いなく射殺した陣内を軽蔑していた。今思えばあれは、自分がちゃんと動けていたら犯人を生きたまま逮捕できたのではないかという罪悪感から目をらしたくて、陣内に責任のすべてを押し付けようとしていたのかもしれない。

 たった一か月半ほど前の出来事が、やけに懐かしく感じた。それだけ特捜課でまれてきたということだろうか。

 今日は非番だ。ホテルにいても特にすることはないし、できれば気晴らしに出掛けたい。窓の外を見上げ、天気を確認する。空は曇ってはいるが、梅雨の訪れを感じさせるような蒸し暑さだ。外食がてら散歩でもしようと思い立ち、才木は着替え、部屋を出た。

 目的地もなくふらふらと徘徊はいかいしていたところ、自然と件の通り魔事件の現場に足が向いていた。

 あのドキュメンタリー番組の影響を受けたのだろうか。

 吉岡隆太が銃を片手に立てこもったコンビニは、今では何事もなかったかのように営業していた。殺人が起こったことをすっかり忘れてしまったような住宅街をしばらく歩いていたところ、才木はふと足を止めた。陰険な雰囲気を醸し出している一軒家を見つけたからだ。

 表札には『吉岡』の文字。家を囲む塀は、無数の張り紙で埋め尽くされている。


 人殺し、死ね、殺人鬼の身内も同罪、家族全員死んで償え――どれも罵詈ばり雑言ぞうごんが殴り書きされていた。

 何とも言えない気分になり、才木は息を吐いた。

 門扉の真ん中に陣取っている『出ていけ』と書かれた張り紙を剥がし、くしゃくしゃに丸める。


「……うちになにか御用ですか」


 警戒心をき出しにした声が聞こえた。振り返ると、女性が立っていた。一度会ったことがある。吉岡が死亡した翌日、聞き込みのために陣内とこの家を訪れた。そのときに話を聞いた相手がこの女性、吉岡の母親だ。


「お久しぶりです」


 才木の顔を見て、「ああ、あのときの」と母親が思い出した。あれからまだ一か月半しかっていないはずなのに、母親はずいぶんと老け込んでいた。この家の有り様からして、心労のせいだろうと容易に想像がつく。陣内が見たら、玉手箱でも開けたのかと思った、などと言いそうだ。それほどの変わりようだった。


「たまたま近くを通りかかって」と才木が言い訳のように告げると、母親は中へと招き入れてくれた。

 リビングに案内され、「……酷いですね、嫌がらせ」ソファに腰を下ろし、才木は気の毒そうに告げた。


「当然のことです」


母親は才木にコーヒーを差し出しながら答えた。すべてを諦めたような、淡々とした口調だった。


「それだけのことを、息子はしたんですから」


 だからといって、加害者家族がここまで苦しめられなければならないのだろうか。   加害者とその身内を同一化する風潮は、いつになっても変わらないな、と才木は思った。


「……こんなことを言ったら、母親失格かもしれませんが」


 そう前置きしてから、母親は本音を吐露した。


「息子の死を悲しんではいるんですが、どこかほっとしている自分もいるんです。いなくなってくれてよかった、って」


 浪人生だった吉岡は、受験のストレスと麻薬依存から度々問題行動を起こしていた。近所の子供に向かって怒鳴りつけたり、隣の家が飼っている犬に石を投げつけたりと、かなり悪質な報告も上がっている。それだけにとどまらず、家庭内では母親に暴力を振るっていたという。


「これでもう殴られなくて済むって、ほっとしているんです、私」


 最低ですよね、と母親は目を伏せた。


「いつも荷物が届いて、息子がネットでなにか買っていることはわかっていたのに……おかしいと思っていたのに、問い詰めなかった。殴られるのが怖くて、口を出せなかったんです」


 あの子とちゃんと向き合えていたら――自分を責めるように語る彼女の姿に、才木は胸を締め付けられる思いだった。

 同じ中毒者の身内を抱える者として、他人事とは思えなかった。薬が切れると、母は才木を殴った。こんな母親なんかいなくなってくれたらいいと、願ってしまったこともあった。彼女の存在を煩わしく思ったことなんて、一度や二度じゃない。

 自分の身内に思いをせていた、そのときだった。


ガシャン――とガラスが割れるような音がした。


 二階からだ。吉岡の母の顔が強張こわばった。

「俺が見てきましょうか」と才木が言うと、彼女は小さくうなずいた。

 母親を引き連れ、階段を上がる。二階の突き当りに吉岡隆太の自室があった。ドアを開けると、まず割れた窓ガラスが目に入った。何者かが石を投げ込んだようだ。子どもの拳ほどの大きさをしたその石は、白い紙に包まれていた。開いてみると、読み上げるのも嫌になるような言葉が書き連ねられていた。

 警察に通報を、という才木の言葉に、母親は「いいんです」と首を振った。

 窓の外を確認する。嫌がらせの犯人はすでに姿を消していた。才木はカーテンを閉め、部屋を見渡した。吉岡の自室はそのままにしてあるようだ。学習机の上にはペン立てや参考書が置かれていて、いかにも浪人生の部屋らしい雰囲気だった。

 ふと、才木の視線がペン立てに留まった。見覚えのある物を見つけた。水色のシャープペンシル――間違いない、前にも同じ物を見た。

 このペンは、と才木が指差すと、


「これですか?」


母親は不思議そうに答えた。


「息子が通っていた学習塾で、受講生全員に配っていたものです。受験のお守り代わりに」

「学習塾?」

「はい」


 母親は才木にそのペンを手渡した。白い文字で『秀聖しゅうせいゼミナール』と書かれている。必勝、絶対合格、といった縁起のいい言葉も並んでいた。

 これをどこで見たのか、才木ははっきりと思い出した。合成大麻で中毒死した大学生――宮崎みやざき陽太ようただ。彼もこのシャープペンと同じものを持っていた。


「金銭的な問題もあって途中で辞めてしまったんですが、息子は有名な講師の特別授業を受けていました」


 通り魔事件を起こした薬物中毒者の浪人生と、薬物中毒死した有名大学の学生。どちらも高校時代にドープを服用していた疑いがあった。

この二人が同じ予備校に通っていたことが単なる偶然だとは、才木には思えなかった。

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